学歴があれば「勝ち組」なのか、なぜ高学歴でも生きづらいのか。
発売たちまち4刷の話題書『高学歴難民』では、「こんなはずではなかった」誰にも言えない実態の数々に迫っている。
※本記事は阿部恭子『高学歴難民』から抜粋・編集したものです(登場人物は仮名で、個人が特定されることのないよう一部エピソードに修正を加えています)。
法科大学院が生んだ難民最近、17歳の高校生(受験時)が司法試験に合格した報道されていました。最年少の合格者だそうです。今後、記録は更新されるかもしれません。また、大学在学中に司法試験に合格する人もおり、必ずしも法科大学院に進学しなければ法曹資格を得られないわけではありません。
2004年から開始された法科大学院ですが、現在はその半数以上が廃校になっています。大学院の学費は高く、法曹資格を取得した後も奨学金の返済に苦労している人々もいます。こうした事情から、当初に比べて入学者も激減しました。花形と呼ばれる職業を捨てての挑戦に失敗し困窮生活を余儀なくされる、弁護士になった彼女の部下となり「ヒモ」と揶揄される、法律事務所で体験した学歴のない事務員からのいじめ……。法曹難民の行方を追います。CAから検察官への華麗なる転身を夢見て ──相澤真理(40代)母がこだわった「お嬢様」私の人生は、25歳まで完璧でした。前職は、国際線のキャビンアテンダント(CA)です。採用された時、両親は涙を流して喜んでいました。私は就職が決まるなり、出身大学の広報誌や地元メディアから取材を受けるようになり、人も羨む順風満帆な人生を歩み出しました。私は中部地方の、いわゆる「お嬢様学校」と呼ばれる私立の中高一貫校を卒業し、地元の私立大学に推薦入学しました。小さい頃から学校の成績は良く、運動会や学芸会でも活躍し、成績表にはいつも「5」が並んでいました。ダラダラするのが嫌いで、宿題でもなんでもすぐ取り組んで完璧にやる子どもでしたから、両親や先生からいつも褒められてばかりいる「いい子」だったと思います。私は会社員の父親と専業主婦の母親の下に長女として生まれ、2歳年下の弟がいます。就職して上京するまでは、地方都市で家族4人で生活してきました。母は私を「お嬢様」に育てたかったようで、私は幼い頃からピアノやバレエ教室に通わされていました。志望校も母が決めたようなものでしたが、経済的にゆとりのある家庭ではありませんでした。父親は高卒で母親は短大卒。父の年収は高い方ではありませんでした。それでもローンを組んで一戸建ての家を買い、子どもたちの教育費を捻出するため、母はいつも頭を悩ませていました。私立のお嬢様学校ですから、お金持ちの子が多く、友達は年に一度、家族で海外旅行に行っていました。うちは余裕がなく、旅行と言えば近県の祖父母の家に行く程度で、私は友達と話を合わせるために、海外の事情や空港の様子を調べるようになったんです。それが、CAを目指したきっかけです。大学の成績も良好で、氷河期世代の同期たちが就職活動に悪戦苦闘する中、私は難なく第一志望の職種に就くことができました。周囲からは羨ましがられましたが、私にとっては当然の結果と感じていました。入社後、私は誰よりも早く出社し、掃除をしたり、仕事を早く覚えたりするように努めていました。休日は語学教室に通い、体力が必要な仕事でもあるので、ジムで体を鍛え、万全に備えていたのです。憧れの職場は「地獄」に期待に胸を膨らませて入った職場でしたが、同僚たちとはみ合いませんでした。私は完璧に仕事がしたくて努力しているのですが、周りは飲み会とかプライベートな話題ばかりに夢中でついて行けませんでした。CAは花形の職業と言われますが、一部では「色物」のように扱われることもあります。私はこういう人たちが全体の評判を落としているのだと、軽蔑し、仲間に入ることはありませんでした。いつも時間ギリギリの行動でバタバタしている同僚のひとりは、物覚えが悪く、何度も同じことを私に尋ねるので、「一度で覚えて」と注意したことがありました。