“昭和の色街”、すなわちかつての赤線・遊郭跡の写真を撮り続けるシングルマザーの元ソープ嬢がいる。名前は紅子。吉原で働いていた過去を明かしてインスタやYouTubeで活動し、自ら撮影した昭和色街の写真集を出版するために、クラウドファンディングで出版費用を募ったところ、「ゴール」に設定していた金額を次々とクリア。新たなゴールの400万円も突破した。紅子さんが過去を明かしてまで赤線・遊郭跡の写真集を出そうとする理由とは? そしてその壮絶な半生とは?【華川富士也/ライター】
【写真多数】紅子さんが撮影した、美麗かつ妖艶な「赤線・遊郭」のいま 紅子さんがクラウドファンディングをスタートしたのは今年4月末。最初の目標額は150万円だった。これをわずか6日で達成すると、次の目標額300万円も終了まで30日以上を残してクリア。ついに3つ目のゴールとなる400万円も突破したのだ。 紅子さんは現在50歳。19歳から32歳まで西川口や渋谷のピンサロ、吉原や川崎のソープランドなどで働いていた。風俗業界に入った理由はふたつ。ひとつは美術学校の高額な学費を払うため。吉原て働いていたことを告白し“色街写真家”として活動する紅子さん(著者撮影)「面接だけで入れるような学校で、学費や画材にすごくお金がかかりました。お金を工面するために、夜中の2時に起きて飲食店で働き、8時から学校に行って、夜も6時から10時までバイトする生活でした。労働している時間が本当に苦しくて……。そんなある日、『フロアレディ 日給1万円以上』みたいな広告を見つけて、どんな仕事か分からず西川口に面接に行きました。そこで店長の講習を受けて、初めてピンサロという存在と、何をする場所かを知ったんです」「時間があるとずっと裸の女性の絵を描いてました」 性産業に関する知識はほぼなかったというが、それでもこの世界に飛び込んだのは、もうひとつの理由、「こんな私でも、人に受け入れてもらえるかもしれない。人に触れてもらえるかもしれない」という思いを抱いていたから。それは辛い過去から導かれた境地だった。「親は商売をやっていて、私たち子供のことは放置状態。貧乏でしたし、ゴミ屋敷のような家で育ちました。小さい頃から“汚い!近寄るな!”と言われ、小学校では“気持ち悪い”といじめられて鉛筆で刺されたことも。そのせいで小学校も中学校もあまり行ってません。高校は半年で辞めました」 学校を拒否した一方で、「人に受け入れられたい」という思いは強まっていく。そんな中でずっと頭の片隅にあったのが、小さい頃から見ていた、男たちがアダルト雑誌を読む姿だった。「私も裸になれば男の人に相手をしてもらえるんじゃないかと、裸の仕事に憧れを持っていました。時間があるとずっと裸の女性の絵を描いてました。19歳の時、どうすれば受け入れてもらえるか考えた結果、選んだのが風俗の道でした」 自分を受け入れてくれると思っていた風俗の世界に足を踏み入れた紅子さんだったが、店員や他の風俗嬢とうまくコミュニケーションが取れず、結局、ここでも孤立した。「ガングロブームの時(1990年代後半)に渋谷のピンサロにいて、みんなガングロで派手なのに、私は地味で化粧もあまりしてなかったし、彼女たちが話題にしていたタレントさんの名前を聞いても、テレビを見てなかったから全く話についていけませんでした。キムタクさんのことも知りませんでした。そこでも私は受け入れてもらえるどころか、他の女の子から気持ち悪い存在として扱われ、避けられていたんです」「もう人生終わらせよう」と思って吉原に 風俗の世界でもいじめられる……。辛い思いを抱えていたある日、客から「吉原に行ったら人生終わりだからね」と言われたことで初めて吉原の存在を意識した。「吉原ってどこにあるかも知りませんでした。調べたら東京にある。“もう人生終わらせよう”と思って吉原に面接に行ったんです」 最初に入ったのはいわゆる格安ソープランド。店内での扱いがそれまでとは違うことに驚いたという。「ピンサロの店長は言葉が荒く、扱いも雑でした。ところが、吉原に来たら格安店でもお姫様扱い。女の子に長く働いてもらうためなんでしょうけど、驚きました」 こうして紅子さんはソープで働くようになった。並行して好きなアート活動も行っていた。引退前には吉原の超高級店で働いていたという。 結婚を機に風俗の仕事は引退する。しかし、出産後に夫が浮気して離婚。慰謝料、養育費を全くもらえない中、風俗には戻らず、猛勉強して普通の会社に入り、女手一つで子供を育ててきた。日々の楽しみは街歩き。気になる建物があるとスマホで写真を撮った。しばらくして自分が写真を撮っていた場所が、かつての赤線・遊郭跡だったと気がついた。赤線・遊郭の建物には文化的な側面も 遊郭とは16世紀に幕府の許可のもと始まった公娼制度。昭和初期まで続き、戦後に進駐したGHQの指令により1946年に廃止された。