安倍晋三・元首相に関する「国賊」発言で処分された村上誠一郎・衆議院議員(70)。かねてから自民党の“異端児”として歯に衣着せぬ物言いで注目を集めてきた彼が、発言の真相から岸田政権の問題点まで2時間超にわたって語り尽くした。(聞き手/ノンフィクション作家・常井健一氏)【全3回の第1回】
【写真3枚】かねてから自民党の“異端児”として歯に衣着せぬ物言いで注目を集めてきた村上誠一郎・衆院議員──昨年9月、村上さんは安倍元首相の死去に伴う国葬の決定過程に関連し、「財政、金融、外交をボロボロにし、官僚機構を壊して、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)に選挙まで手伝わせた。私から言わせれば国賊だ」と述べたことで、自民党から1年間の党役職停止処分を受けました。あの失言騒ぎが起きた経緯を教えてください。
「あの日は愛媛新聞と朝日新聞の記者が、今日の総務会(自民党の最高議決機関)でのやりとりを聞きたいっていうので、終了後に党本部で取材を受けたわけですよ」──その時は、「オフレコ」の懇談でしたか?「いや、相手は若い記者だったから、私は『録音していいよ』って許したの。で、一通り話が済んで立ち上がろうとした時に、面識のない時事通信の記者がいて、安倍さんの国葬について質問したらしいんだ。 そうしたら翌朝、どんどこ電話がかかってきて、『あんたが安倍さんを〈国賊〉と言ったって、東京新聞に出ている』って言うから、確かめたら時事通信の配信記事で出ていたけど、まったく身に覚えがない。でも、別の記者が録音を聞き直したら、(『国賊』との声が)残っていたらしい。 時事通信は『これは取った!』という感じだったのでしょう。記者はこんなに大事になると思わなかったようだけど、発言の趣旨を私に確認せずに書いた。これが真相です」──安倍派は厳しい処分を党に求めた一方で、国葬問題が国論を二分する中、異論を封じ込める形となった党の体質を批判した新聞もありました。「まさか、新聞が自民党の政治家を擁護してくれるとは思わなかった(笑)。もちろんお怒りの声はあったけど、8割以上は励ましのメールでしたね」──村上さんは特定秘密保護法、安保法制、検察庁法改正案、日本学術会議の会員選考問題など「安倍一強」の絶頂期から、政権の重要政策に異論を唱えてきました。「なにも、私はむきになって上に盾ついてるんじゃない。自分なりの見識で党内の議論を活性化しようとやってきたわけですよ。今回の処分を決めた党紀委員会の国会議員も、そこはわかってるんだ。〈役職停止〉は、〈勧告〉、〈戒告〉に次ぐ下から三番目の処分です。〈戒告〉だったら、大山鳴動して鼠一匹になっちゃう。安倍派からしたら、振り上げた拳をおろせない」岸田政権で劣化が加速──いつも多数派を敵に回して、身の危険を感じることはないんですか?「これだけ体が大きいと標的としては楽だよね」──笑えません……。「自民党は変質してしまった」というのが村上さんの持論ですが、どう変わったのでしょう。「私が初当選した時の中曾根康弘総理が立派だったのは、後藤田正晴さん(当時の官房長官)をはじめ価値観がまったく違う人を重用する度量があったわけよ。党の部会に出ても、一回生から十回生まで平等に発言権がある。党税調のボスだった山中貞則先生に30代の私がモノ申しても、誰にも怒られないんだ。 それが、2012年に安倍さんが総裁に返り咲いてから、イエスマンか、お友達ばかりを集めて、人事をたらいまわした。その結果、誰も異論を言えなくなっちゃった。 私は、岸田文雄さんはもうちょっとましだと思って、総裁選でも応援したけど、結局は安倍さんの言いなりで、独自色がいまだに出ていない。(自民党の)劣化がますます加速しちゃった」──第二次安倍政権が自民党の分岐点だった?「いや、小泉純一郎さんの郵政選挙だよ。民営化に反対した人は公認を外され、刺客を送られたじゃないですか。それで犠牲者がいっぱい出た」──当時は行政改革担当相でした。島村宜伸農相らとともに閣内から反対を唱え、最終的には閣議で署名に応じました。「小泉さんは小選挙区制導入に最後まで反対した人だけど、自分が総理になったら権力行使のために小選挙区制を最大限に利用した。 あれから為政者に逆らうと選挙で落ちるというトラウマが党内に広がったんですよ」──以降、政治経験の少ない若手が大量当選し、「チルドレン議員」がワイドショーを賑わせるようになりました。