痴漢や高額転売ヤーの疑いがある人々をYouTuberがスマートフォンのカメラを向けたまま取り囲んだり、疑惑の人物を腕力で取り押さえたりする「私人逮捕」の動画が問題になっています。
ソーシャルメディアで一定の支持を集めていますが、「気持ちは分かるが、やり過ぎではないか」といった意見が多いようです。
この問題は、一見したところ一部の特殊な人たちがやっていることで、自分たちにはあまり関係がないという印象を持つかもしれません。しかし、生理的な嫌悪感や不正に対する怒りに基づいた行為は共感を呼びやすく、当事者にならなくとも片棒を担ぐ事態は十分あり得ることです。
筆者は、このような現象が起こる背景には3つのポイントがあると考えています。
・自粛警察の流れ(自警団的欲望)・アテンション・エコノミー(注目は金なり)・エッジワーク(危険な行為に伴う快楽)
順に説明します。
まずコロナ禍で過激化した自粛警察に代表される「世間」の過剰な内面化です。当時の政府の自粛要請は、ほとんどの場合、法的強制力を伴わないものであり、スピード違反のような警察の取締り対象ですらありませんでした。
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けれども、非常時には一致団結し、我慢するのが当たり前とする日本的「世間」を内面化した人々にとっては、法律違反などよりも許し難い「掟破り」に映ったのです。
「みんな不自由な思いをして政府が求める行動の制限などの感染症対策に努めているのに、勝手に遊びに行ったり、人が集まったりしているのはけしからん」と考え、隣人たちは公園で遊ぶ子どもたちを見て110番したり、飲食店に脅迫まがいの落書きをしたり、県外ナンバーの車を傷付けたりしたのです。
日本では、有名人の不倫バッシングに特徴的なように「世間」に波風を立てる事柄であればあるほど、ネットリンチに代表される勝手連的な私裁が横行しやすい傾向があります。
世間に広く認められ、自らを律している規範意識が裏目に出やすいといえます。「世間」という最も重要な価値基準が蔑ろにされる緊急事態であるから、超法規的な手段によって抑え込むことも仕方がないという構図です。
もちろん単なる正義感という面はありますが、仮にそうであれば通報するだけで事足りるはずです。
わざわざ犯罪が疑われる人々を探しに出掛け、カメラを回し、疑惑の人物をソーシャルメディアに晒す。これが公権力の空白を埋めるために出現した自警団的なものというよりかは、「世間」という秩序の破壊者(とみなせる者を含む)への警告と、他者への寛容性を欠いた独善的な私権の発露であることを物語っています。この際、他者は「悪魔化」され、「魔女狩り」の様相を呈します。
2つ目はアテンション・エコノミーの文脈です。
1997年に社会学者のマイケル・ゴールドハーバーが提唱した「アテンション・エコノミー(関心経済)」という概念は、デジタルネットワークが発達する中で「どれだけ耳目を集められるか」が最も重大な局面となり、人々の注意を瞬時に方向付けたり、持続させる技術にその覇権が移行したりすることを指しています。要するに「注目は金なり」です。
実際、YouTuberはその典型例であり、何かしら事件をでっち上げてでも自分のメディアアカウントに注意を払ってもらう必要があります。このようなネット特有の生態系を踏まえると、私人逮捕系YouTuberは「迷惑系YouTuber」の亜種と考えるのが妥当と思われます。
とりわけ芸能人の暴露系YouTuberとして名を馳せたガーシーこと東谷義和被告への風当たりの強さの高まりを境目に「迷惑系」がやや退潮するのと並行して、私人逮捕系が台頭した節があります。
そもそもソーシャルメディアなどで注目してもらわなければ意味がないので、摘発行為自体が見世物と化しやすく、究極的には検証がおざなりになる懸念があります。
単に通りすがりの女性を眺めていただけで、複数の男性に取り囲まれ、「警察に行きましょう」と圧力をかけられた男性の動画が好個の例です。彼は正義の鉄槌を下すべくアテンション・エコノミーの先兵となった配信者にとってちょうどいい生け贄だったのです。
