学歴があれば「勝ち組」なのか?
月10万円の困窮生活、振り込め詐欺や万引きに手を染める、博士課程中退で借金1000万円、ロースクールを経て「ヒモ」に、日本に馴染めない帰国子女、教育費2000万円かけたのに無職……
発売即4刷の話題書『高学歴難民』では「こんなはずではなかった」、誰にも言えない悲惨な実態に迫っている。
本記事では〈テレビや洗濯機などの家電はすべて売り、炊き出しに並ぶ…「お嬢様学校」を卒業した元CAの「凄惨すぎる事態」〉にひきつづき、花形と呼ばれる職業を捨てて法曹界への挑戦したが失敗し、困窮生活を余儀なくされる女性の様子を追う。
※本記事は阿部恭子『高学歴難民』から抜粋・編集したものです(登場人物は仮名で、個人が特定されることのないよう一部エピソードに修正を加えています)。
貧すれば鈍す私は就職活動を始めました。前職の経験を生かして、子ども英会話教室なら時給はいいし、楽勝だろうと思ったのです。まず筆記試験がありましたが、これは完璧でした。ところが、2次面接のネイティブスピーカーとの面談では、単語がスムーズに出てこなかったのです。5年以上、生の英語に触れていませんでした。私はもっと準備しておくべきだったと後悔しましたが、案の定、結果は不採用でした。次の面接は有名ホテルの従業員採用です。面接官だった女性が、CA出身だと聞いて嬉しくなりました。面接が終了し外に出ると、フロントには著名人の姿がありました。格式の高いホテルで仕事ができるなら、ここに勤めるのもアリか……と、辺りを見回しながら歩き始めた時、「ちょっといいかしら」元CAの面接官に呼び止められたのです。「あ、はい」彼女は私を、ホテル内の大きな鏡の前に誘いました。「先輩だから、率直な意見を伝えてあげたいと思って」面接の時とは打って変わって厳しい目つきでした。「私に採用の可否を決める決定権はないの。だからわからないけど、あなたが採用されることはないと思う」「え?」「あなた、鏡を見てきた?」女性は私に鏡を見るように促しました。「今は身だしなみなど気にしていられないと思うけど、10年前、その姿で飛行機に乗れたかしら?私はドキッとしました。「あなたとても30代には見えない。ブラウスのボタンも取れてるし、スーツのボタンも取れてる。ストッキングは伝線してるし、そんな姿で面接に来た女性はいません。接客業ではありえない。よく鏡を見て、どんな仕事が向いているか、もう一度よく考えてみるべきよ」そう言って女性が立ち去った後、私は全身が映る大きな鏡の前にしばらく呆然と立ち尽くしていました。とにかく仕事をしなければと、細身のスーツに無理やり身体をねじ込んだ結果、ボタンははじけ、ストッキングも破れ、すでに美容院に行かなくなって2年以上が経過した髪の毛は白髪だらけでした。私は明らかに場違いなところにいて、きっと、第三者が見たら、炊き出しに並ぶ姿の方が私にマッチしているのだと、ようやく現実に目が覚めたのです。新興宗教に入信2社の面接を終えた後、これ以上面接に行くのは止めようと思いました。昔の同業者に今の私の惨めな姿を見られるのは嫌だからです。我に返り、なんて恥ずかしいことをしてしまったんだろう……穴があったら入りたい、そんな思いが込み上げてきました。やはり、受験を続けるしか、社会に私の居場所は作れないのか。私はこの時初めて、脳裏にはっきりと「自殺」という文字が浮かんだのを覚えています。もう、完全に疲れていたのです。失うものも、ありません。踏切の遮断機の音が聞こえてきた時、いっそのこと……と思った瞬間、私の葬式に集まる親戚のことが頭に浮かびました。「あんなに綺麗で輝いていた真理ちゃんがこんな姿に……」きっと皆、そう言って哀れむのでしょう。まず、激太りした姿に驚くはず。嫌だ、惨めすぎる……。生きよう。死んだ後の光景が浮かんだ途端それを打ち消すように、すぐ思い直しました。