それでも改善が見られず、我慢の限界に達した私は上司に相談したのですが、融通が利かないのは私の方だと逆にお叱りを受けることに……。なんでも、彼女は乗客からの評判がすこぶる良く、私は口調がきつくてクレームが多いと……。真面目に努力しているより、要領よくヘラヘラしている方が評価される職場なのかと失望しました。客室でも屈辱的なことは日常茶飯事でした。ルールを守らないお客様に注意をすると「黙れブス!消えろ」などと暴言を吐かれることもしばしば……。それでも長期休暇で実家に帰ると、母親は「私の自慢の娘を見て」と言わんばかりに親戚を集め、鼻高々と、私に皆の前で仕事の話を披露させるのです。海外に行けることは本当に楽しかったのですが、職場では孤立し、いい思い出などありませんでした。「姉貴、本当に大丈夫なの?飛行機乗るといつも思うんだよ。姉貴にCAは向いてないってさ」弟は、私の性格を見抜いていました。「公務員とかの方がよっぽど向いているよ」弟の言うとおりだと思いました。正直なところ、できるものであれば、すぐにでも転職したかったです。それでも「石の上にも3年」と言われるように、次第に馴染んで状況は好転するだろうと考えていました。これまでは、仕事への期待が高すぎたのです。photo by gettyimagesところが、入社後3年目を迎えても、職場では孤立したまま、CAの仕事にやりがいは見出せませんでした。一度、通勤途中に交通事故に巻き込まれ、足を怪我して1週間の入院を余儀なくされたことがありました。病院で目覚めた時、「これで仕事に行かなくていい」とほっとしたのを覚えています。この頃から、既に軽い鬱状態が始まっていて、精神科にも通院していました。遅かれ早かれ仕事は続けられなくなると思っていましたが、一番気がかりだったのは母親です。こんな形で退社するなんて、きっとがっかりさせるだろうなと思うと、なかなか踏ん切りがつきませんでした。CAよりも社会的信用のある職種とか、企業に転職できないものか悩んでいました。弟に公務員に向いていると言われたことを思い出し、調べていたところ、目に入ったのが法科大学院の募集です。以前、何かの雑誌で、CAから司法試験を受けて検察官になった女性の記事を見たことがありました。「これだ!」私は雷にでも打たれたような衝撃を受けました。ようやく、心にかかっていた霧が晴れ、希望の光が差し込んできたのです。「CAは女性が長く続けられる仕事ではないと思ったの。法科大学院の募集が始まって、法曹への道が広がるみたいだから、25歳で退社して、30歳からは検察官としてスタートを切ろうと思うの」私は実家に帰省し、家族に検察官への転身を宣言したのです。母の反応が気になっていましたが、「まあ、凄い!真理ちゃんは小さい頃から優等生だったから、すぐに受かるわよね」母親はあっさりと転職の計画を受け入れてくれました「いろいろ挑戦できるのも若いうちだけだから頑張れ」父親も賛成してくれました。「真理ちゃん今度は検察官!かっこいい!」母親は、まだ大学院にさえ入学していないにもかかわらず、私が検察官になると親戚中に言いふらしており、恥ずかしい反面、自分の評価が下がっていない反応に胸を撫で下ろしていました。烙印となった学歴私の大学での専攻は英文学で法学部出身者ではないので、法科大学院は未修者の3年コースを選択しました。初めての分野なので、1年間は予備校に通い、4年後に試験を受け30歳で法曹デビューするという計画でした。法科大学院の第一志望はもちろん、「東京大学」です。目標は絶対高い方がいいでしょ?実はCAの同僚に、「相澤さん、所詮、地方の私大でしょ」って、学歴を馬鹿にされたことがあったんです。私も本当は、東京の大学に進学したかったんですが、うちは経済的に余裕がないので浪人はできないし、確実な推薦入試で、実家から通える大学を選ぶしかなかったんです。東大大学院を出て検察官になり、また注目を集めて、職場の同僚たちを見返してやりたいと意気込んでいました。