日本政府観光局(JNTO)によると、10月の訪日外国人客数は251万6500人となり、’19年同月を0.8%上回った。日本への入国制限が解除されて以降、月別の訪日客数がコロナ前の水準を超えたのは初めてだ。
国別では韓国が最も多く、63万1100人。一方、コロナ前に最多だった中国は25万6300人。8月に日本への団体旅行が解禁され、9月末から国慶節の大型連休があったものの、中国人観光客は’19年10月比35%の水準にとどまっている。
「コロナ禍での厳しい渡航規制の下で、中国人は海外旅行を我慢してきました。3年半ぶりに解禁され、海外旅行先が欧米、東南アジア、日本と分散しているんでしょう。
中国と日本を結ぶ航空便は9月あたりから復便し始めていますが、地方便の回復が遅れていることもあり、コロナ前のレベルまで完全には戻っていません。その影響もあると思います」
中国人富裕層を中心とした80万人を超えるフォロワーを抱え、日本情報の発信や旅行コンテンツの提案などインバウンド支援事業を展開する「行楽ジャパン」社長の袁静さんは、そう説明する。
中国からの訪日客数は、今のところ伸びが鈍い。とはいえ、依然としてインバウンド需要を担う主要な外国人観光客であることは確かだ。インバウンド消費額を増加させる上では、中国人富裕層は特に大きな存在と言える。観光庁の「7-9月期の全国調査結果」によると、訪日外国人旅行消費額は中国が2827億円と最も多い。
ところで、その中国人富裕層、一体どのような人たちなのか。
「中国の富裕層は他の先進国より若く、主に30代、40代です。北京や上海をはじめ広州、深など大都市で働いていて、勤め先は大手ITやゲーム企業。毎月の手取りは40~50万円ですが、年収は株の配当なども入れると3000万から5000万円くらいでしょうか。資産は不動産なども含めて1億円以上になります」
そんな富裕層の中で、とりわけ日本への関心が高いのが行楽ジャパンのフォロワーたちだ。彼らの半数以は日本のマルチビザを取得しており、訪日5回以上のヘビーリピーターも少なくないという。
「たとえば、上海から東京までの所要時間は2時間40分です。上海から九州は90分。富裕層の人たちからすると海外旅行という感覚はあまりなく、年に数回、2泊3日か3泊4日で気軽に訪れる感じです。訪日の際は皆さん、大体ビジネスクラスを利用します」
中国人富裕層の訪日1回あたりの消費額はいかほどなのだろう。
「私たちがコロナ前の’19年に取ったデータだと、行楽のフォロワーが1度の訪日で使った金額は、航空券を含まず平均で1人42万円でした。今は円安なので、確実に42万円を超えているでしょうね」
かつては団体旅行の「爆買い」ばかりがクローズアップされた中国人観光客。そのイメージは、今の中国人富裕層にはもちろん当てはまらない。彼らの訪日旅行スタイルは、すでにコロナ前から変わり始めていた。
「中国人富裕層は何を求めて日本に来るかというと、一つは癒やしです。富裕層にとって癒やされる場の代表は温泉で、1泊か2泊は地方の温泉旅館に滞在したいという人がとにかく多い。ただ、大浴場が苦手なので、ほぼ全員が露天風呂付きの部屋を希望します」
彼らが宿泊するのは当然、高級温泉旅館や洗練されたリゾートホテルだ。
「人気が高いのは星野リゾートの『星のや』『界』、奈良と熱海の『ふふ』などですね。皆さん大体、1泊10万円くらいのスイートに2泊か3泊します。
日本の温泉旅館は2食付きが多いですが、中国のホテルにはディナーまでついている宿泊プランはありません。中国人富裕層にしてみると、『立派な食事までついて、この料金でいいの』という感じだと思います。夕食の時に有名銘柄の日本酒を頼んでもすごく安いですし。日本の旅館はとても良心的な値段なので、皆さんコスパの高さに満足して帰国します」
ただし、いわゆる「温泉旅館の朝食」には戸惑うようだ。袁さんは富裕層たちから「日本の旅館の朝食は、どうしてこんなに早く始まって早く終わるのか」とクレームに近い質問をされたことがあったという。
