「6月末に中国を訪問する直前に、『もう帰って来られないかも』と言ってたんです。もちろん冗談ですよ(笑)。ただ、気を遣ったし、苦労したのも事実」
【画像】ロックダウン解除後の上海にて、防護服姿の“厳重体制”で患者を搬送する 8月上旬、筆者の取材にそう語ったのは、新型コロナウイルス感染症対策分科会会長の尾身茂氏(74)だ。◆ ◆ ◆なぜ中国から「帰って来られないかも」と口にしたのか尾身氏は自治医大出身 文藝春秋 2020年春にコロナが日本列島を襲って以降、筆者はこれまで、月刊「文藝春秋」などで十数回にわたって尾身氏に取材してきた。特に印象深いのは22年9月、3人の総理に助言してきた経験をこんな風に振り返っていたことだ。

「日本では、危機に際しての『意思決定の文化』がまだ確立されていないというのが私の実感です。専門家の意見を聞きつつ、ほかの政治状況も考え併せて結論を導くという正・反・合の弁証法のようなプロセスが足りなかった」 一時は連日のように記者会見に臨み、コロナの状況を発信していた尾身氏。だが、岸田政権発足後は首相会見に同席することはなくなり、重症化率の低い変異株が主流になったこの1年半ほどは、ニュースになる機会も減ってきた。 そんな中、尾身氏が6月末からAPEC主催のフォーラムで訪問していたのが、中国だ。なぜ、その中国から「帰って来られないかも」と口にしたのか。「尾身氏と中国はかつてピリピリした関係にありました。尾身氏が、WHO西太平洋事務局長として指揮した03年のSARS対応のことです。広東省発のウイルス性肺炎の情報について問い合わせても、中国は調査の受け入れを拒否。更なる感染拡大を抑えることを優先した尾身氏は広東省・香港への渡航延期勧告に踏み切った。中国は情報の開示に転じたものの、一時は両者に緊迫した雰囲気が漂っていたのです」(厚労省OB) ただ、今回は中国側から「日本のコロナの経験を話してほしい」と依頼を受けての訪問だった。では、何に「苦労した」のか。そのことを尋ねると、「日本の対策の特徴を話し出すと、対極の中国とはコントラストがくっきりしますよね。ファクトを並べるだけでも、中国批判と受けとられかねないから」中国が「いい参考になった」と喜んだ尾身氏の気配り 確かに日本はゼロコロナを求めず、対策の基本は自粛の要請だった。かたや中国は、ロックダウンなど強権を発動。昨年12月には突然、ゼロコロナを解除し、さらなる混乱を起こしている。透明性の高いデータがないのも中国の弱点だ。「日本は、人口あたり累積死者数が欧米各国より抑えられた。そう示そうと国別のグラフを用意したのですが、中国だけ実態に即したデータがない。逆に台湾はきちんとしたデータがあった。でも、台湾だけ出すわけにはいかないよね」 中国は台湾を「不可分の領土」と主張しているだけに、台湾のデータだけを示し、中国の死者数などを取り上げるのはリスクが大きい。そこで尾身氏は台湾を省いてプレゼン。そうした気配りの成果もあってか、「中国の人たちは『いい参考になった』などと喜んでくれました。会議に参加していたアメリカ人にも新鮮だったようです。安堵しましたね。無事帰国することができました(笑)」趣味の剣道は? 尾身氏自身の生活の変化 第9波の到来が指摘されているとはいえ、昨年までと比べると、コロナも落ち着いてきた日本。尾身氏自身の生活にも変化が出てきているのだろうか。「分科会は開かれないし、毎週末に激論を交わした専門家の勉強会もない。睡眠時間が取れず体重が減った時期もあったけれど、今は夜12時前には床に就くから、体重も戻ってきました」 以前、「コロナが収束したら趣味の剣道を再開したい」と語っていたが、「道場へは第9波の前に一度だけ。今忙しくて……。実は、3年間の経験を記録に残そうと一念発起し、手記を書いているんです。政府に提言を出すにあたって感じた迷いや悩みを中心に書いている。次のパンデミックの参考になればと思っています」 この日の取材もマスク無しだった尾身氏。だが、マスクを外せても、面を被って竹刀を握る日々はもう少し先になりそうだ。(広野 真嗣/週刊文春 2023年8月17日・24日号)
