《日本では、ヘルプマークさえあれば何をしても大丈夫》
–そんな言葉とともに拡散された1本の動画が、SNSをザワつかせた。画面には、赤地に白で十字とハートのマークが描かれた「ヘルプマーク」を身につけた中国人観光客とみられる団体旅行者が、飲食店の入口を塞いでいる場面が映っていた。
動画を撮影したのは日本人客とみられ、その映像が《中国の旅行代理店が中国人観光客向けにヘルプマークを配布している》という噂とともに拡散した。真偽は定かではないが、「ヘルプマークを付けていれば日本旅行を優位に楽しめる」などと説明して配布していたとされ、一気に広まった。
X(旧Twitter)では《ディズニーランドでも体は健常そうに見えるのに車いすを借り、パス代わりに使って順番を飛ばす中国人観光客を見かけた》というポストが出回り、怒りと不安は瞬く間に雪だるま式に膨らんでいった。
背景には、大阪・関西万博での「特例配布」の存在がある。2025年の開催期間中、訪日外国人で配慮を必要とする人を対象に、会場や主要駅でヘルプマークを配布する取り組みが行われた。その案内画像の一部が切り取られ、「外国人なら誰でも書類不要で受け取れる」との誤解が広まったのだ。
そして一部のネットユーザーが火に油を注いだ。彼らは「中国人が制度を誤解している」とは見ておらず、”仕組みを知った上で『旅行ハック』として悪用している”と受け止めたのだ。小さな配慮をお願いするための仕組みが、「ズルをするための免罪符」と見なされた瞬間、日本社会の善意は裏切られたように映ってしまった。
炎上は事実より感情が先行する。今回も例外ではなく、《中国語が聞こえたら無視すべきだ》《中国人は犯罪者だ》《観光に来る元気があるなら不要だ》《性善説の仕組みはもう通用しない》と、どんどんエスカレートしていった。
国際障害者団体の日本支部であるDPI日本会議の佐藤聡事務局長は「制度の目的が置き去りにされている」と嘆く。
「ヘルプマークは2012年に東京都が導入した、小さな赤いタグです。内部障害や難病、妊娠初期など、外からは見えにくい困難を抱える人が周囲に知らせ、援助を受けやすくするために作られました。
現在では全国の自治体に広がり、電車やバスでは席を譲ってもらう、駅員に声をかけやすくなるといった場面で役立っています。『特別なパス』ではなく、生活の中のちょっとした配慮を受けやすくするための目印なのです」
制度の大きな特徴は、その手軽さと柔軟さにある。証明書や診断書を求められることなく、口頭で申し出れば無料でヘルプマークを受け取ることができる。家族や支援者が代理で受け取ることもできる。
対象を限定しないことで、外からはわかりにくい症状や一時的に配慮を必要とする人にも対応してきた。鉄道やバスの事業者も協力する形で、日常生活に組み込まれていったのだ。
前出の佐藤事務局長が警鐘を鳴らす。
「国籍は関係ありません。援助を必要とする人なら誰でも利用して構いませんが、必要のない人まで使ってしまうと趣旨が歪んでしまいます。例えば『本当に困っているのか』と周囲が疑うようになれば、席を譲ってもらえない、声をかけてもらえないといった不利益が生じかねません。最終的には、制度そのものの信頼を揺るがす危険があるのです」
なぜヘルプマークは「旅行ハック」として受け止められてしまったのか。中国のSNS事情に詳しい旅行業界関係者がその背景を説明する。
「小紅書(RED)や微博(Weibo)といった中国のSNSでは、“日本旅行の便利アイテム”を紹介する投稿が人気です。その中にヘルプマークが登場することがあり、『席を譲ってもらいやすい』『困ったときに助けてもらえる』といった体験談と一緒にシェアされています。実際には“優先レーンの特別パス”ではないのですが、誤解されてしまったのでしょう。
中国の旅行代理店が日本でヘルプマークをまとめて入手し、観光客に配布していたという噂も耳にします。実際の供給経路は不明ですが、これがSNSで拡散されると“裏技”と結びついてしまった」
ヘルプマークはあくまで配慮をお願いするための目印で、法的な後ろ盾はない。それにもかかわらず、SNS上では特権の象徴のように誤解されてしまった。前出の佐藤事務局長は言う。
「外国人旅行者のあいだで、ヘルプマークが『旅行ハック』として紹介されているとは、私は知りませんでした。趣旨と違う利用が広まっているのは残念です。だからこそ、誤解を防ぐために制度の意味をもっと丁寧に説明し、多言語で周知していく必要があると感じています。本当に必要な方が安心して利用できるように、対象を正しく伝えていくことが大事だと思います」
ヘルプマークは「ズルをするための道具」ではなく、社会に向けた「静かなお願い状」だ。その意味を正しく理解し、必要な人が安心して使えるよう支えること。怒りや不信を燃料に制度を壊すのではなく、冷静な手当てで守っていくことこそが、我々に課せられた責務だろう。
取材・文:松本 大