病気や障害を持つ家族の世話や家事を担う18歳未満の子供「ヤングケアラー」。
国内では約10年前から少しずつ認識が広まりつつあるが、寝たきりの家族の介護など、身体的介助をする子供たちに焦点があたりがちだ。だが、精神疾患を持つ親と暮らすといった「見えないケア」を担う負担を抱えながらも、自身がヤングケアラーだという自覚がない子供たちは、支援の網からすり抜けている。
《さびしい、しんどい。家族に本音が言えない》
苦悩を吐露した鉛筆書きの文字が大学ノートいっぱいに広がる。「精神的に追い詰められていたが、自分がケアラーだと自覚していなかった」。立命館大人間科学研究所の研究員、河西(かさい)優さん(25)は自ら記したノートを読み返し、十数年前をこう振り返る。
母(55)が統合失調症と診断されたのは、大阪市内に2人で暮らしていた小学校高学年のときだった。独り言程度だった症状は徐々に妄想や幻聴へと悪化。中学に進学したころには、母は帰宅した河西さんを連れ回し、JR大阪駅周辺の繁華街を深夜になるまで徘徊(はいかい)した。「どこに行くのか、いつ帰ることができるのかも分からず、きつかった」
そんな日常は、思春期の心をむしばんでいった。家事が行き届かず散らかった部屋で暮らすうち、「私は汚い存在」と風呂場で体を数時間洗い続けたことも。中学2年のとき、府内で暮らす祖母に相談して入院手続きをしたが母は同意せず、入院できなかった。祖母は当時の日記に、河西さんの様子をこう記していた。
《母親を病的にこわがる》
中学卒業時、精神保健指定医が家族らの同意で強制的に入院させる「医療保護入院」を適用したことで、河西さんは母との生活から解放された。祖母らと同居し、大学卒業を機に1人暮らしを始めた。
母との暮らしは「徘徊と妄想話に付き合う日々」だったが、「看病、介護している」「特別なことをしている」といった感覚はなかったという。だが高校、大学に進学して普通の暮らしを取り戻す中、それまでの思いをノートに書き出して頭の整理をする中で徐々に、「自分はケアラーだ」という自覚が芽生えた。
母は入退院を繰り返してきたが、第三者の関与は病院のみ。ほか一切の世話を自身や祖父母といった身内で担ってきた。河西さんは、「家族が一人でも欠ければ難しくなるぎりぎりの状態だった」としつつ、自身の立場については、支援が必要だが急務ではなく介護の実態も見えにくい「グレーゾーン」と表現。その存在は「社会に認識されていない」と指摘する。
こうしたケアラーの支援をしようと、河西さんは令和3年9月に有志で団体「YCARP(ワイカープ)」を設立し、ミーティングなどを通じて理解を深める活動を開始。他の組織が主催するケアラー同士の場「いろはのなかまたち」にも参加して積極的に情報発信しているが、「自分はケアをしているつもりはない」「周りに比べて大変じゃない」と参加に消極的なケアラーもいるという。
河西さんは「私がそうだったように、ケアラーは日常の延長線上として自身が置かれた立場を自覚できないこともある」と指摘。「まず、社会がケアラーへの理解を深めることが大切」と話している。
こぼれ落ちる「隠れヤングケアラー」
厚生労働省と文部科学省が令和2年度に全国の中学2年生5558人を対象に行った調査で「世話をしている家族がいる」と回答したのは5・7%。そのうちヤングケアラーだと自覚していたのは約2割で、世話をしている家族がいるのに自覚がない「隠れヤングケアラー」が大勢いることが浮き彫りになった。
また、「家族の世話について相談したことがない」としたケアラーは約7割。その多くが「相談するほどの悩みではない」と答えており、外部から閉ざされた環境下にあることも判明している。
家族介護支援に詳しい立命館大の斎藤真緒教授(49)は「ヤングケアラーという言葉が独り歩きしている」とし、具体的なケア内容として身体的介助が連想される裏で、「将来的に親に代わって病気や障害のある兄弟の面倒を見なければならない」など、表面化しにくい課題を抱えるケアラーが存在すると指摘。「具体的に何をしているかということで判断されれば、多くは支援の対象からこぼれ落ちる」と説明する。
一方で、令和2年に埼玉県が自治体で初めて支援条例を制定したのを皮切りに奈良県大和郡山市などが続いたが、ケアラー自身を支援する具体的な対応までは進んでいない。ヤングケアラーの正確な人数や実態は把握できていないのが現状で、斎藤教授は「自覚のない潜在的なヤングケアラーは統計以上に存在する。彼らにも直接届くような条例整備が必要だ」と話している。