理不尽な仕打ち、教育虐待、ネグレクト……。子どもを自らの所有物のように扱い、生きづらさなどの負の影響を与える「毒親」。
その中でも目に見える形ではなく、精神的で不可視なケースが多い「毒母と娘」の関係にフォーカスし、その毒への向き合い方とヒントを探ったのが、旦木瑞穂氏が著した『毒母は連鎖する 子どもを「所有物扱い」する母親たち』だ。
毒母に育てられ、自らもまた毒母になってしまった事例など、現代社会が強いる「家庭という密室」の闇に取材し、過酷な現実に迫っている。
自身も小学生の娘を持つ母親だという旦木氏は、本書のなかで登場する8人の女性の取材を通じ「『子どもを自分の所有物扱いしないこと』ただ1点だけに集中して子育てをしていきたいと考えている」と述べるとともに、「毒親というものは、「絶対にならない」という保証は誰にもなく、誰もがなってしまう可能性があるとも思っています」と話す。
両親の離婚後、母親やその彼氏、もしくは継父から虐待を受ける子どものニュースが後を絶たない。古い表現だが、”自分のお腹を痛めて産んだ我が子”の、命を奪うほど虐待する母親の心理を理解するのはなかなか難しい。
だが少なくとも、母子家庭でも両親が揃った家庭と変わらず子どもを育てることができる社会であったならば、そのような悲惨な事態に陥る母子を減らすことができるのではないか。
両親の離婚、継父との同居をきっかけに、母親と継父からの身体的・精神的虐待が始まり、8歳から15歳まで約7年間虐待を受け続けた、現在20代の女性の事例を紹介する。
現在20代後半の緑川由芽さん(仮名)との出会いはX(twitter)だった。「みどり ゆめ子」という名前と、「虐待サバイバー|小5~中3まで虐待|鬱病|解離障害|アダルトチルドレン|毒親|性被害……」というプロフィール欄、ドギツイ色彩を多用した自画像と思われるアイコンが目を引いた。最初の取材のときは、当時まだ2歳の息子がいたため、取材はメールで行った。
それから1年3ヶ月ほど経った5月。息子が4月から幼稚園に入園したため、その間に対面取材を行うことができた。小雨の降る肌寒い日だった。
彼女は150cm前後ほどの小柄な体格で、メガネをかけていた。黒を基調とした服装に、マスクも傘も黒。段の入った黒髪は、横髪は胸元辺りまで。後ろ髪は腰くらいまであった。
緑川さんは、中卒で建設会社に勤める父親と、短大を出て同じ建設会社の事務員をしていた母親が交際中、23歳のときに妊娠が発覚し、”授かり婚”の末に生まれた。
緑川さんが物心ついたとき、すでに両親は夫婦喧嘩が絶えない状態だった。自由奔放な父親は酒癖が悪く、稼いだお金をお酒や女遊び、パチンコなどに使ってしまうため、いつも母親はイライラしていた。罵り合うのは日常茶飯事で、殴り合いの喧嘩も多く、借りていたアパートの壁やふすまはボロボロ。ところどころに血の痕がついていた。
しかし、そんな父親でも娘は可愛かったようだ。仕事から帰ると、緑川さんをお風呂に入れることだけは欠かさなかった。
ただ一度だけ、父親が酒を飲んだ後に緑川さんをお風呂に入れていたところ、父親が居眠りをしてしまい、生後数ヶ月の緑川さんが溺れたことがあった。たまたま異変に気付いた母親が助け上げ、救急車を呼んだため事なきを得たが、そうでなければ命を落としていた。
母親は教育熱心で、2歳頃から緑川さんを幼児教室に通わせた。年少クラスから幼稚園に入園させると、小学校受験を強要。食事やトイレ、入浴の時間以外は夜中の2時~3時まで勉強させ、緑川さんが期待に応えられないと、怒鳴ったり叩いたりした。
父親は「幼い子にこんな夜遅くまで、泣きながら勉強させるなんておかしいだろ!」と憤り、小学校受験に反対。仕事が休みの日は、母親から緑川さんを引き剥がし、外へ遊びに連れ出してくれた。
それを聞いて私は、小学校に上がったばかりの頃、母から夜遅くまで勉強を強要されていたことを思い出した。銀行マンだった父が、夜中の11時~12時くらいに帰宅すると、緑川さんの父親同様、母を注意してくれた。