遊郭は表向き廃止されたが、その機能は「カフェー」「料亭」として引き継がれ、そうした店がある一帯は赤線と呼ばれた。やがて1958年に施行された売春防止法によって、公娼地域としての赤線・遊廓の歴史は幕を閉じる。 赤線・遊郭の建物は、日本的な荘厳なスタイルの建築もあれば、昭和初期に流行った「アールデコ」の影響を受けているものもある。美しいステンドグラスがあるもの、外壁に色とりどりの豆タイルが貼られたカラフルなもの、猫に見える窓や、富士山を模した手すりがあるものなど装飾に凝っている。多くの人に見過ごされているが、建築された当時の流行や洒落っ気、職人の技術が込められた文化財的側面もあるのだ。 子育て中はアート活動を中止していたものの、アートへの思いを持ち続けていた紅子さんは、48歳の時に本格的なカメラを購入。YouTubeなどを見ながら独学で撮影方法を学び、全国の赤線・遊郭跡地で撮影を始めた。撮影したものをインスタやYouTubeで公開しているほか、ミニ写真集にまとめて販売している。そしてこの度、本格的な写真集を作成しようとクラウドファンディングを始めた。すると、あれよあれよというまに目標額をクリアしていった。「最初の目標の150万円を達成できるなんて、想像もつきませんでした。400万円ですか。私などを支持してくださる方がそんなにたくさんいらっしゃることに大変驚いています。感謝しかありません」「今も働いている人たちにほのかな光を灯したい」 ところで、なぜ元ソープ嬢であることをあえて公開したのか?「人に言えるような職業ではないことはわかっていますし、人に働くことを勧めたりもしません。私は働いていたことをずっと後悔してきました。ただ、私は学校へロクに行ってなかったから、計算はできなかったし、読み書きもおぼつかなかった。そんな人がどうやって普通の会社に就職できますか? 人には言えない職業だけど、その仕事のおかげで生きられる人がいるのも事実です。47歳の頃に“もうちょっとで50歳か。私、ずっと後悔し続けて死ぬのかな”と思いました。そんな時に吉原の『カストリ書房』に立ち寄って、赤線・遊郭の文化的な面を知ったんです。赤線・遊郭の建築はどんどん無くなっていきます。これを記録しながら、私が働いていた場所について学び、様々な面を人に伝え、同時に今も働いている人たちにほのかな光を灯したいんです。そのためにはソープ嬢だったことを明かさないと説得力がありませんから」 紅子さんの写真集出版プロジェクトはクラウドファンディング「CAMPFIRE」で6月30日まで行われている。華川富士也(かがわ・ふじや)ライター、構成作家、フォトグラファー。1970年生まれ。長く勤めた新聞社を退社し1年間子育てに専念。現在はフリーで活動。アイドル、洋楽、邦楽、建築、旅、町、昭和ネタなどを得意とする。シリーズ累計200万部以上売れた大ヒット書籍に立ち上げから関わりライターも務めた。デイリー新潮編集部
紅子さんがクラウドファンディングをスタートしたのは今年4月末。最初の目標額は150万円だった。これをわずか6日で達成すると、次の目標額300万円も終了まで30日以上を残してクリア。ついに3つ目のゴールとなる400万円も突破したのだ。 紅子さんは現在50歳。19歳から32歳まで西川口や渋谷のピンサロ、吉原や川崎のソープランドなどで働いていた。風俗業界に入った理由はふたつ。ひとつは美術学校の高額な学費を払うため。
「面接だけで入れるような学校で、学費や画材にすごくお金がかかりました。お金を工面するために、夜中の2時に起きて飲食店で働き、8時から学校に行って、夜も6時から10時までバイトする生活でした。労働している時間が本当に苦しくて……。そんなある日、『フロアレディ 日給1万円以上』みたいな広告を見つけて、どんな仕事か分からず西川口に面接に行きました。そこで店長の講習を受けて、初めてピンサロという存在と、何をする場所かを知ったんです」
性産業に関する知識はほぼなかったというが、それでもこの世界に飛び込んだのは、もうひとつの理由、「こんな私でも、人に受け入れてもらえるかもしれない。人に触れてもらえるかもしれない」という思いを抱いていたから。それは辛い過去から導かれた境地だった。
「親は商売をやっていて、私たち子供のことは放置状態。貧乏でしたし、ゴミ屋敷のような家で育ちました。小さい頃から“汚い!近寄るな!”と言われ、小学校では“気持ち悪い”といじめられて鉛筆で刺されたことも。そのせいで小学校も中学校もあまり行ってません。高校は半年で辞めました」
学校を拒否した一方で、「人に受け入れられたい」という思いは強まっていく。そんな中でずっと頭の片隅にあったのが、小さい頃から見ていた、男たちがアダルト雑誌を読む姿だった。
「私も裸になれば男の人に相手をしてもらえるんじゃないかと、裸の仕事に憧れを持っていました。時間があるとずっと裸の女性の絵を描いてました。19歳の時、どうすれば受け入れてもらえるか考えた結果、選んだのが風俗の道でした」