「まっとうな人材が政界に来なくなりました。党の部会では若手が自分の姿をスマホで撮って、議論になると意見が少ない。 私が初めて衆院に通った頃は、大臣になるのに5期必要と言われて、勉強を積み重ねたもんです。先輩から『専門分野を2つつくれ』と。 私は財政・金融と商工関係をやって、大蔵政務次官、衆院大蔵委員長、財務副大臣と階段を上りながら、各省庁の同世代で優秀な官僚たちを集めて勉強会を続けてきました。その中から、20年間で8人の事務次官が出ました」──政と官が切磋琢磨して、人材が育った。「政治家は選挙で苦労している、官僚は安い給料で真夜中まで働いてるって、政と官がリスペクトし合って、いつも本音で語った。 ところが、公務員法改正で内閣人事局ができてから、政治家が人事権で官僚を抑え込んだから、彼らも正論を言えなくなった。 だから、やっていいことと悪いことがあるんだ。学問の自由や三権分立や立憲主義も、時の為政者が破ろうと言い出したら、みんな同調しちゃう。赤木俊夫さんや伊藤詩織さんの事件でも黙っちゃう。梶山静六さんや河本敏夫先生がご存命なら、私以上に猛反発したよ」(第2回に続く)【プロフィール】村上誠一郎(むらかみ・せいいちろう)/衆院議員(自民党・当12)。1952年愛媛県生まれ。東京大学卒業後、河本敏夫(郵政相、通産相など)の秘書に。1986年に旧愛媛2区で初当選。自民党河本派に属し、2004年小泉内閣で初入閣(行政改革担当相など)。2010年高村派を退会し、無派閥に。安倍・菅両政権の方針に異論を唱え続け、「自民党のひとり良識派」の異名を取る。【聞き手】常井健一(とこい・けんいち)/1979年茨城県生まれ。ノンフィクション作家。朝日新聞出版を経て、フリーに。数々の独占告白を手掛け、粘り強い政界取材に定評がある。代表作『無敗の男』(文藝春秋)は大宅賞最終候補に。近著『おもちゃ 河井案里との対話』(同前)が講談社・本田靖春賞ノミネート。※週刊ポスト2023年1月27日号
──昨年9月、村上さんは安倍元首相の死去に伴う国葬の決定過程に関連し、「財政、金融、外交をボロボロにし、官僚機構を壊して、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)に選挙まで手伝わせた。私から言わせれば国賊だ」と述べたことで、自民党から1年間の党役職停止処分を受けました。あの失言騒ぎが起きた経緯を教えてください。
「あの日は愛媛新聞と朝日新聞の記者が、今日の総務会(自民党の最高議決機関)でのやりとりを聞きたいっていうので、終了後に党本部で取材を受けたわけですよ」
──その時は、「オフレコ」の懇談でしたか?
「いや、相手は若い記者だったから、私は『録音していいよ』って許したの。で、一通り話が済んで立ち上がろうとした時に、面識のない時事通信の記者がいて、安倍さんの国葬について質問したらしいんだ。
そうしたら翌朝、どんどこ電話がかかってきて、『あんたが安倍さんを〈国賊〉と言ったって、東京新聞に出ている』って言うから、確かめたら時事通信の配信記事で出ていたけど、まったく身に覚えがない。でも、別の記者が録音を聞き直したら、(『国賊』との声が)残っていたらしい。
時事通信は『これは取った!』という感じだったのでしょう。記者はこんなに大事になると思わなかったようだけど、発言の趣旨を私に確認せずに書いた。これが真相です」
──安倍派は厳しい処分を党に求めた一方で、国葬問題が国論を二分する中、異論を封じ込める形となった党の体質を批判した新聞もありました。
「まさか、新聞が自民党の政治家を擁護してくれるとは思わなかった(笑)。もちろんお怒りの声はあったけど、8割以上は励ましのメールでしたね」
──村上さんは特定秘密保護法、安保法制、検察庁法改正案、日本学術会議の会員選考問題など「安倍一強」の絶頂期から、政権の重要政策に異論を唱えてきました。
「なにも、私はむきになって上に盾ついてるんじゃない。自分なりの見識で党内の議論を活性化しようとやってきたわけですよ。今回の処分を決めた党紀委員会の国会議員も、そこはわかってるんだ。
〈役職停止〉は、〈勧告〉、〈戒告〉に次ぐ下から三番目の処分です。〈戒告〉だったら、大山鳴動して鼠一匹になっちゃう。安倍派からしたら、振り上げた拳をおろせない」
──いつも多数派を敵に回して、身の危険を感じることはないんですか?
