短刀を持って政治家を刺殺…「必ず相手の腹を刺すことができると思った」政治テロ犯の“17歳少年”、異例の“実名報道”がされたワケ

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1949年に少年法が施行され、20歳未満が「少年」と定められてからも、新聞各社はしばしば少年犯罪の犯人を実名で報道していた。1958年12月、ついに法務省から抗議を受けた日本新聞協会は、少年法に則って少年犯罪を匿名で報道する方針を示す。
【画像】腹の高さに短刀を構え、浅沼稲次郎社会党委員長に体当たりする17歳の山口二矢の写真を見る ところが1960年、その方針があるにも関わらず、実名で報道された「少年」がいた。白昼堂々と野党第一党の党首を刺殺した、山口二矢(当時17歳)である。

どうして山口二矢だけが例外だったのか――。毎日新聞記者の川名壮志さんが、少年事件の歴史から社会を読み解いた一冊『記者がひもとく「少年」事件史 少年がナイフを握るたび大人たちは理由を探す』(岩波書店)より抜粋して、当時の新聞紙面や関係者の証言を振り返る。(全2回のうち1回目/後編を読む)◆◆◆たった一人で政治を翻弄した少年テロリスト 1960年10月12日。事件は、東京・日比谷公会堂で発生した。この日は、自民、民社、社会の3党首による立会演説会が開かれていた。午後3時すぎ、民社党の西尾末広の演説が終わり、社会党の浅沼稲次郎が登壇する(その後には、池田勇人首相の演説が控えていた)。 演説を会場で聞いていた山口は、とつぜん立ち上がって舞台に駆けあがると、その勢いのまま短刀で浅沼を刺殺した。そしてその場で現行犯逮捕された。 刺殺の瞬間は、NHKも映像でとらえていた。この演説会を録画していたのである。 その映像を見ると、会場は聴衆であふれかえっている。ヤジが激しく、司会を務めたNHKの小林利光アナウンサーが、「静粛に」と繰り返している様子も映しだされている。浅沼がダミ声で演説をはじめてしばらくすると、学生服にコートを羽織った山口が、猛烈なスピードで浅沼に駆け寄り、その胸とわき腹を刺している。それは、刃物で刺すというより、全精力をぶつけた体当たりだった。激しい衝撃で、山口のかけていた丸眼鏡が吹き飛んでいる。「自分は力も体力もないから、刺そうとすれば体をかわされて失敗する。自分の腹に刀の柄の頭をつけて、刀を水平に構えて走った勢いで体当たりすれば、必ず相手の腹を刺すことができると思った」 後に山口は、警視庁公安二課の調べにそう供述している。 17歳による政治テロ。山口は事件の直前まで、赤尾敏が率いる大日本愛国党に入党していた。だが、彼はあくまでも単独の犯行だと供述した。「浅沼委員長を倒すことは日本のため、国民のためになることであると堅く信じて殺害した。自分一人の信念で決行したこと」。調べに取り乱した様子はなかったという。戦後初めての政治家暗殺、新聞各紙の報道は… 戦前には青年将校たちによる政治テロが相次いだ。五・一五事件で犬養毅首相が射殺され、二・二六事件で高橋是清蔵相が殺害されるなど、思想が若者を駆りたてた。 だが、山口の事件は、戦後初めての政治家の暗殺だった。 「浅沼委員長 刺殺さる 犯人・右翼少年を逮捕」(朝日) 「浅沼委員長刺殺さる 犯人(大東文化大学学生)を逮捕」(読売) 「浅沼委員長刺殺さる 犯人は十七才の少年」(毎日) 各紙は街頭で号外を撒いて事件の発生を伝え、夕刊の一面でも報じた。今度は朝日を含めて、全紙が実名だった。 「浅沼氏暗殺 政局に大波紋」(朝日) 「浅沼刺殺事件 政局に衝撃」(読売) 「浅沼氏刺殺・政局に衝撃」(毎日) 翌日の朝刊でも、各紙は一面トップでこの事件を報じた。 ちなみに、新聞という紙媒体の特徴は、テーマ別に紙面を割り振り、一覧性を高めていることにある。事件や事故なら社会面、政治は政治面、経済は経済面、海外の話なら国際面、のように各分野ごとに扱うページが振り分けられている。 だが、その原則が崩れるのが一面だ。政治、経済、社会のジャンルを問わず、その日の最も大きなニュースを報じるページだからだ。 