「富裕層の人たちは、癒やしを求めて日本に来ています。温泉にゆったり浸かって、好きな日本酒を飲んでいい気分でいるところに、『明日の朝食は7時にしますか、8時にしますか』と聞かれたら、『えっ』となるんじゃないでしょうか。
たとえば、朝食がお弁当でもいいと思うんです。お弁当と風呂敷が用意されていると、チェックアウトしてから公園でゆっくり食べることもできますから。中国の30代、40代の富裕層にとって旅の楽しみの一つは写真をSNSにアップすることなので、さまざまなおかずが美しく盛りつけられたお弁当は喜ばれると思いますよ」
中国人富裕層が訪日旅行に求めていることはもう一つある。「特別感」のある体験だ。
「最近、『釣りがしたい』とか『釣った魚を旅館に持ち込んで食べたい』といった要望をよく聞きます。もちろん、富裕層の人たちは節約するために自分で釣った魚を食べたいと言っているのではありません。彼らは特別な体験がしたい。そのために特別料金を払ってもいいと考えているんです。
コロナ前の’19年頃から富裕層の間では日本酒が人気で、行楽上海オフィスでは日本酒の知識を学ぶ利き酒教室を主催しています。受講料が約6万円と決して安くはない額にもかかわらず、すぐに定員になるほど大盛況なんです。海外旅行が解禁され、訪日の機会に日本酒の銘柄をじっくり吟味したい、地方の酒蔵をめぐってみたいという声も増えています」
買い物メインの「モノ消費」から、滞在そのものや体験重視の「コト消費」へとシフトしている中国人富裕層たち。東京を訪れる場合も、ショッピングに時間をかける人は少ないようだ。
「高級寿司店や日本料理店の予約をよく頼まれますが、東京での食事を楽しみにしている人は多いです。今日も、八雲茶寮(一軒家の和食料理店)の朝食を予約してほしいと頼まれました。
イタリアンやフレンチも人気があります。特に日本のフレンチは、食材を生かしているので中国人の口に合うんです。皆さん、パリのフレンチより東京のフレンチのほうがおいしいと言いますね。
夕食にかけるお金は、1人2、3万円といったところでしょうか。家族連れであれば、一度の食事に10万円くらいは普通に使いますよ」
日本の文化や芸術、エンターテインメントに関心を持つ富裕層も増えているという。
「劇団四季が好きな人は多いですし、クラシックコンサートやオペラを楽しみに東京に来る富裕層もけっこういます。
実は、上海は今、オペラに力を入れているんです。すごく立派なオペラハウスができていますし、上海で行われるいろんな舞台公演もクオリティが上がっています。そういうレベルの高いエンターテインメントに親しんでいる富裕層にとって、コンサートや舞台芸術が充実している東京は、魅力のある都市だと思います」
爆買い時代のイメージのまま中国人の購買意欲に訴えたり、訪日初心者向けの旅行プランを提案したりしていたのでは、もはや中国人富裕層の心を動かすことは難しそうだ。
ちなみに、行楽ジャパンが運営するコミュニティ「行楽エリートクラブ」の会員は50代、60代の富裕層が中心で、資産は30億円以上。そのクラスは、地方にひっそりと佇む一棟貸しの宿が好みらしい。
「行楽エリートの親日派には、日本でセカンドハウスを購入する人も多いです。大学生の子どもに日本の企業を1社買い与える人も中にはいますね」
円安の今、中国人富裕層による「日本の不動産爆買い」は加速するかもしれない。
袁 静(えん・せい)行楽ジャパン代表取締役社長。上海市生まれ。北京第二外国語大学卒業。早稲田大学アジア太平洋研究科修了後、日経BP社に入社。日本の魅力を中国へ伝えようと’07年から上海にて事業を展開し、’15年行楽ジャパンを設立。現在、上海と東京にオフィスを構え、中国での日本の観光PRに注力している。著書に『日本人は知らない中国セレブ消費』(日本経済新聞出版)。
取材・文:斉藤さゆり