「これだけ体が大きいと標的としては楽だよね」
──笑えません……。「自民党は変質してしまった」というのが村上さんの持論ですが、どう変わったのでしょう。
「私が初当選した時の中曾根康弘総理が立派だったのは、後藤田正晴さん(当時の官房長官)をはじめ価値観がまったく違う人を重用する度量があったわけよ。党の部会に出ても、一回生から十回生まで平等に発言権がある。党税調のボスだった山中貞則先生に30代の私がモノ申しても、誰にも怒られないんだ。
それが、2012年に安倍さんが総裁に返り咲いてから、イエスマンか、お友達ばかりを集めて、人事をたらいまわした。その結果、誰も異論を言えなくなっちゃった。
私は、岸田文雄さんはもうちょっとましだと思って、総裁選でも応援したけど、結局は安倍さんの言いなりで、独自色がいまだに出ていない。(自民党の)劣化がますます加速しちゃった」
──第二次安倍政権が自民党の分岐点だった?
「いや、小泉純一郎さんの郵政選挙だよ。民営化に反対した人は公認を外され、刺客を送られたじゃないですか。それで犠牲者がいっぱい出た」
──当時は行政改革担当相でした。島村宜伸農相らとともに閣内から反対を唱え、最終的には閣議で署名に応じました。
「小泉さんは小選挙区制導入に最後まで反対した人だけど、自分が総理になったら権力行使のために小選挙区制を最大限に利用した。
あれから為政者に逆らうと選挙で落ちるというトラウマが党内に広がったんですよ」
──以降、政治経験の少ない若手が大量当選し、「チルドレン議員」がワイドショーを賑わせるようになりました。
「まっとうな人材が政界に来なくなりました。党の部会では若手が自分の姿をスマホで撮って、議論になると意見が少ない。
私が初めて衆院に通った頃は、大臣になるのに5期必要と言われて、勉強を積み重ねたもんです。先輩から『専門分野を2つつくれ』と。
私は財政・金融と商工関係をやって、大蔵政務次官、衆院大蔵委員長、財務副大臣と階段を上りながら、各省庁の同世代で優秀な官僚たちを集めて勉強会を続けてきました。その中から、20年間で8人の事務次官が出ました」
──政と官が切磋琢磨して、人材が育った。
「政治家は選挙で苦労している、官僚は安い給料で真夜中まで働いてるって、政と官がリスペクトし合って、いつも本音で語った。
ところが、公務員法改正で内閣人事局ができてから、政治家が人事権で官僚を抑え込んだから、彼らも正論を言えなくなった。
だから、やっていいことと悪いことがあるんだ。学問の自由や三権分立や立憲主義も、時の為政者が破ろうと言い出したら、みんな同調しちゃう。赤木俊夫さんや伊藤詩織さんの事件でも黙っちゃう。梶山静六さんや河本敏夫先生がご存命なら、私以上に猛反発したよ」
(第2回に続く)
【プロフィール】村上誠一郎(むらかみ・せいいちろう)/衆院議員(自民党・当12)。1952年愛媛県生まれ。東京大学卒業後、河本敏夫(郵政相、通産相など)の秘書に。1986年に旧愛媛2区で初当選。自民党河本派に属し、2004年小泉内閣で初入閣(行政改革担当相など)。2010年高村派を退会し、無派閥に。安倍・菅両政権の方針に異論を唱え続け、「自民党のひとり良識派」の異名を取る。
【聞き手】常井健一(とこい・けんいち)/1979年茨城県生まれ。ノンフィクション作家。朝日新聞出版を経て、フリーに。数々の独占告白を手掛け、粘り強い政界取材に定評がある。代表作『無敗の男』(文藝春秋)は大宅賞最終候補に。近著『おもちゃ 河井案里との対話』(同前)が講談社・本田靖春賞ノミネート。
※週刊ポスト2023年1月27日号