当時の紙面を開いてみると、全紙そろって少年事件を一面で取りあげるケースは、ほとんどない。だが、この山口二矢の事件は特別だった。例外的に一面で報道されたのである。 事件は少年事件を超えて、政治家へのテロとして扱われた。事件翌日以降の紙面でも、警察庁長官らの責任が追及され、右翼の取締強化の必要性が訴えられた。国会の解散と総選挙が予定されていた時期でもあり、政府も選挙日程の調整などの対応に追われた。一人の少年の蛮行が、国政を動かしたのである。 時は、まさに安保闘争まっただなか。テロ行為に及んだのは、何も山口だけではなかった。山口の事件に先立つこの年の6月には、社会党顧問の河上丈太郎衆院議員が、20歳の工員にナイフで刺された。7月には、退陣間近の岸信介首相が、総理官邸で65歳の男に短刀で刺されている。二人とも命には別条はなかったが、安保をめぐり、暴力的で不穏な空気が醸成されていた。 安保闘争は若者の心を動かしており、国会突入デモで東大生の樺美智子が亡くなったのもこの年だった。この時期の若者たちは、政治の季節に生きていたのである。 今でこそ、政治に無関心だといわれるが、60年代の若者たちは政治への関心が高かった。そして、山口もその一人だった。この一連の末は、後にノンフィクション作家の沢木耕太郎が「テロルの決算」として著しており、知る人も多いだろう。沢木耕太郎『テロルの決算』(文春文庫) 山口は警視庁の調べに、河上を襲撃した20歳の工員について触れ、「本当に国を思った純粋な気持ちでやったと敬服した」と供述している。17歳の山口にも、政治のうねりが少なからず影響していた。「山口二矢」実名で報道した理由とは… それにしても、新聞協会の方針があったのに、各紙はなぜ山口を実名で報じたのか。 読売は「読者と編集者」という小欄で、実名報道をした理由を、こんな風に明らかにしている。 「今度の浅沼委員長刺殺という事件は、一般の傷害殺人事件とは比較にならないほど重大です。単に成人だからとか少年だからということではなく、日本の政治上大きな影響を及ぼすものです。(中略)反社会的行動をした人間の行為を大衆の福祉のために伝えることと、人権を守るということは別問題です。(中略)こんどの事件の場合、やむをえず姓名を紙面にだしました」 また、後に新聞協会の前田雄二事務局次長は「政治的な事件でもあり、各紙の社会部長会で、少年保護よりも社会的利益が強く優先するケースにあたると判断した」としている。 山口は、その年の11月、東京少年鑑別所の単独室で自殺した。ベッドのシーツを裂いて、裸電球を覆う金網に巻きつけ、首をつった。各紙は山口の自殺も、実名、顔写真付きで一面で報じている。 世間がとらえた山口は、先鋭的で、早熟で、反俗的な少年だった。殺害の動機は、テロリズム。政治的な山口の存在は大人と同様に扱われた。彼は少年法が想定するような「保護」されるべき「少年」像からはかけ離れている、と捉えられていたのである。 だが、その一方で、この事件は、あまりにも政治的な側面ばかりから報じられており、少年としての山口の姿が見えづらい、ともいえた。 山口の叔父は、作家の村上信彦だった。彼は雑誌「婦人公論」に寄稿し、山口と父との関係について、こう書いている。 「私は永年、氏(二矢の父)とつきあってきたが、子供と打ちとけて語り合う姿を見たことがない。反対に、命令と一喝で片づける場面はたびたびあった。一喝主義が彼の家庭教育であったと思う。どこの子供にも反抗期というものがあるが、兄(寄稿では実名)にしても弟の二矢にしても反抗期らしいもののみられないのが特徴である。そうした子供らしい自由な芽は刈り取られていた。口数の少い、自己表現のないこの子供たちの抑圧心理が、どのようにゆがめられて外部に奔出する危険があるかは想像できる」 村上は、事件の背景に二矢と父との複雑な親子関係を見ていた。その指摘は、今の典型的な少年事件の見立てと重なる。 だが、こうした見方が世間に広がることはなかった。登山ナイフで二人を刺殺…動機となったのは テロ事件の余波は、政治を離れて言論の分野にも広がる。