次の目標が定まったことで、鬱からも抜け出すことができたのです。予備校生活は充実していました。時間を自由に使えて、やりたいことに専念できるのですから。ところが、入試の結果は散々でした。東大は無理でも、東京六大学のどこかに入れればと思っていたのですが、結局、引っかかったのは、卒業した大学より偏差値の低い大学の大学院でした。予備校の仲間たちも、有名な大学の大学院には合格できず、進学を断念する人もいました。都内の有名私立大学を卒業している男性は、「もし司法試験に合格しなかったら、微妙な学歴だけが残るよな……。学費も高いし、烙印になったらと思うと躊躇する……」彼が言った通り、学歴は私にとって烙印になりました。この時点で、止めておけばよかったのです。ここが、ターニングポイントだったと思っています。公務員試験に切り替えればよかったと……。それでもその時は、大学院はあくまで試験の切符を得るところで、最終的に司法試験に受かりさえすればキャリアは開けるのだからと進学を決めました。集まった学生たちは、意外にも私より学歴が高い人たちばかりで驚きました。負けず嫌いの私は勉強に励み、成績は上位でした。院生生活はとても充実していました。学生たちの年齢もバラバラで、いろんなバックグラウンドを持つ人と話ができました。男女の割合では男性の方が多く、なぜか気が楽でした。女性だけのコミュニティは、CA時代でもうこりごりでしたから……。順調に3年間を過ごし、最初の司法試験の受験日を迎えました。大学院の成績は良かったので自信はあったのですが、時間配分が上手くいかず、不本意な結果となりました。不合格です。とてもショックでしたし、30歳で転職という計画が狂い、途方に暮れました。大学院の学費は奨学金制度を利用していましたが、予備校の費用や生活費は貯金から出していました。アルバイトなどできる余裕はありませんし、あと1年、持つかどうか……。つづく「テレビや洗濯機などの家電はすべて売り、炊き出しに並ぶ…「お嬢様学校」を卒業した元CAの「凄惨すぎる事態」」では、2回目の受験を目指す相澤真理さんの壮絶な受験勉強の様子をみていきます。
最近、17歳の高校生(受験時)が司法試験に合格した報道されていました。最年少の合格者だそうです。今後、記録は更新されるかもしれません。また、大学在学中に司法試験に合格する人もおり、必ずしも法科大学院に進学しなければ法曹資格を得られないわけではありません。
2004年から開始された法科大学院ですが、現在はその半数以上が廃校になっています。大学院の学費は高く、法曹資格を取得した後も奨学金の返済に苦労している人々もいます。こうした事情から、当初に比べて入学者も激減しました。
花形と呼ばれる職業を捨てての挑戦に失敗し困窮生活を余儀なくされる、弁護士になった彼女の部下となり「ヒモ」と揶揄される、法律事務所で体験した学歴のない事務員からのいじめ……。
法曹難民の行方を追います。
CAから検察官への華麗なる転身を夢見て ──相澤真理(40代)
私の人生は、25歳まで完璧でした。
前職は、国際線のキャビンアテンダント(CA)です。採用された時、両親は涙を流して喜んでいました。私は就職が決まるなり、出身大学の広報誌や地元メディアから取材を受けるようになり、人も羨む順風満帆な人生を歩み出しました。
私は中部地方の、いわゆる「お嬢様学校」と呼ばれる私立の中高一貫校を卒業し、地元の私立大学に推薦入学しました。
小さい頃から学校の成績は良く、運動会や学芸会でも活躍し、成績表にはいつも「5」が並んでいました。ダラダラするのが嫌いで、宿題でもなんでもすぐ取り組んで完璧にやる子どもでしたから、両親や先生からいつも褒められてばかりいる「いい子」だったと思います。
私は会社員の父親と専業主婦の母親の下に長女として生まれ、2歳年下の弟がいます。就職して上京するまでは、地方都市で家族4人で生活してきました。
