目の前には「血まみれの妻」が…半年で3人の死者を出した「山形県・戸沢村人喰いグマ事件」の謎 から続く
たった半年で3人が死亡した「山形県・戸沢村人喰いグマ事件」。この惨劇はなぜ起きてしまったのか? 後編では“戸沢村の人喰いグマ”の頭骨を持つ男・T氏、現地の猟友会メンバーなどにインタビュー。
【画像】人喰いグマと正常なクマの頭蓋骨を見比べる
そこで見えたのは、クマの想像を絶する身体能力と生命力だった。明治、大正、昭和、平成、令和に起きたクマにまつわる事件を網羅した新刊『日本クマ事件簿』より一部抜粋してお届けする。(全3回の2回目/#1を読む)
なぜクマは人を襲うのか……。写真はイメージです getty
◆◆◆
調べを進めるうちに、このT氏が“戸沢村の人喰いグマの頭骨を所有していることが発覚。コンタクトを取ることに成功し、「頭骨を見せてもいい」と許可をいただいた。彼が代表取締役を務める「トガシ商会」は、山形県酒田市随一の観光名所「山居倉庫」からほど近い場所にあった。
富樫邦男さんは、不動産会社や猟銃を販売する銃砲店を経営し、自身も熟練のハンターでもある。富樫さんは以前、大声を上げても気づかないクマを撃ち、頭骨を標本にしてみたところ、弾丸が頭骨の一部を貫いた古傷があったことに驚き、異常行動をしたクマの頭骨に興味を持ったという。一連の事件のクマは常軌を逸していたため、同村のハンターから頭骨を譲り受けたそうだ。
富樫さんは、応接間の奥から台座に乗った複数の頭骨を持って来てくれた。
「触ってごらんなさい。持ち上げてもいいですよ」
お言葉に甘えて恐る恐る持ち上げてみると、ずしりと重い。そして、小指ほどの太さはありそうな鋭い牙……。この牙を持てば、人間の肉など柔らかな果物のようなものなのかもしれない。
「正常なクマの頭骨と比較すると、この矢状稜という部分が潰れているでしょう?」
例の“人喰いグマ”だという頭骨を手に持ち、“正常な”クマと異なる部分を比較して教えてくれた。 矢状稜(しじょうりょう)とは、頭骨のてっぺんおよび中心にある突起のような線で、「ウルトラマンの頭の上にあるやつ」のなだらかな感じといってもいいかもしれない。確かに、くだんの頭骨は、その部分が潰れてぼんやりとしている感じだった。 もう一つは、富樫さんが遭遇した奇行グマのものだった。おでこの辺りに穴があり、そこから貫通した弾丸によって、頭骨の一部が破壊されていた。驚くべきことに、このクマはそれだけの傷を負いながらも、回復し、生きながらえた。 しかし、脳をやられたことによって野生の本能が失われたのか、富樫さんと遭遇したとき、「普通は逃げるのに、近づいて来たから、変なクマもいるもんだと、しょうがなく撃ったんです。放っておいたら人間を襲ったかもしれないので」 並んだ頭骨を見ながら、この牙の持ち主がまっすぐに向かって来たらと思うと、五体満足のまま生還できる気は一切しなかった。村役場で聞いた新事実 酒田市を後にして、戸沢村役場に向かった。車で1時間ほど。時期は3月中旬。海側の酒田市は積雪がほとんどなかったが、内陸の戸沢村は村全体が雪にすっぽり埋もれていた。 例年、積雪は1.5mにもなるという。人口は約4300人。最上川が村を横断するように流れており、松尾芭蕉が、かの有名な「五月雨を あつめて早し 最上川」の句を詠んだ地としても有名だ。 役場で出迎えてくれたのは、総務課危機管理室の室長・小林直樹さん。小林さんによれば、この村には、現在も数十頭ほどのツキノワグマが生息しており、暮らしの中で見かけることも珍しくないという。小中学校の付近がクマの通り道になっていたり、畑や民家の裏に出没することもあるそうだ。「ただ、クマに襲われたという話は聞きませんね」 戸沢村では、山形県と随時情報を共有しながら、棲息数を調整するために、定期的にクマ狩りが行われている。その際は、この危機管理室が事務所となり、猟友会のメンバーに連絡する。 かつては、村内だけで数十名いた猟友会メンバーも、今では16人にまで減ってしまったとのこと。 