山口の事件から4カ月後。今度は中央公論社の社長宅が、17歳の少年に襲撃される。 社長の嶋中鵬二は不在だったが、家政婦の女性(50)が登山ナイフで刺殺され、嶋中の妻も重傷を負った。 この少年も、事件前日まで右翼団体に所属していた。少年は犯行の翌日に自首。出版社のトップを狙った動機は、雑誌に掲載された小説「風流夢譚」だった。 作家の深沢七郎の手によるこの小説は、皇族が登場人物。過激な描写を問題視した宮内庁が名誉棄損での提訴を検討すると報じられるなど、掲載直後から物議をかもしていた。 少年は、この小説の内容に憤慨し、社長宅を襲撃したのである(この風流夢譚事件により、メディアによる皇室批判がタブー化されたともいわれる)。 「けさ犯人つかまる 十七歳の少年 元大日本愛国党員」(朝日) 「中央公論社長宅襲撃犯人つかまる 17歳の元愛国党員」(読売) 「けさ浅草の交番で 右翼少年(一七)を逮捕」(毎日) ――各紙はこの事件でも、少年の逮捕を実名、写真入りで夕刊の一面で報じた。 この事件の実名報道も、新聞協会が定めた方針とは異なっていた。少年が逃走中ならまだしも、彼はすでに逮捕されていたのである。山口と同様に、この事件の少年も、早熟で先鋭的なテロリストだった。保護されるべき「子供」とは見られなかったのである。政治テロ以外の「少年事件」の扱いは ただ、60年代には、政治テロのような大きな意義付けのない少年事件については、各紙は匿名報道へと舵を切っている。ためしに山口二矢の事件があった1960年の紙面を開いてみる。 住み込みの17歳少年が同僚刺殺(東京・6月)/16歳高校生が父刺殺(同・同)/18歳工員が人妻刺殺(東京・7月)/18歳高校生がパチンコ店員刺殺(神奈川・12月)/17歳高校生が同級生刺殺(大分・12月)/中学3年が同級生を刺殺(神戸・12月)――。 今であれば、どれも社会面アタマで扱われてもおかしくないニュースだが、いずれの事件も、名前は「少年A」のように匿名で報じられている。50年代に散見された実名報道は、60年代には確実に減る。逮捕の報道も、社会面の十行あまり~数十行の記事にとどまっている。少年事件は、特別なことがない限り、大きく報じられなくなった。 少し細かくみると、たとえば60年11月、東京・足立区で8歳の女児が川で死亡しているのが見つかった。犯人が逃走し、警視庁が捜査するという、記事が大きくなるパターンにあてはまったため、発生当初は大きく報じられた。しかし、それが16歳の少年とわかると、記事は一気に小さくなった。 少なくとも、事件に「子供」の要素が含まれる少年事件は、加害者の「親の立場」に立って実名が報じられなくなり、記事の扱いも小さくなったのである。「容疑者は14歳、中学3年」取材班に走る衝撃…「少年A」が起こした“神戸連続児童殺傷事件”はそれまでの少年犯罪と何が違ったのか へ続く(川名 壮志)
ところが1960年、その方針があるにも関わらず、実名で報道された「少年」がいた。白昼堂々と野党第一党の党首を刺殺した、山口二矢(当時17歳)である。
どうして山口二矢だけが例外だったのか――。毎日新聞記者の川名壮志さんが、少年事件の歴史から社会を読み解いた一冊『記者がひもとく「少年」事件史 少年がナイフを握るたび大人たちは理由を探す』(岩波書店)より抜粋して、当時の新聞紙面や関係者の証言を振り返る。(全2回のうち1回目/後編を読む)
◆◆◆
1960年10月12日。事件は、東京・日比谷公会堂で発生した。この日は、自民、民社、社会の3党首による立会演説会が開かれていた。午後3時すぎ、民社党の西尾末広の演説が終わり、社会党の浅沼稲次郎が登壇する(その後には、池田勇人首相の演説が控えていた)。
演説を会場で聞いていた山口は、とつぜん立ち上がって舞台に駆けあがると、その勢いのまま短刀で浅沼を刺殺した。そしてその場で現行犯逮捕された。