母は私を「お嬢様」に育てたかったようで、私は幼い頃からピアノやバレエ教室に通わされていました。志望校も母が決めたようなものでしたが、経済的にゆとりのある家庭ではありませんでした。
父親は高卒で母親は短大卒。父の年収は高い方ではありませんでした。それでもローンを組んで一戸建ての家を買い、子どもたちの教育費を捻出するため、母はいつも頭を悩ませていました。
私立のお嬢様学校ですから、お金持ちの子が多く、友達は年に一度、家族で海外旅行に行っていました。うちは余裕がなく、旅行と言えば近県の祖父母の家に行く程度で、私は友達と話を合わせるために、海外の事情や空港の様子を調べるようになったんです。それが、CAを目指したきっかけです。
大学の成績も良好で、氷河期世代の同期たちが就職活動に悪戦苦闘する中、私は難なく第一志望の職種に就くことができました。周囲からは羨ましがられましたが、私にとっては当然の結果と感じていました。
入社後、私は誰よりも早く出社し、掃除をしたり、仕事を早く覚えたりするように努めていました。休日は語学教室に通い、体力が必要な仕事でもあるので、ジムで体を鍛え、万全に備えていたのです。
期待に胸を膨らませて入った職場でしたが、同僚たちとはみ合いませんでした。私は完璧に仕事がしたくて努力しているのですが、周りは飲み会とかプライベートな話題ばかりに夢中でついて行けませんでした。
CAは花形の職業と言われますが、一部では「色物」のように扱われることもあります。私はこういう人たちが全体の評判を落としているのだと、軽蔑し、仲間に入ることはありませんでした。
いつも時間ギリギリの行動でバタバタしている同僚のひとりは、物覚えが悪く、何度も同じことを私に尋ねるので、「一度で覚えて」と注意したことがありました。
それでも改善が見られず、我慢の限界に達した私は上司に相談したのですが、融通が利かないのは私の方だと逆にお叱りを受けることに……。なんでも、彼女は乗客からの評判がすこぶる良く、私は口調がきつくてクレームが多いと……。
真面目に努力しているより、要領よくヘラヘラしている方が評価される職場なのかと失望しました。客室でも屈辱的なことは日常茶飯事でした。ルールを守らないお客様に注意をすると「黙れブス!消えろ」などと暴言を吐かれることもしばしば……。
それでも長期休暇で実家に帰ると、母親は「私の自慢の娘を見て」と言わんばかりに親戚を集め、鼻高々と、私に皆の前で仕事の話を披露させるのです。
海外に行けることは本当に楽しかったのですが、職場では孤立し、いい思い出などありませんでした。
「姉貴、本当に大丈夫なの?飛行機乗るといつも思うんだよ。姉貴にCAは向いてないってさ」
弟は、私の性格を見抜いていました。
「公務員とかの方がよっぽど向いているよ」
弟の言うとおりだと思いました。正直なところ、できるものであれば、すぐにでも転職したかったです。それでも「石の上にも3年」と言われるように、次第に馴染んで状況は好転するだろうと考えていました。これまでは、仕事への期待が高すぎたのです。
photo by gettyimages
ところが、入社後3年目を迎えても、職場では孤立したまま、CAの仕事にやりがいは見出せませんでした。
一度、通勤途中に交通事故に巻き込まれ、足を怪我して1週間の入院を余儀なくされたことがありました。病院で目覚めた時、「これで仕事に行かなくていい」とほっとしたのを覚えています。
この頃から、既に軽い鬱状態が始まっていて、精神科にも通院していました。遅かれ早かれ仕事は続けられなくなると思っていましたが、一番気がかりだったのは母親です。こんな形で退社するなんて、きっとがっかりさせるだろうなと思うと、なかなか踏ん切りがつきませんでした。
CAよりも社会的信用のある職種とか、企業に転職できないものか悩んでいました。弟に公務員に向いていると言われたことを思い出し、調べていたところ、目に入ったのが法科大学院の募集です。以前、何かの雑誌で、CAから司法試験を受けて検察官になった女性の記事を見たことがありました。