また複数人で構成される私人逮捕系YouTuberのグループは、活動そのものが自分たちのアイデンティティのよすがとなり、それゆえに過激化する恐れもあります。
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これは様々な 市民運動ですでに起こっていることですが、過激な抗議活動をウリにするグループと同様に、”映える”私人逮捕場面をウリにしてしまうと、やがては暴走して、暴行や傷害事件に発展する可能性があります。
そのような過激さを期待するオーディエンスの存在がグループ全体を奮い立たせ、新たな戦果を得ようとする機運が高まるという共犯関係も後押しすることになります。
2020年に東京都内の地下鉄の駅で痴漢を疑われた男性が、追いかけてきた男性ともみ合い、追いかけた方の男性に頭蓋骨骨折の大ケガを負わせた事件がありました。その後の裁判で、痴漢を疑われた男性に無罪が言い渡されており、この種の「私人逮捕」の危うさを示しているといえます。
3つ目は、これまでのポイントにも関連するエッジワークの観点です。
「エッジワーク」とは、スカイダイビングやロッククライミング、モータースポーツなど、「危険であるが快感を伴う行為」を指しています。
犯罪学者のジョック・ヤングは、犯罪者研究を行うロジャー・マシューズの論文を取り上げ、マシューズが「多くの犯罪の実際の動機にあるのは合理的な金銭目的よりもむしろ支配したいという感覚であり、アドレナリンが噴き出る興奮なのである」と指摘していることを重要視しました(『後期近代の眩暈 排除から過剰包摂へ』木下ちがや・中村好孝・丸山真央訳、青土社)。
ここにおいてエッジワークは、格闘技をはじめとした対人接触の場面でも応用が効く概念であることが明確になります。
とりわけ「自己の劇場性」という言葉は、ものの見事にアテンション・エコノミーとの親和性を表すものです。「世間」から見て道徳的な嫌悪感を催させる痴漢、買春、転売などの当事者を徹底的に追い詰め、その様子を世界中に発信する行為は、自ら進んでリスクを取ってカオスに飛び込み、束の間の自律性というコントロール感に打ち震える機会となるからです。見方によっては、これもグループの過激化要因の一つといえます。
それは「ギリギリ(エッジ)であること、あるいはそれを超えていること、つまり理性を超え情熱に身を浸すことは、精神的でロマン主義的ユートピアを刹那的に手に入れることなのだ」(同上)と述べている通り、むしろ意図せぬ危険の発生やコンフリクト(言い争いや衝突)は願ってもいないシチュエーションとなるでしょう。
なぜなら、それこそがアドレナリンが放出される最良の状態であり、生の充実感を増幅してくれるからです。
以上の3つのポイントを踏まえると、私人逮捕系YouTuberの問題がわたしたちとさほど無関係ではないことが見えてきます。それは、単純に秘めた欲望だけではなく、わたしたちが置かれた境遇と地続きだからでもあります。
ジョック・ヤングは、「後期近代の世界を生き延びるためには、相当な努力、自己統制、抑制が必要である」と言っています(前掲書)。これは、気を緩めれば家計が火の車になるといった「倹約と浪費」、セックスやアルコールなどの気晴らしに関わる「禁欲と享楽」という緊張状態を上手く立ち回る精神力と言い換えられます。
そのようなライフスタイルの自己管理が日夜神経を圧迫する過酷な社会状況においては、「自分たちが法的に(あるいは道徳的に)クリーン」であるという事実のみからしか、自尊心を汲み出すことができなくなっているといえるかもしれません。
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ただでさえ、物価高と増税によって国民の生活不安が増大し、政治にもまったく希望が持てない中で、わたしたちは容易にソーシャルメディア上の「魔女狩り」に惹き付けられ、内容の評価とは無関係に、過激な動画を気晴らしとして消費する可能性があります。
だとすれば、私人逮捕系YouTuber的な正義の鉄槌は、これまでわたしたちの社会にあった「世間」という宗教に根差した道徳警察的なものの変種であり、まさに鏡を見るかのようにそこにわたしたち自身の姿を見い出しつつ、その欲望に取り憑かれないよう対峙していかなければならないのでしょう。