刺殺の瞬間は、NHKも映像でとらえていた。この演説会を録画していたのである。 その映像を見ると、会場は聴衆であふれかえっている。ヤジが激しく、司会を務めたNHKの小林利光アナウンサーが、「静粛に」と繰り返している様子も映しだされている。浅沼がダミ声で演説をはじめてしばらくすると、学生服にコートを羽織った山口が、猛烈なスピードで浅沼に駆け寄り、その胸とわき腹を刺している。それは、刃物で刺すというより、全精力をぶつけた体当たりだった。激しい衝撃で、山口のかけていた丸眼鏡が吹き飛んでいる。「自分は力も体力もないから、刺そうとすれば体をかわされて失敗する。自分の腹に刀の柄の頭をつけて、刀を水平に構えて走った勢いで体当たりすれば、必ず相手の腹を刺すことができると思った」 後に山口は、警視庁公安二課の調べにそう供述している。 17歳による政治テロ。山口は事件の直前まで、赤尾敏が率いる大日本愛国党に入党していた。だが、彼はあくまでも単独の犯行だと供述した。「浅沼委員長を倒すことは日本のため、国民のためになることであると堅く信じて殺害した。自分一人の信念で決行したこと」。調べに取り乱した様子はなかったという。戦後初めての政治家暗殺、新聞各紙の報道は… 戦前には青年将校たちによる政治テロが相次いだ。五・一五事件で犬養毅首相が射殺され、二・二六事件で高橋是清蔵相が殺害されるなど、思想が若者を駆りたてた。 だが、山口の事件は、戦後初めての政治家の暗殺だった。 「浅沼委員長 刺殺さる 犯人・右翼少年を逮捕」(朝日) 「浅沼委員長刺殺さる 犯人(大東文化大学学生)を逮捕」(読売) 「浅沼委員長刺殺さる 犯人は十七才の少年」(毎日) 各紙は街頭で号外を撒いて事件の発生を伝え、夕刊の一面でも報じた。今度は朝日を含めて、全紙が実名だった。 「浅沼氏暗殺 政局に大波紋」(朝日) 「浅沼刺殺事件 政局に衝撃」(読売) 「浅沼氏刺殺・政局に衝撃」(毎日) 翌日の朝刊でも、各紙は一面トップでこの事件を報じた。 ちなみに、新聞という紙媒体の特徴は、テーマ別に紙面を割り振り、一覧性を高めていることにある。事件や事故なら社会面、政治は政治面、経済は経済面、海外の話なら国際面、のように各分野ごとに扱うページが振り分けられている。 だが、その原則が崩れるのが一面だ。政治、経済、社会のジャンルを問わず、その日の最も大きなニュースを報じるページだからだ。 当時の紙面を開いてみると、全紙そろって少年事件を一面で取りあげるケースは、ほとんどない。だが、この山口二矢の事件は特別だった。例外的に一面で報道されたのである。 事件は少年事件を超えて、政治家へのテロとして扱われた。事件翌日以降の紙面でも、警察庁長官らの責任が追及され、右翼の取締強化の必要性が訴えられた。国会の解散と総選挙が予定されていた時期でもあり、政府も選挙日程の調整などの対応に追われた。一人の少年の蛮行が、国政を動かしたのである。 時は、まさに安保闘争まっただなか。テロ行為に及んだのは、何も山口だけではなかった。山口の事件に先立つこの年の6月には、社会党顧問の河上丈太郎衆院議員が、20歳の工員にナイフで刺された。7月には、退陣間近の岸信介首相が、総理官邸で65歳の男に短刀で刺されている。二人とも命には別条はなかったが、安保をめぐり、暴力的で不穏な空気が醸成されていた。 安保闘争は若者の心を動かしており、国会突入デモで東大生の樺美智子が亡くなったのもこの年だった。この時期の若者たちは、政治の季節に生きていたのである。 今でこそ、政治に無関心だといわれるが、60年代の若者たちは政治への関心が高かった。そして、山口もその一人だった。この一連の末は、後にノンフィクション作家の沢木耕太郎が「テロルの決算」として著しており、知る人も多いだろう。沢木耕太郎『テロルの決算』(文春文庫) 山口は警視庁の調べに、河上を襲撃した20歳の工員について触れ、「本当に国を思った純粋な気持ちでやったと敬服した」と供述している。17歳の山口にも、政治のうねりが少なからず影響していた。「山口二矢」実名で報道した理由とは… それにしても、新聞協会の方針があったのに、各紙はなぜ山口を実名で報じたのか。 読売は「読者と編集者」という小欄で、実名報道をした理由を、こんな風に明らかにしている。 