多くの企業が新入社員を迎え入れる春。新卒はもちろん、転職してきた人たちで職場の空気は一変する。だが、業務内容や職場環境など、人により理由はさまざまだが、せっかく就職したにもかかわらず、すぐに退職してしまう人もいる。 複数の企業から内定をもらったら1社を選び、ほかは辞退する。これが常識なのだが、内定辞退をすることなく、4月を迎えた男性がいる。大きなトラブルを引き起こしているのだが、淡々と出社している。
今回は実際に起きた事例をもとに、内定とその辞退について考えたい。本記事の前半で具体的な事例を、後半で人事の専門家の解決策を掲載する。事例は筆者が取材し、特定できないように加工したものであることをあらかじめ断っておきたい。
◆事例:2社から内定承諾したまま就職
2023年4月に中堅メーカー(社員数500人)に新卒で入った金田義人(仮名・23歳)は、昨年春の大学4年時に2社から内々定を得た。その後、いずれかを選ぶべきだったが、迷うものがあり、辞退しなかった。10月1日に2社から正式に内定となる。早いうちに1社の内定を辞退すべきだったが、決断できなかった。
結局、1社(中堅メーカー)を決めたのが3月。それで4月に入社した。もう1社(A社)には、4月以降も内定辞退の連絡すらしていない。A社は、金田が入社式に来るものと思っていた。人事部は「出社をするように」と金田の自宅に電話を繰り返した。
男性は電話に出ない。それもそのはずで、昼間は入社した中堅メーカーで働いているのだ。A社から、ついに抗議の手紙が自宅に届いた。それを読んだ母親が、電話で抗議をしてきた。「息子がそちらに入社しないこと自体が、内定辞退でしょう?」。A社の人事部長は「わけがわからない」と漏らす。
◆形式上2社に入社できる?
大手士業系コンサルティングファーム・名南経営コンサルティング代表取締役副社長で、社会保険労務士法人名南経営の代表社員である大津章敬さんに取材を試みた。大津さんが、まず今回の最も根幹となる問題を指摘する。
「大企業をはじめ、多くの企業は通常はまず内々定を出して、その後、多くの場合、10月1日に内定を出します。この内定の時点で労働契約が成立。今回の事例のそもそもの問題点は、ここにあります。10月1日までに学生はほかの企業からの内定があるならば、それを断り、翌年の4月1日に入社をするということで契約を結びます。
だからこそ、内定承諾書に『4月1日には必ず入社する』といった意味合いの文言があり、それにサインをします。言い換えると入社するか否か、わからないのに労働契約を結ぶというのはそもそもおかしい。そのような状況であれば、その会社と相談を行った上で対応を決めることが通常です。
ところが、今回のケースでは2023年4月以降も男性は内定を辞退していないから、中堅メーカーとA社の計2社に形式上、入社していることになります。二重の契約が成立しているのです。昨年10月に労働契約が成立し、今年4月1日に効力が発生していて、本来、こんなことはあってはならない。A社には速やかに内定辞退をすべきでした」
◆事例の男性は「明らかに問題がある」
そのうえで、「実態として、一部に内定以降に辞退をするケースはあります」として、大津さんは自らのコンサルティング経験をもとに解説する。

ただ、事例の男性は4月まで内定辞退をすることなく、現在に至っているのだから明らかに問題です。A社は、入社することを前提にさまざまな準備をしたはず。例えば、社員各自が使うパソコンを用意したのではないでしょうか。早いうちに内定を辞退していたら、欠員を補充する採用もできたのかもしれません。A社は、何らかの損害を受けている可能性があります」
◆企業が損害を被りながらも泣き寝入り
このような状況の場合、企業によっては男性に対して損害賠償の請求を検討することもあるだろう。しかし、大津さんは「私がA社から労務相談を受けたら、男性を解雇したり、損害賠償を請求したりするのは避けるようにアドバイスします」と言う。
「現実的にはこのまま退職という扱いにするのが、妥当だと思います。ただし、本人に『入社しません』という文書を出してもらうようにはすべきです。解雇にすると『辞めさせた』ということになりかねず、リスクがともなう。例えば『内定辞退をした人を解雇にした』というところが強調され、ネットなどで拡散されかねないのです」
◆会社側が出社を促すのは当然
企業から男性への連絡やその母親の企業への抗議に対して、大津さんは「4月以降、企業からの電話にも男性は反応しない。4月1日に労働契約の効力が発生しているのだから、出社を促すのは当然です。母親が怒りの電話をしてきたようだが、これも的外れな主張です」と述べる。
「事例の男性の母親の言葉で『息子がそちらに入社しないこと自体が、内定辞退でしょう?』を日常生活で起こりうるケースに置き換えて説明すると、宅配ピザを注文しておき、家に届くと『気分が変わったからもういらない』とドアを開けず、受け取らなかったケースに似ています。
その時、『受け取っていないから、キャンセルが成立する』といった話は本来、ありえません。“注文したこと=契約を交わした”ということなのだから、ピザの会社が注文をした人に請求し、それに応じないならば損害賠償をすることは(実際にするか否かはともかく)当然と言えます。
こういう事例を知ると、働くうえでの最低限度の基礎知識は高校や専門学校、大学などで学んでおいたほうがいいとあらためて思います。最近は、売り手市場の影響で企業が採用のハードルを下げる傾向がある。結果としてこういう問題が生じやすくなっているとも言えるでしょう」
◆働くうえでの最低限度の基礎知識は大切
今回の取材をしていると、大津氏の指摘どおり、働くうえでの最低限度の基礎知識はつくづく大切と感じる。就職活動をする学生に限らない。社長や役員、管理職、社員、労働組合役員たちにも必要だろう。
入社から退職まで、労務トラブルになりうるポイントがある。例えば、配置転換(人事異動)、転勤、出向や転籍、賃金の支給、労働時間の管理や残業、有給休暇などだ。法律など一定のルールがあるにもかかわらず、それぞれが独自の考えや判断で行動をとるケースもある。人間関係の摩擦や不毛な労使紛争は、こんな些細なところから始まるのではないか。
<取材・文/吉田典史>
【大津章敬(おおつあきのり)】1994年から社会保険労務士として中小企業から大企業まで幅広く、人事労務のコンサルティングに関わる。専門は、企業の人事制度整備・ワークルール策定など人事労務環境整備。全国での講演や執筆を積極的に行い、著書に『中小企業の「人事評価・賃金制度」つくり方・見直し方』(日本実業出版社)など。全国社会保険労務士会連合会 常任理事
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