「これだ!」
私は雷にでも打たれたような衝撃を受けました。ようやく、心にかかっていた霧が晴れ、希望の光が差し込んできたのです。
「CAは女性が長く続けられる仕事ではないと思ったの。法科大学院の募集が始まって、法曹への道が広がるみたいだから、25歳で退社して、30歳からは検察官としてスタートを切ろうと思うの」
私は実家に帰省し、家族に検察官への転身を宣言したのです。母の反応が気になっていましたが、
「まあ、凄い!真理ちゃんは小さい頃から優等生だったから、すぐに受かるわよね」母親はあっさりと転職の計画を受け入れてくれました
「いろいろ挑戦できるのも若いうちだけだから頑張れ」
父親も賛成してくれました。
「真理ちゃん今度は検察官!かっこいい!」
母親は、まだ大学院にさえ入学していないにもかかわらず、私が検察官になると親戚中に言いふらしており、恥ずかしい反面、自分の評価が下がっていない反応に胸を撫で下ろしていました。
私の大学での専攻は英文学で法学部出身者ではないので、法科大学院は未修者の3年コースを選択しました。初めての分野なので、1年間は予備校に通い、4年後に試験を受け30歳で法曹デビューするという計画でした。
法科大学院の第一志望はもちろん、「東京大学」です。目標は絶対高い方がいいでしょ?実はCAの同僚に、
「相澤さん、所詮、地方の私大でしょ」
って、学歴を馬鹿にされたことがあったんです。
私も本当は、東京の大学に進学したかったんですが、うちは経済的に余裕がないので浪人はできないし、確実な推薦入試で、実家から通える大学を選ぶしかなかったんです。
東大大学院を出て検察官になり、また注目を集めて、職場の同僚たちを見返してやりたいと意気込んでいました。次の目標が定まったことで、鬱からも抜け出すことができたのです。
予備校生活は充実していました。時間を自由に使えて、やりたいことに専念できるのですから。
ところが、入試の結果は散々でした。東大は無理でも、東京六大学のどこかに入れればと思っていたのですが、結局、引っかかったのは、卒業した大学より偏差値の低い大学の大学院でした。
予備校の仲間たちも、有名な大学の大学院には合格できず、進学を断念する人もいました。都内の有名私立大学を卒業している男性は、
「もし司法試験に合格しなかったら、微妙な学歴だけが残るよな……。学費も高いし、烙印になったらと思うと躊躇する……」
彼が言った通り、学歴は私にとって烙印になりました。この時点で、止めておけばよかったのです。
ここが、ターニングポイントだったと思っています。公務員試験に切り替えればよかったと……。
それでもその時は、大学院はあくまで試験の切符を得るところで、最終的に司法試験に受かりさえすればキャリアは開けるのだからと進学を決めました。
集まった学生たちは、意外にも私より学歴が高い人たちばかりで驚きました。負けず嫌いの私は勉強に励み、成績は上位でした。
院生生活はとても充実していました。学生たちの年齢もバラバラで、いろんなバックグラウンドを持つ人と話ができました。男女の割合では男性の方が多く、なぜか気が楽でした。女性だけのコミュニティは、CA時代でもうこりごりでしたから……。
順調に3年間を過ごし、最初の司法試験の受験日を迎えました。大学院の成績は良かったので自信はあったのですが、時間配分が上手くいかず、不本意な結果となりました。不合格です。
とてもショックでしたし、30歳で転職という計画が狂い、途方に暮れました。
大学院の学費は奨学金制度を利用していましたが、予備校の費用や生活費は貯金から出していました。アルバイトなどできる余裕はありませんし、あと1年、持つかどうか……。
つづく「テレビや洗濯機などの家電はすべて売り、炊き出しに並ぶ…「お嬢様学校」を卒業した元CAの「凄惨すぎる事態」」では、2回目の受験を目指す相澤真理さんの壮絶な受験勉強の様子をみていきます。