「今度の浅沼委員長刺殺という事件は、一般の傷害殺人事件とは比較にならないほど重大です。単に成人だからとか少年だからということではなく、日本の政治上大きな影響を及ぼすものです。(中略)反社会的行動をした人間の行為を大衆の福祉のために伝えることと、人権を守るということは別問題です。(中略)こんどの事件の場合、やむをえず姓名を紙面にだしました」 また、後に新聞協会の前田雄二事務局次長は「政治的な事件でもあり、各紙の社会部長会で、少年保護よりも社会的利益が強く優先するケースにあたると判断した」としている。 山口は、その年の11月、東京少年鑑別所の単独室で自殺した。ベッドのシーツを裂いて、裸電球を覆う金網に巻きつけ、首をつった。各紙は山口の自殺も、実名、顔写真付きで一面で報じている。 世間がとらえた山口は、先鋭的で、早熟で、反俗的な少年だった。殺害の動機は、テロリズム。政治的な山口の存在は大人と同様に扱われた。彼は少年法が想定するような「保護」されるべき「少年」像からはかけ離れている、と捉えられていたのである。 だが、その一方で、この事件は、あまりにも政治的な側面ばかりから報じられており、少年としての山口の姿が見えづらい、ともいえた。 山口の叔父は、作家の村上信彦だった。彼は雑誌「婦人公論」に寄稿し、山口と父との関係について、こう書いている。 「私は永年、氏(二矢の父)とつきあってきたが、子供と打ちとけて語り合う姿を見たことがない。反対に、命令と一喝で片づける場面はたびたびあった。一喝主義が彼の家庭教育であったと思う。どこの子供にも反抗期というものがあるが、兄(寄稿では実名)にしても弟の二矢にしても反抗期らしいもののみられないのが特徴である。そうした子供らしい自由な芽は刈り取られていた。口数の少い、自己表現のないこの子供たちの抑圧心理が、どのようにゆがめられて外部に奔出する危険があるかは想像できる」 村上は、事件の背景に二矢と父との複雑な親子関係を見ていた。その指摘は、今の典型的な少年事件の見立てと重なる。 だが、こうした見方が世間に広がることはなかった。登山ナイフで二人を刺殺…動機となったのは テロ事件の余波は、政治を離れて言論の分野にも広がる。山口の事件から4カ月後。今度は中央公論社の社長宅が、17歳の少年に襲撃される。 社長の嶋中鵬二は不在だったが、家政婦の女性(50)が登山ナイフで刺殺され、嶋中の妻も重傷を負った。 この少年も、事件前日まで右翼団体に所属していた。少年は犯行の翌日に自首。出版社のトップを狙った動機は、雑誌に掲載された小説「風流夢譚」だった。 作家の深沢七郎の手によるこの小説は、皇族が登場人物。過激な描写を問題視した宮内庁が名誉棄損での提訴を検討すると報じられるなど、掲載直後から物議をかもしていた。 少年は、この小説の内容に憤慨し、社長宅を襲撃したのである(この風流夢譚事件により、メディアによる皇室批判がタブー化されたともいわれる)。 「けさ犯人つかまる 十七歳の少年 元大日本愛国党員」(朝日) 「中央公論社長宅襲撃犯人つかまる 17歳の元愛国党員」(読売) 「けさ浅草の交番で 右翼少年(一七)を逮捕」(毎日) ――各紙はこの事件でも、少年の逮捕を実名、写真入りで夕刊の一面で報じた。 この事件の実名報道も、新聞協会が定めた方針とは異なっていた。少年が逃走中ならまだしも、彼はすでに逮捕されていたのである。山口と同様に、この事件の少年も、早熟で先鋭的なテロリストだった。保護されるべき「子供」とは見られなかったのである。政治テロ以外の「少年事件」の扱いは ただ、60年代には、政治テロのような大きな意義付けのない少年事件については、各紙は匿名報道へと舵を切っている。ためしに山口二矢の事件があった1960年の紙面を開いてみる。 住み込みの17歳少年が同僚刺殺(東京・6月)/16歳高校生が父刺殺(同・同)/18歳工員が人妻刺殺(東京・7月)/18歳高校生がパチンコ店員刺殺(神奈川・12月)/17歳高校生が同級生刺殺(大分・12月)/中学3年が同級生を刺殺(神戸・12月)――。 