身内に対してのプライドだけは失っていなかったのです。私は家によく来ていた新興宗教の人に電話をし、支援を求めると、彼らはすぐに洋服や食べ物を差し入れてくれました。翌月から家賃が払えなくなりそうだと言うと、仕事が見つかるまでシェルターを利用させてくれるということでした。私は藁にもすがるしかなく、こうしてよくわからない宗教に入ることになったのです。信者の人たちは、私に結婚を強く勧めてきました。そして、私に相応しいだろうという白人男性がいると言われたのです。胸が躍りました。私は密かに、白人男性と結婚するのが夢でしたから。ところが、私の前に連れて来られた男性は、小柄で小太りで、頭はすっかり禿げ上がった男性でした。とても、同じ位の年齢には見えませんでした。自分で相手を見つけるのは不可能な男が貧困女子とくっつくのだと、また厳しい現実を目の当たりにしたのです。それでも、今の私には最高のパートナーかもしれないと思いました。すでにCA時代の面影はなく、寄付された花柄のマタニティドレスしか入らない、肥満で白髪だらけ、ニキビだらけの中年貧困女性ですから……。私は彼とデートをしてみることにしました。自宅に迎えに来てくれた彼は意外にも高級車に乗っていました。連れて行ってくれたお店も、高級料理店でした。彼は、外資系企業に勤めているエリートサラリーマンだったのです。日本のアニメが好きなオタクです。同僚たちとは話が合わず、プライベートはいつもひとりだと聞いて、昔の私のことを思い出しました。私は30歳を過ぎていましたが、男性と交際するのが、実は初めてだったんです。久しぶりにお酒が入ったせいか、そんなことまで彼に打ち明けていました。楽しい時間を過ごすことができ、また、彼に会いたいと思いました。昔の自分に戻りたい2回目のデートで、早速、彼にプロポーズされました。私がまもなく住むところを失うと言うと、一緒に暮らそうと言ってくれたのです。私たちの宗教では、共に住むには家族になる必要があり、同棲してみてから……というわけにはいかないのです。しかし、彼も迷っているようでした。なぜなら、彼はアメリカに帰国しなければならず、一緒についてきてくれる女性を求めていました。そして、妻には結婚後、家事と育児に専念してほしいと。結婚を選ぶと同時に、キャリアは捨てなければなりません。自分でも意外でしたが、私は二つ返事でOKしました。アメリカで暮らすというのは、願ってもいないチャンスでした。親戚のしがらみもなく、私の過去を知る人もいない場所で、一からやり直したいとずっと願ってきたからです。彼との最初のデートから、次に会うまでの1週間、私は毎朝ジョギングをし、ジャンクフードを控えました。体が軽くなり、出かける前に鏡を見ると、少し、昔の自分に近づいたような気がしたのです。「将来なんてどうでもいい!昔の、25歳の自分に戻りたい!」鏡を見つめていると、急にそんな思いが込み上げてきたのです。彼なら、その願いを叶えてくれると思えました。彼の家に越してから、私は日中、家事をこなすと同時に、日々、美容院やエステに通い、数ヵ月で20代の容姿を取り戻しました。photo by gettyimages夫と一緒に実家に結婚の報告に行くと、家族は皆、喜んでくれました。案の定、母は娘がエリートサラリーマンと結婚すると親戚に言いふらし、「やっぱり真理ちゃんはかっこいい」親戚からはそんな反応が返ってきました。私の評価は下がっていなかったようです。その後すぐに子どもができ、第2子を出産した後、家族4人でアメリカに移住しました。結局、母と同じ専業主婦になりました。絶対に避けたかった選択肢でしたが、社会に適応できない私が生きていくには、家庭しか居場所がなかったのだと今は受け入れています。父と弟は気が付いていましたが、私は母にそっくりなんです。勉強は個人プレーなので、そこそこできますが、チームワークができないので、組織の中では活躍できないのでしょう。たとえ、司法試験に合格していたとしても、職務を全うできたかどうか……。遠回りになりましたが、紆余曲折する中で、本当の私を見つけることができ、振り返れば楽しい「旅」だったと感じています。挑戦してきたことに全く後悔はありません。そして今、とても幸せな人生を送っています。
