未曽有の高齢化が進む現代の日本において、高齢者の生活を支える介護施設の役割はますます重要性を増しています。しかしながら慢性的な人手不足が深刻な介護業界では、施設によって提供されるサービスの質に差が生じる実情があって……。本記事では村田さん(仮名)の事例とともに、親の介護への備えについて、波多FP事務所の代表ファイナンシャルプランナー・波多勇気氏が解説します。※プライバシー保護の観点から、相談者の個人情報および相談内容を一部変更しています。

「もうここにはいたくないんだ。お願いだ、助けてくれ!」
村田和男さん(仮名/82歳)は面会にやってきた娘を認めるなり、車いすを漕いで近づき、スカートの裾をつかみました。村田さんは神奈川県内の介護付き有料老人ホームで暮らしています。年金収入は月12万円。数年前に妻を亡くし、要介護2の認定を受けたことで、施設に入所して3年が経ちました。
長女の美香さん(仮名/53歳)は都内で会社勤めをしています。月に1~2回は父の様子をみにくるようにしており、その日もいつもどおりの訪問のつもりだったのです。しかし、父の逼迫した様子は明らかに異常でした。しゃくりあげるように涙するのです。
「ど、どうしたの? 体調悪いの?」美香さんはなんとか父を落ち着かせようとしました。
「ううん、体は大丈夫……。でもな……ここはもう、つらいんだよ」
普段はあまり不満を零すタイプではない父の言葉に、美香さんは驚きました。食事が合わないとか、施設の設備が古いというような話であれば以前から耳にしていましたが、今回の“助けて”という言葉にはどのような意味があるのでしょうか。
「部屋に戻ろう」と促し、父に付き添い廊下を歩いていると、突然ナースコールが鳴り響きました。近くの個室から高齢女性の叫び声が聞こえます。
「すみません! おしっこ漏れちゃいそうなんです!」
それに対して、職員の一人が叫ぶように答えました「いま忙しいんで、ちょっと待っててくださーい!」。声には苛立ちが混じっていて、その場にいた美香さんは思わず足を止めました。父も、声を落としてつぶやきます。
「……ああいうの、最近よくあるんだ。この前大勢の職員が一気に辞めたらしくて。職員も疲れてるんだろうけど、こっちはなにもいえなくなるよ」
その夜、美香さんは帰宅しても胸がざわつき、スマートフォンで「介護施設 虐待」「人手不足 老人ホーム」などと検索を繰り返しました。
2023年9月の総務省統計では、日本の高齢化率は29.1%。つまり、10人に約3人が65歳以上という前例のない状況です。需要の増加に追いつかない介護施設では、人手不足が慢性化しています。厚労省の「介護労働実態調査(2023年)」によると、介護職員の7割以上が「人手不足によってサービスの質が維持できない」と回答しています。
さらに、年金収入が少ない高齢者が利用できる施設には限界があります。和男さんのように月12万円の年金では、民間の高級施設(月額20~30万円)には到底入れません。結果、低価格帯の施設に集中しやすく、そこでは職員一人が日中でも7~8人、夜間は十数人を担当するようなケースも珍しくありません。
「このあいだもね、夜中にトイレに行きたくてナースコール押したんだけど、30分以上来なくてさ。間に合わなくて、シーツ汚しちゃったんだよ。それを謝ったらね、『またですか?』っていわれたんだよ。わざとじゃないのに、情けなくてね……」
美香さんは胸が締めつけられました。
施設の職員が悪いとはいいきれません。人手も足りず、給与も業務に見合っていないことはわかっています。2023年の平均給与は約26万円。若い人材の定着が難しい現場に、過剰な期待をすること自体が無理なのかもしれません。それでも、美香さんは思いました。
「このまま、父の尊厳を削るような環境に置いていいのだろうか?」

「もっといい施設に移したいんです。でも月5万~10万円の差額は、簡単には出せません」
美香さんの家庭も決して余裕があるわけではありません。高校生の息子に、住宅ローン、老後資金の準備……。親の介護に大きな支出を割ける家庭は、実際にはごくわずかです。こうした“介護のはざま”にいる家庭がいま、増えています。ファイナンシャルプランナーとして、以下の3つの備えを強くおすすめします。
年金額、預貯金、保有資産などを、きちんと一覧にして把握することが、支援の現実的な一歩になります。
自分の老後とは別に、「親の介護のための積立」を月1~2万円ずつ始めておくと、いざというときの安心感がまるで違います。
もし親にまとまった資産がある場合、信託や贈与を活用すれば、本人の判断能力が衰えても柔軟な支援が可能になります。
「娘に負担をかけたくないって思ってたけれど……。本音をいうと、つらいときに頼れるのはやっぱり家族なんだよな」父の言葉を、美香さんは静かにうなずきながら聞いていました。
親の介護は突然始まります。でも、備えは“今日から”できます。まだ大丈夫と思っているその瞬間こそが、一番のチャンスかもしれません。経済的な備えと、心の対話。どちらも欠かせない「介護のスタートライン」です。
波多 勇気
波多FP事務所
代表ファイナンシャルプランナー