「まだ2人も子供がいるじゃない」…秋田連続殺害事件・畠山鈴香が日記に書いた”口にしてはならない言葉”

2006年に秋田県藤里町で発生した児童連続殺人事件。小学4年生の娘であるAちゃん(当時9)と、近くに住む小学1年生のBくん(当時7)を殺害した畠山鈴香受刑者(52)は、09年5月に無期懲役が確定し、現在は福島県の福島刑務支所で服役している。
鈴香の初公判は07年9月12日に秋田地裁で開かれた。そこで彼女は、Aちゃん殺害について、「殺害しようと決意したことはない」と否認。続いてBくん殺害については、「間違いない」と認めたものの、「当時の精神状態が正常だったかわからない」と心神耗弱状態だったことを主張している。
実際、鈴香は取り調べ時から証言が二転、三転していた。まずはその場しのぎの言葉を発し、取調官から証言内容の矛盾を追及されると、内容を変更するということを繰り返してきたのだ。
そうしたことから、鈴香の精神鑑定に携わった鑑定医は、鑑定調書に、〈(鈴香)被告は安易に調書の記載内容を認めてしまう傾向がある〉と記している。
私は鈴香の初公判の10日後から、約2カ月間にわたって書かれた彼女の日記のコピーを入手。そこには普段から抱いていた周囲への不信や不満、さらには被害者遺族に対する言葉が綴られていた。
なぜ自身の娘を含む、2人の子供の幼い命が奪われなければならなかったのか。その理由を理解するために、以下、紹介していきたい。(一部を抜粋。なお、実名は仮名に変更、一部誤字は原文ママにしている)
〈3年生の(Aちゃんの)担任の先生は私が授業参観と個人面談の2回しか来なかったと言いましたが、それは誤解で、1年、2年の時は、すべての授業参観と個人面談に参加しています。ただ、親同士のPTA等には一度も参加していません。理由は2つ有ります。1つは保育園、ようち園、小学校と1クラスずつしかなく小学校に上がる時点ですでに親同士のグループができていて和の中に入って行けなかった事。もう1つは入学当時から、転校生扱いだったAが近所の子供とトラブルを起こし、PTA等親同士の輪の中に入って行きづらかった事が有り、持ち上がりの事もあって出席しませんでした。〉
これは、第2回公判で、Aちゃんの担任が証人として出廷した際の、証言に対する反論であると思われる。さらに後日書かれた日記では、同担任が学校でイジメ等はなかったと証言していたことについて、あくまでもイジメはあったと主張する鈴香。その真偽は不明だが、彼女は〈(Aちゃんが)亡くなったからどうでもいいではやっぱり悔しいです〉と綴っている。
〈ちょうど1ヶ月前の8月25日(土)私は最初は両手で、次にはタオルで首をしめました。理由は毎月生理はくるのにもう二度と血のつながった子供を抱けないのかと…
多くの人が私の極刑を望んでいるのも知っています。でも弟と母さんが待っていてくれる。好きな人もいます。
死んでしまいたい自分と生きていたい自分、どちらも本当の自分だと思っています。たった3人の為だけに生きていたい、間違っていてもそう思います。帰りたい。少しでも早く帰りたい。〉
鈴香が明かしているのは、自殺を試みたが、最後は思いとどまってしまったということ。同日の日記には〈何か少しでも不安になると悪い方へ悪い方へ考えてしまい、生きているのが嫌になる〉と自らの性格についても語る。
〈Aはまだサンタクロースを信じていて、亡くなった後、部屋の片付けをしていたらサンタクロースあての手紙が出て来ました。「サンタさんまい年プレゼントありがとう、こんどのクリスマスもよろしくね」とあり涙が出ました。〉
〈母さん、生んでくれてありがとう
Y(*弟)、守ってくれてありがとう。先を諦めないで家庭を持って今度は家族を守って
2人共ありがとう、でももう気力が無いよ
死にたいよ、死刑になってもいい
辛い…
死刑になりたい
生きていけない
母さんとYの為に生きてなきゃと思うけどもう駄目です
ごめんなさい〉
〈苛々する。泣きたいのに泣けない。のどの奥に何かつまる様な感じがする。苦しい。
書いてもいいのか判らないが書く事にした。Bくんの事です。
Bくんに対して後悔とか反省はしているけれど悪い事をした。罪悪感というものが、Aに比べてほとんど無いのです。
御両親にしても何でそんなに怒っているのか判らない。まだ2人も子供がいるじゃない。
今まで何も無く幸せで生きて来てうらやましい。私とは正反対だ。よかれと思って何かしても裏目裏目に出てしまった。正反対の人生を歩いてうらやましい。
そう思ってしまうのは悪い事なんだろうか?