小林さんには、事件に関する取材をしたいと申し込んだ際、例の「記事」のことも伝えた。すると、当時の担当職員にも当たってくださり、興味深いお話をしてくれた。「事件の前なのか後なのかはわかりませんが、村内の角川という地区で、犬がクマを連れて来て山に戻らなくなってしまい、ある農家にしばらく居ついていたことがあるようです。 その方のお話だと、当時の村の職員は山形県の環境保護部自然保護課(現・環境エネルギー部みどり自然課)と、『クマをどうするか』という相談の中継ぎをしたことがあったとか。最終的にはクマを山へ放しましたが、その家の方は現場には立ち会っておらず、県職員の方が代わりに立ち会ったそうです。 ただ、その方の家からそれぞれの事件現場までは10卍度離れていて、山系も違う集落なので、『事件との関連性については疑問が残る』と言っていました」遺体を背負い、山から下ろした人の証言 小林さんから猟友会のメンバーの一人、佐藤浩人さんを紹介していただいた。佐藤さんは、1、2件目の事件が起こった杉沢地区に住んでおり、キノコ栽培をするかたわら、猟友会の会員として、有害鳥獣駆除に参加している。2件目の事件が起こったときには、消防団員として被害者の捜索隊に加わった。「今、59歳で、33年前だから26歳のときかな。あそこんちのお母さんが亡くなったとき、消防団で捜索に入ったんです」 何十人もが朝の4~5時ごろに集まって、山に入り、ローラー作戦を行った。クマがまだ付近にいるかもしれないので、猟友会が銃を持って先導した。佐藤さんは当時は猟友会員ではなかったので、銃は持たなかった。被害者のBは、捜索開始後、ほどなく見つかったという。「ひどかったな、あれは。なかなか見て気持ちのいいものではなかった。俺、(遺体を)持ったけど。甥っ子が背負って、本家のお父さんと俺とで。肋骨が出てた。地元だし、知ってる仲だし。クマの被害っていうのは、ひどいですよ。嫌だったよな。ああいう経験は、したくないね(佐藤さん) からりとしているが、山や動物、命と関わる者の独特の重みを含んだ言葉だった。「とにかくクマは頑丈。軽トラでドンとぶつかると、軽トラの方が全損するんです。前の部分、なくなるよ! 以前、JRにぶつかって事故ったクマを捕まえたことがあるんですけど、列車に飛ばされても死んでなかった。頭をエアライフル銃の弾で撃っても傷つかず『何かあった?』みたいな顔してますから(佐藤さん) 佐藤さんの話を聞きながら、富樫さんの事務所で見た、銃弾が貫通しても生きていたクマの頭骨を思い出した。クマというものは、人間の想像を絶する身体能力と生命力を秘めた生き物らしい。なぜクマは人を襲うのか? 佐藤さんによれば、事件を受けて猟友会がクマ狩りを行った際、1週間で7~8頭のクマを捕獲したという。この話は新聞には書かれていなかった。そして、このときのクマたちも結局、加害グマであったかどうかはわからなかったという。しかし、3件目の事件以降、戸沢村で惨劇が起こることはなかった。 結局、加害グマがかつて戸沢村に滞在したかは不明。だが、現地に赴き、お話を聞いてわかったことはある。 クマは今なお人の暮らしの近くで共存していること。人間の領域とクマの領域が交叉したときに事故が起こり得ること。それぞれの領域は、気象や人間の都合などで、常に変化していること。「高齢化、過疎化、薪から化石燃料への変化で薪を採っていた山は手入れをしなくなってしまうといった理由で、山林が荒廃し、人里と山の境界が曖昧になっていることが、クマが人里まで降りて来る理由の一つだと思います(小林さん) 佐藤さんは、シイタケ栽培用のビニールハウスを指差し、教えてくれた。扉の一部が、裂けて傷ついている。「これクマだよ。爪で引っ掛けて鼻入れた跡。昔は裏手の山肌は歩くけど、ここに出なかったんですよ。ここ1、2年だね」 その変化のスピードは、思いのほか早いのかもしれない。(日本クマ事件簿取材班)