自分を受け入れてくれると思っていた風俗の世界に足を踏み入れた紅子さんだったが、店員や他の風俗嬢とうまくコミュニケーションが取れず、結局、ここでも孤立した。
「ガングロブームの時(1990年代後半)に渋谷のピンサロにいて、みんなガングロで派手なのに、私は地味で化粧もあまりしてなかったし、彼女たちが話題にしていたタレントさんの名前を聞いても、テレビを見てなかったから全く話についていけませんでした。キムタクさんのことも知りませんでした。そこでも私は受け入れてもらえるどころか、他の女の子から気持ち悪い存在として扱われ、避けられていたんです」
風俗の世界でもいじめられる……。辛い思いを抱えていたある日、客から「吉原に行ったら人生終わりだからね」と言われたことで初めて吉原の存在を意識した。
「吉原ってどこにあるかも知りませんでした。調べたら東京にある。“もう人生終わらせよう”と思って吉原に面接に行ったんです」
最初に入ったのはいわゆる格安ソープランド。店内での扱いがそれまでとは違うことに驚いたという。
「ピンサロの店長は言葉が荒く、扱いも雑でした。ところが、吉原に来たら格安店でもお姫様扱い。女の子に長く働いてもらうためなんでしょうけど、驚きました」
こうして紅子さんはソープで働くようになった。並行して好きなアート活動も行っていた。引退前には吉原の超高級店で働いていたという。
結婚を機に風俗の仕事は引退する。しかし、出産後に夫が浮気して離婚。慰謝料、養育費を全くもらえない中、風俗には戻らず、猛勉強して普通の会社に入り、女手一つで子供を育ててきた。日々の楽しみは街歩き。気になる建物があるとスマホで写真を撮った。しばらくして自分が写真を撮っていた場所が、かつての赤線・遊郭跡だったと気がついた。
遊郭とは16世紀に幕府の許可のもと始まった公娼制度。昭和初期まで続き、戦後に進駐したGHQの指令により1946年に廃止された。遊郭は表向き廃止されたが、その機能は「カフェー」「料亭」として引き継がれ、そうした店がある一帯は赤線と呼ばれた。やがて1958年に施行された売春防止法によって、公娼地域としての赤線・遊廓の歴史は幕を閉じる。
赤線・遊郭の建物は、日本的な荘厳なスタイルの建築もあれば、昭和初期に流行った「アールデコ」の影響を受けているものもある。美しいステンドグラスがあるもの、外壁に色とりどりの豆タイルが貼られたカラフルなもの、猫に見える窓や、富士山を模した手すりがあるものなど装飾に凝っている。多くの人に見過ごされているが、建築された当時の流行や洒落っ気、職人の技術が込められた文化財的側面もあるのだ。
子育て中はアート活動を中止していたものの、アートへの思いを持ち続けていた紅子さんは、48歳の時に本格的なカメラを購入。YouTubeなどを見ながら独学で撮影方法を学び、全国の赤線・遊郭跡地で撮影を始めた。撮影したものをインスタやYouTubeで公開しているほか、ミニ写真集にまとめて販売している。そしてこの度、本格的な写真集を作成しようとクラウドファンディングを始めた。すると、あれよあれよというまに目標額をクリアしていった。
「最初の目標の150万円を達成できるなんて、想像もつきませんでした。400万円ですか。私などを支持してくださる方がそんなにたくさんいらっしゃることに大変驚いています。感謝しかありません」
ところで、なぜ元ソープ嬢であることをあえて公開したのか?
「人に言えるような職業ではないことはわかっていますし、人に働くことを勧めたりもしません。私は働いていたことをずっと後悔してきました。ただ、私は学校へロクに行ってなかったから、計算はできなかったし、読み書きもおぼつかなかった。そんな人がどうやって普通の会社に就職できますか? 人には言えない職業だけど、その仕事のおかげで生きられる人がいるのも事実です。47歳の頃に“もうちょっとで50歳か。私、ずっと後悔し続けて死ぬのかな”と思いました。そんな時に吉原の『カストリ書房』に立ち寄って、赤線・遊郭の文化的な面を知ったんです。赤線・遊郭の建築はどんどん無くなっていきます。これを記録しながら、私が働いていた場所について学び、様々な面を人に伝え、同時に今も働いている人たちにほのかな光を灯したいんです。そのためにはソープ嬢だったことを明かさないと説得力がありませんから」
紅子さんの写真集出版プロジェクトはクラウドファンディング「CAMPFIRE」で6月30日まで行われている。
華川富士也(かがわ・ふじや)ライター、構成作家、フォトグラファー。1970年生まれ。長く勤めた新聞社を退社し1年間子育てに専念。現在はフリーで活動。アイドル、洋楽、邦楽、建築、旅、町、昭和ネタなどを得意とする。シリーズ累計200万部以上売れた大ヒット書籍に立ち上げから関わりライターも務めた。
デイリー新潮編集部