今であれば、どれも社会面アタマで扱われてもおかしくないニュースだが、いずれの事件も、名前は「少年A」のように匿名で報じられている。50年代に散見された実名報道は、60年代には確実に減る。逮捕の報道も、社会面の十行あまり~数十行の記事にとどまっている。少年事件は、特別なことがない限り、大きく報じられなくなった。 少し細かくみると、たとえば60年11月、東京・足立区で8歳の女児が川で死亡しているのが見つかった。犯人が逃走し、警視庁が捜査するという、記事が大きくなるパターンにあてはまったため、発生当初は大きく報じられた。しかし、それが16歳の少年とわかると、記事は一気に小さくなった。 少なくとも、事件に「子供」の要素が含まれる少年事件は、加害者の「親の立場」に立って実名が報じられなくなり、記事の扱いも小さくなったのである。「容疑者は14歳、中学3年」取材班に走る衝撃…「少年A」が起こした“神戸連続児童殺傷事件”はそれまでの少年犯罪と何が違ったのか へ続く(川名 壮志)
刺殺の瞬間は、NHKも映像でとらえていた。この演説会を録画していたのである。
その映像を見ると、会場は聴衆であふれかえっている。ヤジが激しく、司会を務めたNHKの小林利光アナウンサーが、「静粛に」と繰り返している様子も映しだされている。浅沼がダミ声で演説をはじめてしばらくすると、学生服にコートを羽織った山口が、猛烈なスピードで浅沼に駆け寄り、その胸とわき腹を刺している。それは、刃物で刺すというより、全精力をぶつけた体当たりだった。激しい衝撃で、山口のかけていた丸眼鏡が吹き飛んでいる。
「自分は力も体力もないから、刺そうとすれば体をかわされて失敗する。自分の腹に刀の柄の頭をつけて、刀を水平に構えて走った勢いで体当たりすれば、必ず相手の腹を刺すことができると思った」
後に山口は、警視庁公安二課の調べにそう供述している。
17歳による政治テロ。山口は事件の直前まで、赤尾敏が率いる大日本愛国党に入党していた。だが、彼はあくまでも単独の犯行だと供述した。
「浅沼委員長を倒すことは日本のため、国民のためになることであると堅く信じて殺害した。自分一人の信念で決行したこと」。調べに取り乱した様子はなかったという。
戦前には青年将校たちによる政治テロが相次いだ。五・一五事件で犬養毅首相が射殺され、二・二六事件で高橋是清蔵相が殺害されるなど、思想が若者を駆りたてた。
だが、山口の事件は、戦後初めての政治家の暗殺だった。
「浅沼委員長 刺殺さる 犯人・右翼少年を逮捕」(朝日)
「浅沼委員長刺殺さる 犯人(大東文化大学学生)を逮捕」(読売)
「浅沼委員長刺殺さる 犯人は十七才の少年」(毎日)
各紙は街頭で号外を撒いて事件の発生を伝え、夕刊の一面でも報じた。今度は朝日を含めて、全紙が実名だった。
「浅沼氏暗殺 政局に大波紋」(朝日)
「浅沼刺殺事件 政局に衝撃」(読売)
「浅沼氏刺殺・政局に衝撃」(毎日)
翌日の朝刊でも、各紙は一面トップでこの事件を報じた。
ちなみに、新聞という紙媒体の特徴は、テーマ別に紙面を割り振り、一覧性を高めていることにある。事件や事故なら社会面、政治は政治面、経済は経済面、海外の話なら国際面、のように各分野ごとに扱うページが振り分けられている。
だが、その原則が崩れるのが一面だ。政治、経済、社会のジャンルを問わず、その日の最も大きなニュースを報じるページだからだ。
当時の紙面を開いてみると、全紙そろって少年事件を一面で取りあげるケースは、ほとんどない。だが、この山口二矢の事件は特別だった。例外的に一面で報道されたのである。
事件は少年事件を超えて、政治家へのテロとして扱われた。事件翌日以降の紙面でも、警察庁長官らの責任が追及され、右翼の取締強化の必要性が訴えられた。国会の解散と総選挙が予定されていた時期でもあり、政府も選挙日程の調整などの対応に追われた。一人の少年の蛮行が、国政を動かしたのである。