もう駄目だ。前に進めない。道が続いていたとしても歩き続けることはできない。足を出そうとしても動けない。動きたくない。何をしてもうまくいかないだろう。だったら動かない方がいいもの…
辛い事も苦しい事も何もいらない。ただ静かにひっそりと生きたかった。それすらもかなわなかった。十分がんばって生きた。もういいだろう。〉
自分の辛さを散々訴えた挙げ句、死にたいとまで綴る鈴香は、あろうことか、被害者であるBくんを殺害した罪悪感が無いと嘯(うそぶ)く。さらには、悲しみに暮れるBくんの両親に対して口にしてはならない言葉を並べ、羨みの感情を隠そうとしない。
鈴香による関係者への悪態はさらに続く。
〈検事は東京での公判の時私が泣いたのを親友が私の思い通りに話してくれなくて泣いたのだろうと言った。この人には一生私の気持ちは通じないと思った。Yさん(*Bくんの父)の言う通りの刑罰を望みますと言った。母と弟、私も泣いていた。検事は罪を軽くする為にそんな事を言ったのだろうと言われた。やっぱり検事は判ってない。それとも職業がら人の言葉を素直に受けとれず言葉の裏を考えるのだろうか? 哀れな人だ。〉
〈私は傷ついています。もう裁判なんてどうでもいいとさえ思っています。1人は辛い。何もいらなくなる。人の温もりを感じたい。寂しい。今すぐ家族の元へ帰れなければ死を選びたい。ギリギリの状態で今にもはちきれそうな感じです。家族の事を悪く言われるのに耐えられない私に挑発するように検事は母と弟をチクチクやるだろう。今から考えてもゾッとする。生きて帰りたい私と死にたい私。今は死にたい方が強い。ちょっとした隣の部屋の物音にも苛々する。怒鳴りたくなる。必死で我まんする。叫ぼうか迷った事もある。何も無いはずなのに苛々が止まらない。〉
こうした日記を記した鈴香に対して、前出の鑑定医は彼女の生育、生活環境に起因する「人格障害」との見方をしている。中高生時代に繰り返された父親(故人)による暴力と、同鑑定医曰く「近すぎる」母親との関係が、こうした人格を形成したというのだ。
鑑定医は鈴香の精神鑑定時に、100の単語を次々と口頭で提示し、それを聞いて連想した言葉をなるべく早く答えさせる「言語連想検査」を行っていた。たとえば「女」→「母親」、「先生」→「大学」、「心」→「不安」といったやり取りである。
この検査で出た刺激語(単語)に鈴香は2~5秒で反応していたが、なかには10秒以上経過しても連想できない刺激語もあったようだ。そういう反応不能と判定された刺激語は、意識下に抑圧され、本人にも自覚できない「力」が作用していると考えられており、潜在する強い葛藤の存在が窺えるとされる。
ちなみに、鈴香が反応不能を起こした刺激語は、「妻」、「罰」、「嘘」、「正直」、「軍手」、「ありばい」、「目撃」の7語だった。
———-小野 一光(おの・いっこう)ノンフィクションライター1966年生まれ。福岡県北九州市出身。雑誌編集者、雑誌記者を経てノンフィクションライターに。「戦場から風俗まで」をテーマに北九州監禁殺人事件、アフガニスタン内戦、東日本大震災などを取材し、週刊誌や月刊誌を中心に執筆。著作に『完全犯罪捜査マニュアル』『東京二重生活』『風俗ライター、戦場へ行く』などがある。———-
(ノンフィクションライター 小野 一光)