例の“人喰いグマ”だという頭骨を手に持ち、“正常な”クマと異なる部分を比較して教えてくれた。 矢状稜(しじょうりょう)とは、頭骨のてっぺんおよび中心にある突起のような線で、「ウルトラマンの頭の上にあるやつ」のなだらかな感じといってもいいかもしれない。確かに、くだんの頭骨は、その部分が潰れてぼんやりとしている感じだった。 もう一つは、富樫さんが遭遇した奇行グマのものだった。おでこの辺りに穴があり、そこから貫通した弾丸によって、頭骨の一部が破壊されていた。驚くべきことに、このクマはそれだけの傷を負いながらも、回復し、生きながらえた。 しかし、脳をやられたことによって野生の本能が失われたのか、富樫さんと遭遇したとき、「普通は逃げるのに、近づいて来たから、変なクマもいるもんだと、しょうがなく撃ったんです。放っておいたら人間を襲ったかもしれないので」 並んだ頭骨を見ながら、この牙の持ち主がまっすぐに向かって来たらと思うと、五体満足のまま生還できる気は一切しなかった。村役場で聞いた新事実 酒田市を後にして、戸沢村役場に向かった。車で1時間ほど。時期は3月中旬。海側の酒田市は積雪がほとんどなかったが、内陸の戸沢村は村全体が雪にすっぽり埋もれていた。 例年、積雪は1.5mにもなるという。人口は約4300人。最上川が村を横断するように流れており、松尾芭蕉が、かの有名な「五月雨を あつめて早し 最上川」の句を詠んだ地としても有名だ。 役場で出迎えてくれたのは、総務課危機管理室の室長・小林直樹さん。小林さんによれば、この村には、現在も数十頭ほどのツキノワグマが生息しており、暮らしの中で見かけることも珍しくないという。小中学校の付近がクマの通り道になっていたり、畑や民家の裏に出没することもあるそうだ。「ただ、クマに襲われたという話は聞きませんね」 戸沢村では、山形県と随時情報を共有しながら、棲息数を調整するために、定期的にクマ狩りが行われている。その際は、この危機管理室が事務所となり、猟友会のメンバーに連絡する。 かつては、村内だけで数十名いた猟友会メンバーも、今では16人にまで減ってしまったとのこと。 小林さんには、事件に関する取材をしたいと申し込んだ際、例の「記事」のことも伝えた。すると、当時の担当職員にも当たってくださり、興味深いお話をしてくれた。「事件の前なのか後なのかはわかりませんが、村内の角川という地区で、犬がクマを連れて来て山に戻らなくなってしまい、ある農家にしばらく居ついていたことがあるようです。 その方のお話だと、当時の村の職員は山形県の環境保護部自然保護課(現・環境エネルギー部みどり自然課)と、『クマをどうするか』という相談の中継ぎをしたことがあったとか。最終的にはクマを山へ放しましたが、その家の方は現場には立ち会っておらず、県職員の方が代わりに立ち会ったそうです。 ただ、その方の家からそれぞれの事件現場までは10卍度離れていて、山系も違う集落なので、『事件との関連性については疑問が残る』と言っていました」遺体を背負い、山から下ろした人の証言 小林さんから猟友会のメンバーの一人、佐藤浩人さんを紹介していただいた。佐藤さんは、1、2件目の事件が起こった杉沢地区に住んでおり、キノコ栽培をするかたわら、猟友会の会員として、有害鳥獣駆除に参加している。2件目の事件が起こったときには、消防団員として被害者の捜索隊に加わった。「今、59歳で、33年前だから26歳のときかな。あそこんちのお母さんが亡くなったとき、消防団で捜索に入ったんです」 何十人もが朝の4~5時ごろに集まって、山に入り、ローラー作戦を行った。クマがまだ付近にいるかもしれないので、猟友会が銃を持って先導した。佐藤さんは当時は猟友会員ではなかったので、銃は持たなかった。被害者のBは、捜索開始後、ほどなく見つかったという。「ひどかったな、あれは。なかなか見て気持ちのいいものではなかった。俺、(遺体を)持ったけど。甥っ子が背負って、本家のお父さんと俺とで。肋骨が出てた。地元だし、知ってる仲だし。