時は、まさに安保闘争まっただなか。テロ行為に及んだのは、何も山口だけではなかった。山口の事件に先立つこの年の6月には、社会党顧問の河上丈太郎衆院議員が、20歳の工員にナイフで刺された。7月には、退陣間近の岸信介首相が、総理官邸で65歳の男に短刀で刺されている。二人とも命には別条はなかったが、安保をめぐり、暴力的で不穏な空気が醸成されていた。
安保闘争は若者の心を動かしており、国会突入デモで東大生の樺美智子が亡くなったのもこの年だった。この時期の若者たちは、政治の季節に生きていたのである。
今でこそ、政治に無関心だといわれるが、60年代の若者たちは政治への関心が高かった。そして、山口もその一人だった。この一連の末は、後にノンフィクション作家の沢木耕太郎が「テロルの決算」として著しており、知る人も多いだろう。
沢木耕太郎『テロルの決算』(文春文庫)
山口は警視庁の調べに、河上を襲撃した20歳の工員について触れ、「本当に国を思った純粋な気持ちでやったと敬服した」と供述している。17歳の山口にも、政治のうねりが少なからず影響していた。
それにしても、新聞協会の方針があったのに、各紙はなぜ山口を実名で報じたのか。
読売は「読者と編集者」という小欄で、実名報道をした理由を、こんな風に明らかにしている。
「今度の浅沼委員長刺殺という事件は、一般の傷害殺人事件とは比較にならないほど重大です。単に成人だからとか少年だからということではなく、日本の政治上大きな影響を及ぼすものです。(中略)反社会的行動をした人間の行為を大衆の福祉のために伝えることと、人権を守るということは別問題です。(中略)こんどの事件の場合、やむをえず姓名を紙面にだしました」
また、後に新聞協会の前田雄二事務局次長は「政治的な事件でもあり、各紙の社会部長会で、少年保護よりも社会的利益が強く優先するケースにあたると判断した」としている。
山口は、その年の11月、東京少年鑑別所の単独室で自殺した。ベッドのシーツを裂いて、裸電球を覆う金網に巻きつけ、首をつった。各紙は山口の自殺も、実名、顔写真付きで一面で報じている。
世間がとらえた山口は、先鋭的で、早熟で、反俗的な少年だった。殺害の動機は、テロリズム。政治的な山口の存在は大人と同様に扱われた。彼は少年法が想定するような「保護」されるべき「少年」像からはかけ離れている、と捉えられていたのである。
だが、その一方で、この事件は、あまりにも政治的な側面ばかりから報じられており、少年としての山口の姿が見えづらい、ともいえた。
山口の叔父は、作家の村上信彦だった。彼は雑誌「婦人公論」に寄稿し、山口と父との関係について、こう書いている。
「私は永年、氏(二矢の父)とつきあってきたが、子供と打ちとけて語り合う姿を見たことがない。反対に、命令と一喝で片づける場面はたびたびあった。一喝主義が彼の家庭教育であったと思う。どこの子供にも反抗期というものがあるが、兄(寄稿では実名)にしても弟の二矢にしても反抗期らしいもののみられないのが特徴である。そうした子供らしい自由な芽は刈り取られていた。口数の少い、自己表現のないこの子供たちの抑圧心理が、どのようにゆがめられて外部に奔出する危険があるかは想像できる」
村上は、事件の背景に二矢と父との複雑な親子関係を見ていた。その指摘は、今の典型的な少年事件の見立てと重なる。
だが、こうした見方が世間に広がることはなかった。
テロ事件の余波は、政治を離れて言論の分野にも広がる。山口の事件から4カ月後。今度は中央公論社の社長宅が、17歳の少年に襲撃される。
社長の嶋中鵬二は不在だったが、家政婦の女性(50)が登山ナイフで刺殺され、嶋中の妻も重傷を負った。
この少年も、事件前日まで右翼団体に所属していた。少年は犯行の翌日に自首。出版社のトップを狙った動機は、雑誌に掲載された小説「風流夢譚」だった。
作家の深沢七郎の手によるこの小説は、皇族が登場人物。過激な描写を問題視した宮内庁が名誉棄損での提訴を検討すると報じられるなど、掲載直後から物議をかもしていた。
少年は、この小説の内容に憤慨し、社長宅を襲撃したのである(この風流夢譚事件により、メディアによる皇室批判がタブー化されたともいわれる)。