母による勉強の強要は、私が小学校3年生になる頃まで続いたように記憶しているが、強要されなくなった理由は、3歳下の弟に手がかかるようになったためだと私は考えている。
緑川さんにとって父親は、母親の教育虐待から自分を守ってくれる唯一の存在だった。ところが緑川さんが年中の頃、両親が別居。母親は緑川さんを連れて実家に身を寄せる。
写真:iStock
祖父母はラーメン屋を営んでいた。祖母と母親の仲は幼い緑川さんから見ても良いとは言えず、常に祖母は母親に怯えていた。
当時不動産屋の事務の仕事をしていた母親は、朝、緑川さんを幼稚園に預けるものの、幼稚園から帰ってくる時間には迎えに行くことができない。そのため祖母が迎えに行き、ラーメン屋に連れてきて遊ばせていた。
連日あまりにも帰りが遅くなる母親に対し祖母は、「もうちょっと早く帰ってきてあげたら?」と言うが、カチンと来た母親が、「私は忙しいのよ!」と怒鳴ると、すぐに黙ってしまった。
結局緑川さんは受験に合格し、私立の小学校に通い始めた。しかし緑川さんが8歳の頃、両親が離婚する。離婚の決め手となったのは、父親が母親の実家に借金をしたことだった。
緑川さんの親権は母親が持つことになり、祖母の家での暮らしが続いた。
しかし離婚から半年ほど経った頃、母親は「引っ越しするよ」と言って、祖母の家から緑川さんを連れ出した。緑川さんは、「おばあちゃんといる! 引っ越しなんてしたくない!」と言って泣いたが、聞き入れられなかった。
連れて行かれた先には、当時31歳の母親より一回り以上年上に見える男性がいた。母親は嬉しそうに、「お父さんて呼んであげて」と言う。
緑川さんは察した。後で知ったことだが、男性は母親が離婚前、夫が作った借金に悩み、緑川さんの小学校の入学準備ができずに困っていたところ、力になってくれたらしい。緑川さんの幼稚園時代、連日母親の帰りが遅かったのは、この男性と会っていたからだったのだろう。
男性はイベント会社を経営しており、44歳で既婚者だったが、妻との間に子どもはおらず、結婚生活は破綻していた。
妻は夫が緑川さんの母親と不倫していることを知っていたが、頑なに離婚を拒み続けていた。焦れた緑川さんの母親は、男性との子どもを妊娠。お腹が目立ってきた頃、男性との同居に踏み切り、男性に「早く離婚しろ」というプレッシャーを与える作戦に出たようだ。
妊娠してからというもの、母親は「つわりが辛くて動けない」と言って、ほとんどの家事を放棄した。緑川さんは最初、「妊娠して大変なのかな」と思い、母親を気遣い、できる限りの家事を代わった。
継父(便宜上継父と言い換える)は、週の半分を本妻、残りの半分を緑川さんの母親と過ごしていたが、やがてそのしわ寄せは継父にもおよび、食事は継父が買ってきたお惣菜や弁当ばかりになっていく。
祖母の家を出てから3ヶ月ほど経った頃、緑川さんが小学校から帰ってくると、玄関に鍵がかかっている。鍵を持たせてもらっていない緑川さんは、家の前にある公園で遊びながら、母親か継父の帰りを待った。
一年で最も冷え込む2月だった。辺りが暗くなってくると、子どもたちは帰宅していく。家の前で座り込んでいると、緑川さんは眠気に襲われ、うとうとしながら母親か継父の帰りを待った。
22時頃、母親と継父が揃って帰宅。母親は、「あら、居たの?」と言うだけで、悪びれる様子は全くない。2人はどうやら、生まれてくる子のために、ベビー用品を買い揃えに出かけていたようだ。
「今思えば、母が変わったのは、妹の妊娠がわかってからでした。それまで私に100%向けられていた愛情が妹に向けられ始め、100%を超え、120%や150%になったとき、私に対してはマイナス20%、マイナス50%となっていき、虐待が始まったのかもしれません」
妹が生まれると、母親の緑川さんへの愛情は次第に薄れていった。同時に虐待はさらにエスカレートしていく。その詳細は【連載第2回】<「ブス」「人殺し」「お前なんか産まなきゃ良かった」…浴槽に沈められ「ゴミ扱い」された、20代女性が「母と継父」から受けた虐待の壮絶>でお伝えする。
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