私は就職活動を始めました。前職の経験を生かして、子ども英会話教室なら時給はいいし、楽勝だろうと思ったのです。
まず筆記試験がありましたが、これは完璧でした。ところが、2次面接のネイティブスピーカーとの面談では、単語がスムーズに出てこなかったのです。5年以上、生の英語に触れていませんでした。
私はもっと準備しておくべきだったと後悔しましたが、案の定、結果は不採用でした。次の面接は有名ホテルの従業員採用です。
面接官だった女性が、CA出身だと聞いて嬉しくなりました。面接が終了し外に出ると、フロントには著名人の姿がありました。格式の高いホテルで仕事ができるなら、ここに勤めるのもアリか……と、辺りを見回しながら歩き始めた時、
「ちょっといいかしら」
元CAの面接官に呼び止められたのです。
「あ、はい」
彼女は私を、ホテル内の大きな鏡の前に誘いました。
「先輩だから、率直な意見を伝えてあげたいと思って」
面接の時とは打って変わって厳しい目つきでした。
「私に採用の可否を決める決定権はないの。だからわからないけど、あなたが採用されることはないと思う」「え?」「あなた、鏡を見てきた?」
女性は私に鏡を見るように促しました。
「今は身だしなみなど気にしていられないと思うけど、10年前、その姿で飛行機に乗れたかしら?
私はドキッとしました。
「あなたとても30代には見えない。ブラウスのボタンも取れてるし、スーツのボタンも取れてる。ストッキングは伝線してるし、そんな姿で面接に来た女性はいません。接客業ではありえない。よく鏡を見て、どんな仕事が向いているか、もう一度よく考えてみるべきよ」
そう言って女性が立ち去った後、私は全身が映る大きな鏡の前にしばらく呆然と立ち尽くしていました。
とにかく仕事をしなければと、細身のスーツに無理やり身体をねじ込んだ結果、ボタンははじけ、ストッキングも破れ、すでに美容院に行かなくなって2年以上が経過した髪の毛は白髪だらけでした。
私は明らかに場違いなところにいて、きっと、第三者が見たら、炊き出しに並ぶ姿の方が私にマッチしているのだと、ようやく現実に目が覚めたのです。
2社の面接を終えた後、これ以上面接に行くのは止めようと思いました。昔の同業者に今の私の惨めな姿を見られるのは嫌だからです。我に返り、なんて恥ずかしいことをしてしまったんだろう……穴があったら入りたい、そんな思いが込み上げてきました。
やはり、受験を続けるしか、社会に私の居場所は作れないのか。私はこの時初めて、脳裏にはっきりと「自殺」という文字が浮かんだのを覚えています。
もう、完全に疲れていたのです。失うものも、ありません。踏切の遮断機の音が聞こえてきた時、いっそのこと……と思った瞬間、私の葬式に集まる親戚のことが頭に浮かびました。
「あんなに綺麗で輝いていた真理ちゃんがこんな姿に……」
きっと皆、そう言って哀れむのでしょう。
まず、激太りした姿に驚くはず。嫌だ、惨めすぎる……。生きよう。死んだ後の光景が浮かんだ途端それを打ち消すように、すぐ思い直しました。身内に対してのプライドだけは失っていなかったのです。
私は家によく来ていた新興宗教の人に電話をし、支援を求めると、彼らはすぐに洋服や食べ物を差し入れてくれました。
翌月から家賃が払えなくなりそうだと言うと、仕事が見つかるまでシェルターを利用させてくれるということでした。私は藁にもすがるしかなく、こうしてよくわからない宗教に入ることになったのです。