「けさ犯人つかまる 十七歳の少年 元大日本愛国党員」(朝日)
「中央公論社長宅襲撃犯人つかまる 17歳の元愛国党員」(読売)
「けさ浅草の交番で 右翼少年(一七)を逮捕」(毎日)
――各紙はこの事件でも、少年の逮捕を実名、写真入りで夕刊の一面で報じた。
この事件の実名報道も、新聞協会が定めた方針とは異なっていた。少年が逃走中ならまだしも、彼はすでに逮捕されていたのである。山口と同様に、この事件の少年も、早熟で先鋭的なテロリストだった。保護されるべき「子供」とは見られなかったのである。政治テロ以外の「少年事件」の扱いは ただ、60年代には、政治テロのような大きな意義付けのない少年事件については、各紙は匿名報道へと舵を切っている。ためしに山口二矢の事件があった1960年の紙面を開いてみる。 住み込みの17歳少年が同僚刺殺(東京・6月)/16歳高校生が父刺殺(同・同)/18歳工員が人妻刺殺(東京・7月)/18歳高校生がパチンコ店員刺殺(神奈川・12月)/17歳高校生が同級生刺殺(大分・12月)/中学3年が同級生を刺殺(神戸・12月)――。 今であれば、どれも社会面アタマで扱われてもおかしくないニュースだが、いずれの事件も、名前は「少年A」のように匿名で報じられている。50年代に散見された実名報道は、60年代には確実に減る。逮捕の報道も、社会面の十行あまり~数十行の記事にとどまっている。少年事件は、特別なことがない限り、大きく報じられなくなった。 少し細かくみると、たとえば60年11月、東京・足立区で8歳の女児が川で死亡しているのが見つかった。犯人が逃走し、警視庁が捜査するという、記事が大きくなるパターンにあてはまったため、発生当初は大きく報じられた。しかし、それが16歳の少年とわかると、記事は一気に小さくなった。 少なくとも、事件に「子供」の要素が含まれる少年事件は、加害者の「親の立場」に立って実名が報じられなくなり、記事の扱いも小さくなったのである。「容疑者は14歳、中学3年」取材班に走る衝撃…「少年A」が起こした“神戸連続児童殺傷事件”はそれまでの少年犯罪と何が違ったのか へ続く(川名 壮志)
この事件の実名報道も、新聞協会が定めた方針とは異なっていた。少年が逃走中ならまだしも、彼はすでに逮捕されていたのである。山口と同様に、この事件の少年も、早熟で先鋭的なテロリストだった。保護されるべき「子供」とは見られなかったのである。
ただ、60年代には、政治テロのような大きな意義付けのない少年事件については、各紙は匿名報道へと舵を切っている。ためしに山口二矢の事件があった1960年の紙面を開いてみる。
住み込みの17歳少年が同僚刺殺(東京・6月)/16歳高校生が父刺殺(同・同)/18歳工員が人妻刺殺(東京・7月)/18歳高校生がパチンコ店員刺殺(神奈川・12月)/17歳高校生が同級生刺殺(大分・12月)/中学3年が同級生を刺殺(神戸・12月)――。
今であれば、どれも社会面アタマで扱われてもおかしくないニュースだが、いずれの事件も、名前は「少年A」のように匿名で報じられている。50年代に散見された実名報道は、60年代には確実に減る。逮捕の報道も、社会面の十行あまり~数十行の記事にとどまっている。少年事件は、特別なことがない限り、大きく報じられなくなった。
少し細かくみると、たとえば60年11月、東京・足立区で8歳の女児が川で死亡しているのが見つかった。犯人が逃走し、警視庁が捜査するという、記事が大きくなるパターンにあてはまったため、発生当初は大きく報じられた。しかし、それが16歳の少年とわかると、記事は一気に小さくなった。
少なくとも、事件に「子供」の要素が含まれる少年事件は、加害者の「親の立場」に立って実名が報じられなくなり、記事の扱いも小さくなったのである。
「容疑者は14歳、中学3年」取材班に走る衝撃…「少年A」が起こした“神戸連続児童殺傷事件”はそれまでの少年犯罪と何が違ったのか へ続く
(川名 壮志)

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