8月上旬、筆者の取材にそう語ったのは、新型コロナウイルス感染症対策分科会会長の尾身茂氏(74)だ。
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尾身氏は自治医大出身 文藝春秋
2020年春にコロナが日本列島を襲って以降、筆者はこれまで、月刊「文藝春秋」などで十数回にわたって尾身氏に取材してきた。特に印象深いのは22年9月、3人の総理に助言してきた経験をこんな風に振り返っていたことだ。
「日本では、危機に際しての『意思決定の文化』がまだ確立されていないというのが私の実感です。専門家の意見を聞きつつ、ほかの政治状況も考え併せて結論を導くという正・反・合の弁証法のようなプロセスが足りなかった」
一時は連日のように記者会見に臨み、コロナの状況を発信していた尾身氏。だが、岸田政権発足後は首相会見に同席することはなくなり、重症化率の低い変異株が主流になったこの1年半ほどは、ニュースになる機会も減ってきた。
そんな中、尾身氏が6月末からAPEC主催のフォーラムで訪問していたのが、中国だ。なぜ、その中国から「帰って来られないかも」と口にしたのか。「尾身氏と中国はかつてピリピリした関係にありました。尾身氏が、WHO西太平洋事務局長として指揮した03年のSARS対応のことです。広東省発のウイルス性肺炎の情報について問い合わせても、中国は調査の受け入れを拒否。更なる感染拡大を抑えることを優先した尾身氏は広東省・香港への渡航延期勧告に踏み切った。中国は情報の開示に転じたものの、一時は両者に緊迫した雰囲気が漂っていたのです」(厚労省OB) ただ、今回は中国側から「日本のコロナの経験を話してほしい」と依頼を受けての訪問だった。では、何に「苦労した」のか。そのことを尋ねると、「日本の対策の特徴を話し出すと、対極の中国とはコントラストがくっきりしますよね。ファクトを並べるだけでも、中国批判と受けとられかねないから」中国が「いい参考になった」と喜んだ尾身氏の気配り 確かに日本はゼロコロナを求めず、対策の基本は自粛の要請だった。かたや中国は、ロックダウンなど強権を発動。昨年12月には突然、ゼロコロナを解除し、さらなる混乱を起こしている。透明性の高いデータがないのも中国の弱点だ。「日本は、人口あたり累積死者数が欧米各国より抑えられた。そう示そうと国別のグラフを用意したのですが、中国だけ実態に即したデータがない。逆に台湾はきちんとしたデータがあった。でも、台湾だけ出すわけにはいかないよね」 中国は台湾を「不可分の領土」と主張しているだけに、台湾のデータだけを示し、中国の死者数などを取り上げるのはリスクが大きい。そこで尾身氏は台湾を省いてプレゼン。そうした気配りの成果もあってか、「中国の人たちは『いい参考になった』などと喜んでくれました。会議に参加していたアメリカ人にも新鮮だったようです。安堵しましたね。無事帰国することができました(笑)」趣味の剣道は? 尾身氏自身の生活の変化 第9波の到来が指摘されているとはいえ、昨年までと比べると、コロナも落ち着いてきた日本。尾身氏自身の生活にも変化が出てきているのだろうか。「分科会は開かれないし、毎週末に激論を交わした専門家の勉強会もない。睡眠時間が取れず体重が減った時期もあったけれど、今は夜12時前には床に就くから、体重も戻ってきました」 以前、「コロナが収束したら趣味の剣道を再開したい」と語っていたが、「道場へは第9波の前に一度だけ。今忙しくて……。実は、3年間の経験を記録に残そうと一念発起し、手記を書いているんです。政府に提言を出すにあたって感じた迷いや悩みを中心に書いている。次のパンデミックの参考になればと思っています」 この日の取材もマスク無しだった尾身氏。だが、マスクを外せても、面を被って竹刀を握る日々はもう少し先になりそうだ。(広野 真嗣/週刊文春 2023年8月17日・24日号)
そんな中、尾身氏が6月末からAPEC主催のフォーラムで訪問していたのが、中国だ。なぜ、その中国から「帰って来られないかも」と口にしたのか。