クマの被害っていうのは、ひどいですよ。嫌だったよな。ああいう経験は、したくないね(佐藤さん) からりとしているが、山や動物、命と関わる者の独特の重みを含んだ言葉だった。「とにかくクマは頑丈。軽トラでドンとぶつかると、軽トラの方が全損するんです。前の部分、なくなるよ! 以前、JRにぶつかって事故ったクマを捕まえたことがあるんですけど、列車に飛ばされても死んでなかった。頭をエアライフル銃の弾で撃っても傷つかず『何かあった?』みたいな顔してますから(佐藤さん) 佐藤さんの話を聞きながら、富樫さんの事務所で見た、銃弾が貫通しても生きていたクマの頭骨を思い出した。クマというものは、人間の想像を絶する身体能力と生命力を秘めた生き物らしい。なぜクマは人を襲うのか? 佐藤さんによれば、事件を受けて猟友会がクマ狩りを行った際、1週間で7~8頭のクマを捕獲したという。この話は新聞には書かれていなかった。そして、このときのクマたちも結局、加害グマであったかどうかはわからなかったという。しかし、3件目の事件以降、戸沢村で惨劇が起こることはなかった。 結局、加害グマがかつて戸沢村に滞在したかは不明。だが、現地に赴き、お話を聞いてわかったことはある。 クマは今なお人の暮らしの近くで共存していること。人間の領域とクマの領域が交叉したときに事故が起こり得ること。それぞれの領域は、気象や人間の都合などで、常に変化していること。「高齢化、過疎化、薪から化石燃料への変化で薪を採っていた山は手入れをしなくなってしまうといった理由で、山林が荒廃し、人里と山の境界が曖昧になっていることが、クマが人里まで降りて来る理由の一つだと思います(小林さん) 佐藤さんは、シイタケ栽培用のビニールハウスを指差し、教えてくれた。扉の一部が、裂けて傷ついている。「これクマだよ。爪で引っ掛けて鼻入れた跡。昔は裏手の山肌は歩くけど、ここに出なかったんですよ。ここ1、2年だね」 その変化のスピードは、思いのほか早いのかもしれない。(日本クマ事件簿取材班)
例の“人喰いグマ”だという頭骨を手に持ち、“正常な”クマと異なる部分を比較して教えてくれた。
矢状稜(しじょうりょう)とは、頭骨のてっぺんおよび中心にある突起のような線で、「ウルトラマンの頭の上にあるやつ」のなだらかな感じといってもいいかもしれない。確かに、くだんの頭骨は、その部分が潰れてぼんやりとしている感じだった。
もう一つは、富樫さんが遭遇した奇行グマのものだった。おでこの辺りに穴があり、そこから貫通した弾丸によって、頭骨の一部が破壊されていた。驚くべきことに、このクマはそれだけの傷を負いながらも、回復し、生きながらえた。
しかし、脳をやられたことによって野生の本能が失われたのか、富樫さんと遭遇したとき、「普通は逃げるのに、近づいて来たから、変なクマもいるもんだと、しょうがなく撃ったんです。放っておいたら人間を襲ったかもしれないので」
並んだ頭骨を見ながら、この牙の持ち主がまっすぐに向かって来たらと思うと、五体満足のまま生還できる気は一切しなかった。
酒田市を後にして、戸沢村役場に向かった。車で1時間ほど。時期は3月中旬。海側の酒田市は積雪がほとんどなかったが、内陸の戸沢村は村全体が雪にすっぽり埋もれていた。
例年、積雪は1.5mにもなるという。人口は約4300人。最上川が村を横断するように流れており、松尾芭蕉が、かの有名な「五月雨を あつめて早し 最上川」の句を詠んだ地としても有名だ。
役場で出迎えてくれたのは、総務課危機管理室の室長・小林直樹さん。小林さんによれば、この村には、現在も数十頭ほどのツキノワグマが生息しており、暮らしの中で見かけることも珍しくないという。小中学校の付近がクマの通り道になっていたり、畑や民家の裏に出没することもあるそうだ。
「ただ、クマに襲われたという話は聞きませんね」
戸沢村では、山形県と随時情報を共有しながら、棲息数を調整するために、定期的にクマ狩りが行われている。その際は、この危機管理室が事務所となり、猟友会のメンバーに連絡する。
