9月30日、東京都杉並区堀ノ内の民家が倒壊し、隣接する高級マンションの敷地になだれ込んだ(写真:共同)
【写真あり】高級マンションに押し寄せる大量の住宅の残骸… 事故現場のあまりにも異様な光景
東京・杉並区で起きた住宅倒壊事故は、われわれの住環境がいかに脆弱かを示した。この問題を放置するわけにはいかない。現状では、擁壁の安全確保は所有者の責任だが、これを見直し、公的主体の関与を大きくする必要があるだろう。しかし、具体的にどのような方策をとるかは極めて難しい問題だ。日本の政治は今すぐこれを重要な政治問題とみなし、議論を始める必要がある――。野口悠紀雄氏による連載第157回。
9月30日夜に、東京・杉並区で住宅の倒壊事故が起きた。築57年の一戸建ての住宅が擁壁(高低差のある土地で側面の土の崩落を防ぐためにつくる壁)ごと崩壊し、狭い通路を挟んだ向かい側にある新築マンションの敷地になだれ込んだのだ。幸いなことに死者はなかったが、あまりの事故の異様さに多くの近隣住民がショックを受けた。
この事故は、極めて深刻な問題をわれわれに突きつけている。第1の問題は、このような事故を未然に防ぐための法令や制度が整備されていないことだ。そして第2の問題は、今回の擁壁崩壊には、9月11日の集中豪雨が影響していることだ。
まず、第1の問題を考えよう。高台や宅地造成された土地など、土砂の圧力や水圧がかかり地盤が安定しない場所、つまり、そのままでは住宅を建設できない急傾斜地の場合、擁壁を作って水平な土地を造成し、そこに住宅を建設する。
このような仕組みは全国のいたるところに見られるが、建築基準法などで構造が定められている。今回の事故の場合、擁壁は現在のように規制が強化される以前に作られたものであったため、強度が十分でなかったといわれている。
現在の建築基準法では、土地の所有者は擁壁の維持管理と保全の責任を負うことになっている。このため、行政が介入して擁壁の修復などを所有者に強制したり、実際に修復したりすることは非常に難しい(危険度が非常に高いと判断される場合、行政の判断で補修工事を行うことは不可能ではないが、費用は所有者に求める必要があり、極めて難しいとされる)。
所有者が改修の必要を認めたとしても、改修が大規模の場合には巨額の資金が必要だ。だから、安全性に問題があると指摘されても、所有者が直ちに対応することは難しい場合が多いだろう。
今回の杉並区の場合も、今年の初め頃、「擁壁に亀裂が入って壊れそうだ」という通報が付近の住民からあり、杉並区は近寄らないようにとの注意書きを設けていた。また、持ち主に対して、補強を勧告していた。
ただ、強制はできず、行政指導的な対応にとどまっていた。所有者から、業者の手配ができたとの連絡があった直後に事故が発生したのだという。
結局のところ、擁壁の安全性を確保する全責任はその土地の所有者にあるという現在の制度の限界が明らかになったわけだ。これでは、擁壁近くの住民は安心して住むことができない。問題がある擁壁はここ以外にも多数あるといわれている。その近隣の住民は、つねに潜在的な危険にさらされているわけだ。
この事件がわれわれに突きつけている第2の問題は、擁壁崩壊の原因として9月11日の集中豪雨の影響を無視できないことである。
この日の集中豪雨は、品川区や目黒区、大田区などで、地下店舗への浸水事故など深刻な被害をもたらした。杉並区でも、これまでなかったような記録的な集中豪雨があり、それが地中にたまって、強い水圧となって擁壁を破壊したのであろうといわれている。もちろん、豪雨がなくともいずれは崩壊した可能性があるが、引き金になったとはいえる。
これによって明らかになったのは、日本の都市がこのような雨量に耐えるだけの安全性を確保していないという事実だ。
これまでの日本の洪水対策は、河川の氾濫に備えることを目的としていた。堤防の川側を「堤防外」と言うため、これは「堤外氾濫」と呼ばれる。ところが、9月11日の氾濫は、堤防の市街地側で起こった。これは「堤内氾濫」と呼ばれるものだ。
事故現場の近辺を流れる善福寺川では、たびたび護岸工事が施されてきた(写真: 如月霜多/PIXTA)
杉並区の事故地点のすぐ近くには、善福寺川が流れている。この川はときどき氾濫しているので、対策が講じられていた。これは、善福寺川の堤外氾濫に備えたものだ。
しかし、今回事故が生じたのは、堤防の川側ではなく、市街地側だ。これまで対策がなされていなかったところで問題が生じたのだ。
堤内氾濫は、日本の都市が整備された高度成長期には、重視されていなかった災害だ。地球温暖化による気象条件の変化で集中豪雨が起きるようになり、これまで想定されていなかったような堤内氾濫が、新しい危機として私たちの安全を脅かす存在となったのだ。
今回わかったのは、集中豪雨が地下街や地下店舗、地下駐車場などの浸水だけでなく、擁壁に対しても深刻な被害をもたらしうるという事実だ。集中豪雨を防げない以上、そして、日本の都市は内水氾濫に対してほとんど何の準備もしていない以上、内水氾濫による擁壁の崩壊は今後も起こりうるものだ。また、地震による擁壁崩壊も十分にありうる。
だから、今回の事故は決して特殊なものではない。同じような事故が今後いくら起こっても不思議ではない。堤内氾濫は、堤防の強化によっては対処できない問題であるから、被害が起こりそうな場所について優先的に対策を強めざるをえないだろう。
擁壁の安全確保についてとくに重要なのは、現状のように所有者が100%の責任を持つという制度では安全を確保できないということだ。それに対処するため、今後は擁壁に関する条件をさらに強化し、その条件を満たさない擁壁上での建築は許可しないことが考えられる。
しかし、それだけでは十分でない。現在すでに、擁壁は、全国の至るところに建設されているからだ。これらについてはどうするのか。
擁壁の建設当時には存在しなかった強い規制を現時点で課し、それに適合しない場合には擁壁強化を強制するということが可能だろうか。その強制に従わない場合には、どのような措置がありうるのか。
擁壁を用いた傾斜地の宅地造成は今も日本各地で進められている(写真:sarakazu/PIXTA)
さらに、擁壁強化のための出費が必要な場合、それに対して何らかの公的な援助が必要か否かという問題もある。
当該擁壁の安全性が、地域の住環境に重大な影響を与えると考えられる場合には、 擁壁強化のために、一定の公的な援助を支出するという措置は当然考えられる。だが、その財源をどうするかは簡単な問題ではない。また、援助の比率をどの程度にするかも極めて難しい問題だ。
あるいは、問題のある敷地を公的主体が買い上げ、擁壁を強化したうえで、公的な利用に供するということも考えられる。ただし、こうした制度を整備しても、全国に散在する多数の擁壁を一挙に強化することは不可能だ。
劣化の程度などを考慮しつつ、緊急に補強すべき箇所を優先することが必要だろう。その選別は簡単なことではない。
これらは極めて難しい問題だ。そして、極めて高度の政治的判断を要する問題である。そのために、十分な議論が必要だ。集中豪雨が決して珍しい現象ではなくなってしまった今、すぐにでも日本の政治はこの問題を議論し始める必要がある。
(野口 悠紀雄 : 一橋大学名誉教授)