「尾身氏と中国はかつてピリピリした関係にありました。尾身氏が、WHO西太平洋事務局長として指揮した03年のSARS対応のことです。広東省発のウイルス性肺炎の情報について問い合わせても、中国は調査の受け入れを拒否。更なる感染拡大を抑えることを優先した尾身氏は広東省・香港への渡航延期勧告に踏み切った。中国は情報の開示に転じたものの、一時は両者に緊迫した雰囲気が漂っていたのです」(厚労省OB)
ただ、今回は中国側から「日本のコロナの経験を話してほしい」と依頼を受けての訪問だった。では、何に「苦労した」のか。そのことを尋ねると、
「日本の対策の特徴を話し出すと、対極の中国とはコントラストがくっきりしますよね。ファクトを並べるだけでも、中国批判と受けとられかねないから」
確かに日本はゼロコロナを求めず、対策の基本は自粛の要請だった。かたや中国は、ロックダウンなど強権を発動。昨年12月には突然、ゼロコロナを解除し、さらなる混乱を起こしている。透明性の高いデータがないのも中国の弱点だ。
「日本は、人口あたり累積死者数が欧米各国より抑えられた。そう示そうと国別のグラフを用意したのですが、中国だけ実態に即したデータがない。逆に台湾はきちんとしたデータがあった。でも、台湾だけ出すわけにはいかないよね」
中国は台湾を「不可分の領土」と主張しているだけに、台湾のデータだけを示し、中国の死者数などを取り上げるのはリスクが大きい。そこで尾身氏は台湾を省いてプレゼン。そうした気配りの成果もあってか、「中国の人たちは『いい参考になった』などと喜んでくれました。会議に参加していたアメリカ人にも新鮮だったようです。安堵しましたね。無事帰国することができました(笑)」趣味の剣道は? 尾身氏自身の生活の変化 第9波の到来が指摘されているとはいえ、昨年までと比べると、コロナも落ち着いてきた日本。尾身氏自身の生活にも変化が出てきているのだろうか。「分科会は開かれないし、毎週末に激論を交わした専門家の勉強会もない。睡眠時間が取れず体重が減った時期もあったけれど、今は夜12時前には床に就くから、体重も戻ってきました」 以前、「コロナが収束したら趣味の剣道を再開したい」と語っていたが、「道場へは第9波の前に一度だけ。今忙しくて……。実は、3年間の経験を記録に残そうと一念発起し、手記を書いているんです。政府に提言を出すにあたって感じた迷いや悩みを中心に書いている。次のパンデミックの参考になればと思っています」 この日の取材もマスク無しだった尾身氏。だが、マスクを外せても、面を被って竹刀を握る日々はもう少し先になりそうだ。(広野 真嗣/週刊文春 2023年8月17日・24日号)
中国は台湾を「不可分の領土」と主張しているだけに、台湾のデータだけを示し、中国の死者数などを取り上げるのはリスクが大きい。そこで尾身氏は台湾を省いてプレゼン。そうした気配りの成果もあってか、
「中国の人たちは『いい参考になった』などと喜んでくれました。会議に参加していたアメリカ人にも新鮮だったようです。安堵しましたね。無事帰国することができました(笑)」
第9波の到来が指摘されているとはいえ、昨年までと比べると、コロナも落ち着いてきた日本。尾身氏自身の生活にも変化が出てきているのだろうか。
「分科会は開かれないし、毎週末に激論を交わした専門家の勉強会もない。睡眠時間が取れず体重が減った時期もあったけれど、今は夜12時前には床に就くから、体重も戻ってきました」
以前、「コロナが収束したら趣味の剣道を再開したい」と語っていたが、
「道場へは第9波の前に一度だけ。今忙しくて……。実は、3年間の経験を記録に残そうと一念発起し、手記を書いているんです。政府に提言を出すにあたって感じた迷いや悩みを中心に書いている。次のパンデミックの参考になればと思っています」
この日の取材もマスク無しだった尾身氏。だが、マスクを外せても、面を被って竹刀を握る日々はもう少し先になりそうだ。(広野 真嗣/週刊文春 2023年8月17日・24日号)
この日の取材もマスク無しだった尾身氏。だが、マスクを外せても、面を被って竹刀を握る日々はもう少し先になりそうだ。
(広野 真嗣/週刊文春 2023年8月17日・24日号)