12月8日深夜、突如として安らかな眠りを破ったマグニチュード7.5の地震。最大震度6強を記録したこの地震の影響で、北海道から東北の太平洋沿岸部に一時、津波警報や注意報が発令された。
【写真】特に被害がひどかったビルやホテル
翌9日未明には久慈港で70センチ、浦河で50センチ、そして八戸港でも40センチの津波が観測された。北海道、青森、岩手を中心に50人以上が重軽傷を負ったものの、現時点で死者は確認されていない。命が助かったからといって「よかった」で終わるほど、現実は甘くはない。NEWSポストセブン取材班が八戸港付近へ足を運ぶと、そこには数字には表れない”二次被害”が広がっていた──。
八戸市の繁華街。本来ならば忘年会シーズンの熱気で溢れかえるはずの師走の夜に、どこか重苦しい空気が漂っている。取材班が訪れたある和食居酒屋では、40代の店主がため息交じりに電話を見つめていた。
「店の中? 土鍋とグラスが一つずつ割れたぐらいですよ。地震の揺れによる直接的な被害なんて、その程度で済みました。地震があるとやっぱりメディアが大きく報道するでしょう。そうするとキャンセルの電話が凄くて……もう電話を取らないようにしたいぐらいですよ(笑)」
「今回の地震はマグニチュードの大きさの割に、市内の被害は少なかった」と強調する店主だが、彼らを苦しめているのは別のことのようだ。
「年末の書き入れ時を直撃されたのが、とにかく痛手ですね。正直、地震そのものの被害より、その後の『自粛ムード』による経済的なダメージのほうが遥かに大きい。ここは田舎で、漁師さん同士などの横の繋がりが非常に強い地域。仕入れなどでも関わりがあるし、『あそこで誰が飲んでた』なんて噂はすぐに広まってしまう。だから余計に、みんな人の目を気にして外に出なくなるんです」
居酒屋店主が気にかけていた”漁師たち”は、あの日、何をしていたのか。八戸漁港で網の手入れをしていたイカ漁師の男性(50代)が、当時の緊迫した状況を語り始めた。
「3.11からの教訓なんですが、津波が来ると分かったら、座礁から船を守るために沖へ出さなきゃならないんです。だから地震があった直後、真っ暗で凍結している道路を車で飛ばして、急いで船に来ましたよ」
漁港には、他の漁師仲間も集まってきていたという。
「今はイカ漁に出たくても出られない船が、港にびっしりと係留されているんです。今年は豊漁で南の漁師はたくさんとれたからいいけど、それで漁獲枠を超えてしまって北の漁師はとれないんです。そんな状態でみんなが一斉に動こうとしたもんだから、何か所か船同士をぶつけてしまいました。3.11の時は、まだ国から補助金が出て船を直せましたが、今の政府は絶対に助けてくれないと思いますよ。だから、何がなんでも自力で船を守らないといけない。少しの傷でも致命傷になる。同業者でも、もう限界が来て廃業する人がたくさん出ていますよ」
震度6強の揺れが収まった後も、被災地の人々の心は、揺さぶられ続けているのだ。