シリーズ読者投稿~あの時、あなたに出会えなければ~ 投稿者:Hさん(東京都・40代女性)
妊娠中のHさんが混雑した電車に乗って帰宅していると、酔っ払いの男女が飛び乗ってきた。
すでに満員なので、無理やりグイグイ押して入ってくる。男の背中は、Hさんの大きなお腹に当たっていて……。
<Hさんの体験談>
東京メトロ千代田線の朝夕の通勤ラッシュは、乗り慣れていない人には到底信じられないほど混んでいます。
私は小学生から通学で利用していますが、小さい頃はあまりの人の密度に体が浮いたまま一駅過ごしたり、大きく揺れたときに手から離れてしまった補助バッグがサラリーマンふたりの背中の間に挟まったままの状態になったりしたこともあります。息ができず酸欠で倒れる女性を見たこともありました。
でも毎日通学通勤で使えばそれなりに慣れて行くのが人というもの。小学校から大学、そして獣医師の研修医として大学病院に勤め始めても、私は千代田線を使い続けました。
研修医3年目に子供を授かりました。
それまで研修医の間に妊娠した獣医師はいなかったので、「妊娠しても普通に働くことができると証明しなければ」と、いつも気を張って仕事をしていました。
幸い、悪阻が「食べづわり」だったので、診察室の外にパンやおにぎりをおいて、問診の途中で気持ち悪くなっても「ちょっとお待ち下さい」と外に出て、パンを一口かじって中に戻り診察を続けていました。もっとも、緊張もあって仕事の最中に気持ち悪くなることはめったになかったのですが。
つらいのは、帰り道です。
JRから千代田線に乗り換えて帰っていたのですが、仕事が終わるとホッとして気が緩むらしく、御茶ノ水駅で一旦休憩を挟まないと地下鉄に乗り換えることが出来ませんでした。
気合を入れて地下鉄に乗っても、その時間帯は通勤ラッシュのピーク。もちろん座ることはほぼできないので、大きくなり始めたお腹をかばいながら、いつ気持ち悪くなってもすぐ下車できるように、扉付近の柱につかまって足を踏ん張るのが日課でした。
ある日、相変わらず混んだ千代田線の電車内で、私がいつもの場所に立っていると、白いシャツをきた男性と女性が、笑いながら扉の閉まる間際の車両に飛び込んで来ました。
どうやら2人はお酒を飲んでいるらしく、一気にアルコールの匂いが車内に立ち込めます。
男性は混んでいる車内に乗り込むため、後ろの様子も見ずに背中でグイグイこちらを押し、なんとか女性の場所を確保しようとします。
しかしすでに満員状態。詰めてもらえないと分かったのか、今度は私のいる側に思い切り身体をねじ込んで来ました。
とっさにお腹をかばって身体をずらそうとしたのですが、押し付けられている状態で身動きができません。 さらに男性は扉が閉まったあとも、グイグイと背中でこちらを押してきます。
振り向いてくれれば妊婦であるとわかるのでしょうが、彼は女性と話すことに夢中で全くこちらを見ません。酔っ払い特有のテンションで二人の世界に没入しています。
どうしよう、声をかけたほうがいいかな、押さないでくださいって言わないと……。
そう思って、意を決して声をかけようとしたその時です。
にゅっと大きな手が私の横から伸びてきて、白いシャツの背中をぐっ、と押しました。
シルバーの太い指輪がいくつもついた、タトゥーのはいったたくましい男性の腕です。
そちらに顔を向けると、ピアスをいくつもつけた、あきらかにいかつめの若い男性が、酔っ払いを見ていました。
そして、彼が一言。
そう、彼は無遠慮な白いシャツの背中がこれ以上私のほうに来ないように、とどめてくれているのです。
白いシャツの男性は不快そうに振り返ったのですが、ピアスの彼を見るとあからさまに動揺し、小さく「あ、はい、すみません」と言いました。そしてこちらを見るとはっとしたように、身体を押し付けてくることをやめました。
その体の向こうでまだはしゃいだ声の女性が「なにーどうしたのー?」と言っていましたが、男性の様子が変わったことに気づいたのか、すぐに静かになりました。
私はあまりのことに感動してしまって、ピアスの彼に小さく「ありがとうございます」と言うことしかできませんでした。
彼はとくに恩着せがましい顔もせず、黙礼し、それでも手をつっかえ棒にしたままでいてくれました。私が降りる駅まで。
妊婦になってから色々なことがありましたが、あんなふうにかばってもらったのは最初で最後です。
さらりと当たり前のように親切にしてくださった、最高にかっこいいお兄さん、あのときはありがとうございました。
息子は無事に生まれて、やはり電車通学をしています。
あなたのことを話し、困った人がいたらなにかあったら助けてあげるんだよと伝えています。
誰かに伝えたい「あの時はありがとう」、聞かせて!
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