信者の人たちは、私に結婚を強く勧めてきました。そして、私に相応しいだろうという白人男性がいると言われたのです。胸が躍りました。私は密かに、白人男性と結婚するのが夢でしたから。
ところが、私の前に連れて来られた男性は、小柄で小太りで、頭はすっかり禿げ上がった男性でした。とても、同じ位の年齢には見えませんでした。
自分で相手を見つけるのは不可能な男が貧困女子とくっつくのだと、また厳しい現実を目の当たりにしたのです。
それでも、今の私には最高のパートナーかもしれないと思いました。すでにCA時代の面影はなく、寄付された花柄のマタニティドレスしか入らない、肥満で白髪だらけ、ニキビだらけの中年貧困女性ですから……。私は彼とデートをしてみることにしました。
自宅に迎えに来てくれた彼は意外にも高級車に乗っていました。連れて行ってくれたお店も、高級料理店でした。彼は、外資系企業に勤めているエリートサラリーマンだったのです。日本のアニメが好きなオタクです。同僚たちとは話が合わず、プライベートはいつもひとりだと聞いて、昔の私のことを思い出しました。
私は30歳を過ぎていましたが、男性と交際するのが、実は初めてだったんです。久しぶりにお酒が入ったせいか、そんなことまで彼に打ち明けていました。楽しい時間を過ごすことができ、また、彼に会いたいと思いました。
2回目のデートで、早速、彼にプロポーズされました。私がまもなく住むところを失うと言うと、一緒に暮らそうと言ってくれたのです。私たちの宗教では、共に住むには家族になる必要があり、同棲してみてから……というわけにはいかないのです。
しかし、彼も迷っているようでした。なぜなら、彼はアメリカに帰国しなければならず、一緒についてきてくれる女性を求めていました。
そして、妻には結婚後、家事と育児に専念してほしいと。結婚を選ぶと同時に、キャリアは捨てなければなりません。
自分でも意外でしたが、私は二つ返事でOKしました。アメリカで暮らすというのは、願ってもいないチャンスでした。親戚のしがらみもなく、私の過去を知る人もいない場所で、一からやり直したいとずっと願ってきたからです。
彼との最初のデートから、次に会うまでの1週間、私は毎朝ジョギングをし、ジャンクフードを控えました。体が軽くなり、出かける前に鏡を見ると、少し、昔の自分に近づいたような気がしたのです。
「将来なんてどうでもいい!昔の、25歳の自分に戻りたい!」
鏡を見つめていると、急にそんな思いが込み上げてきたのです。彼なら、その願いを叶えてくれると思えました。
彼の家に越してから、私は日中、家事をこなすと同時に、日々、美容院やエステに通い、数ヵ月で20代の容姿を取り戻しました。
photo by gettyimages
夫と一緒に実家に結婚の報告に行くと、家族は皆、喜んでくれました。案の定、母は娘がエリートサラリーマンと結婚すると親戚に言いふらし、
「やっぱり真理ちゃんはかっこいい」
親戚からはそんな反応が返ってきました。私の評価は下がっていなかったようです。その後すぐに子どもができ、第2子を出産した後、家族4人でアメリカに移住しました。
結局、母と同じ専業主婦になりました。絶対に避けたかった選択肢でしたが、社会に適応できない私が生きていくには、家庭しか居場所がなかったのだと今は受け入れています。
父と弟は気が付いていましたが、私は母にそっくりなんです。勉強は個人プレーなので、そこそこできますが、チームワークができないので、組織の中では活躍できないのでしょう。たとえ、司法試験に合格していたとしても、職務を全うできたかどうか……。
遠回りになりましたが、紆余曲折する中で、本当の私を見つけることができ、振り返れば楽しい「旅」だったと感じています。挑戦してきたことに全く後悔はありません。そして今、とても幸せな人生を送っています。