かつては、村内だけで数十名いた猟友会メンバーも、今では16人にまで減ってしまったとのこと。
小林さんには、事件に関する取材をしたいと申し込んだ際、例の「記事」のことも伝えた。すると、当時の担当職員にも当たってくださり、興味深いお話をしてくれた。
「事件の前なのか後なのかはわかりませんが、村内の角川という地区で、犬がクマを連れて来て山に戻らなくなってしまい、ある農家にしばらく居ついていたことがあるようです。
その方のお話だと、当時の村の職員は山形県の環境保護部自然保護課(現・環境エネルギー部みどり自然課)と、『クマをどうするか』という相談の中継ぎをしたことがあったとか。最終的にはクマを山へ放しましたが、その家の方は現場には立ち会っておらず、県職員の方が代わりに立ち会ったそうです。
ただ、その方の家からそれぞれの事件現場までは10卍度離れていて、山系も違う集落なので、『事件との関連性については疑問が残る』と言っていました」
小林さんから猟友会のメンバーの一人、佐藤浩人さんを紹介していただいた。佐藤さんは、1、2件目の事件が起こった杉沢地区に住んでおり、キノコ栽培をするかたわら、猟友会の会員として、有害鳥獣駆除に参加している。2件目の事件が起こったときには、消防団員として被害者の捜索隊に加わった。「今、59歳で、33年前だから26歳のときかな。あそこんちのお母さんが亡くなったとき、消防団で捜索に入ったんです」
何十人もが朝の4~5時ごろに集まって、山に入り、ローラー作戦を行った。クマがまだ付近にいるかもしれないので、猟友会が銃を持って先導した。佐藤さんは当時は猟友会員ではなかったので、銃は持たなかった。被害者のBは、捜索開始後、ほどなく見つかったという。
「ひどかったな、あれは。なかなか見て気持ちのいいものではなかった。俺、(遺体を)持ったけど。甥っ子が背負って、本家のお父さんと俺とで。肋骨が出てた。地元だし、知ってる仲だし。クマの被害っていうのは、ひどいですよ。嫌だったよな。ああいう経験は、したくないね(佐藤さん)
からりとしているが、山や動物、命と関わる者の独特の重みを含んだ言葉だった。
「とにかくクマは頑丈。軽トラでドンとぶつかると、軽トラの方が全損するんです。前の部分、なくなるよ! 以前、JRにぶつかって事故ったクマを捕まえたことがあるんですけど、列車に飛ばされても死んでなかった。頭をエアライフル銃の弾で撃っても傷つかず『何かあった?』みたいな顔してますから(佐藤さん)
佐藤さんの話を聞きながら、富樫さんの事務所で見た、銃弾が貫通しても生きていたクマの頭骨を思い出した。クマというものは、人間の想像を絶する身体能力と生命力を秘めた生き物らしい。
佐藤さんによれば、事件を受けて猟友会がクマ狩りを行った際、1週間で7~8頭のクマを捕獲したという。この話は新聞には書かれていなかった。そして、このときのクマたちも結局、加害グマであったかどうかはわからなかったという。しかし、3件目の事件以降、戸沢村で惨劇が起こることはなかった。
結局、加害グマがかつて戸沢村に滞在したかは不明。だが、現地に赴き、お話を聞いてわかったことはある。
クマは今なお人の暮らしの近くで共存していること。人間の領域とクマの領域が交叉したときに事故が起こり得ること。それぞれの領域は、気象や人間の都合などで、常に変化していること。
「高齢化、過疎化、薪から化石燃料への変化で薪を採っていた山は手入れをしなくなってしまうといった理由で、山林が荒廃し、人里と山の境界が曖昧になっていることが、クマが人里まで降りて来る理由の一つだと思います(小林さん)
佐藤さんは、シイタケ栽培用のビニールハウスを指差し、教えてくれた。扉の一部が、裂けて傷ついている。
「これクマだよ。爪で引っ掛けて鼻入れた跡。昔は裏手の山肌は歩くけど、ここに出なかったんですよ。ここ1、2年だね」
その変化のスピードは、思いのほか早いのかもしれない。
(日本クマ事件簿取材班)