【年森 瑛】アニメオタクの高1女子が驚愕した、ダッフィーおじさんの「衝撃の提案」と「意外な結末」

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「最近の女オタクはおしゃれでかわいい子が多い、という言説が周辺のオタクコミュニティ内で流行っていた時代だった。」
デビュー作『N/A』が大きな話題を呼んだ作家・年森瑛氏が分析する「女オタク」のジレンマとは。
村雲菜月『コレクターズ・ハイ』を読んだ豪華執筆陣が綴るエッセイ「私の #コレクターズハイ」をお届けする。
たしか、高1の夏休みだ。私は池袋のセガで友だち数人と遊んでいた。さんざん遊びつくして全員の顔に疲れが出てきたあたりで、休憩がてらカラオケ館に行こうと話がまとまった。外に出ると太陽はまだ高いところにあって、すぐさま日差しに肌をあぶられた。
「まってやばいダッフィー」と誰かが半笑いで言った。視線の先には店頭のクレーンゲームにかじりつくおじさんがいて、足元に置かれた紙袋からダッフィーのマスコットがあふれかえっていた。全て同じ衣装のダッフィーで、今おじさんが挑んでいるクレーンゲームの景品だとすぐに分かった。
またひとつダッフィーが落ちた。
おじさんがこちらを見た。
あまりオタクっぽくない雰囲気のおじさんで、頭に青いタオルを巻いていた。私の腕を友だちが掴もうとして、さしていた日傘の先端が私の頭に突き刺さった。「いたっ」「うわごめん」「実際そんな痛くなかったわ」
おじさんと目が合った。
「あげようか」
「え、いいんですか」
私はなぜか、欲しがっている人みたいな返事をした。
「欲しいわけじゃないから。取りたいだけなのよ。君らは好きでしょう、こういうの」
残念ながらその日はアニメオタクの集まりだったから誰もダッフィーに興味なかったし、ダッフィーといえば同学年のラクロス部の子たちが制服ディズニーの思い出&仲間の証として通学カバンにお揃いでつけているもので有名だったから私たちが持っていても面倒なことになるだけなんだよなと思い、でも断るのもそれはそれでやばい気がして受け取ることに決めた。
セガの入口には相変わらず日光が降り注いでいて、日焼けでおじさんの顔は真っ赤だった。どさくさに手とか握られるかな、武勇伝始まったら面倒くさいな、警戒しつつ両手を出すと、おじさんはそこに人数分のダッフィーを乗せてニカッと笑っただけで、真っ赤な腕でひたいの汗を拭いて、そのまま頭に巻いたタオルに腕をこすりつけると、また筐体内に積み上がるダッフィーを落としに戻っていった。
え、終わり? 上下左右見回してみてもおかしなところはなかった。普通のダッフィーで、普通のクレーンゲームオタクのおじさんだった。おじさんはもう私たちに見向きすることなく、クレーンゲームに夢中だった。
ダッフィーをしまおうと開いた私のバッグの底にはアニメイトの真っ青なビニール袋があった。アニメイトの袋をき出しで持ち歩くなんてオタク丸出しでよくないと当時は思っていたのだ。
最近の女オタクはおしゃれでかわいい子が多い、という言説が周辺のオタクコミュニティ内で流行っていた時代だった。
その言説は、従来のキモくてダサいオタクイメージへの反発と、女性は常に美しくあるべきという社会規範をも取り込んでいた故なのか、いつからか「一般人に擬態していないオタクに人権はない」といった言葉で女オタクを自縄自縛するようになっていた。
かけた金額や時間の多寡によって推しへの愛情を示しながらもその愛情の隠匿を求められるという矛盾したイデオロギーを抱えながら、少なくない数の女オタクたちが女でありオタクをやっていたように記憶している。
それから10年ほど経ち、「推し活」を各メディアがこぞって取り上げ、昔ほどオタク=社会不適合者の烙印を押されることもなくなった今でも残存しているややこしいオタクのジレンマを、村雲菜月の『コレクターズ・ハイ』は書き記していた。
オタクを主役に据えた既存作品において、おおよその語り手たちが推しを人生の支柱にし、自らの資本を投げ打ち、時には人の道を踏み外していく中で、本作の語り手はそれらの類型とは異なっている。
推しのために狂いきることもできないが推しへの愛を舐められたくないとも思う、本当にどこにでもいる、しかし物語ではあまり目立たなかったタイプのオタクである。本作で描写される、会社員として働きながらオタクをしている20代女性の質感にはかなり説得力があった。
語り手は「なにゅなにゅ」というキャラクターを愛している会社員3年目の女性だ。彼女はなにゅなにゅのグッズを集めることに腐心しており、クレーンゲームのなにゅなにゅプライズを落としてもらう代わりに自分の頭を撫でさせる契約をクレーンゲームオタクの男と結んでいる。
語り手は〈知らない通りすがりの人からなにゅなにゅが好きな人だと括られてしまうのはごめんだし、なにゅなにゅ好きは主張が強いと思われてしまうのも心外〉なので、普段はグッズをほとんど身に着けていない。
そのくせ、痛バやレアグッズを持っているオタクを見ると、自分のなにゅなにゅ愛は足りないのではないかと不安になる。
そんな語り手の自宅はなにゅなにゅグッズで埋め尽くされており、十分に熱狂的なオタクといえる状態なのだが、そこまで収集するほどの魅力がどこにあるのかと非オタクに問われると、つい言い訳めいたことを口走ってしまったりする。
「誰からも認められるくらいのオタクになりたい」気持ちと「痛々しく悪目立ちしたオタクになりたくない」感情が二転三転する自意識には、私も身に覚えがある。
よく考えたらアニメイトの袋(青い無地で、小さい刻印がある)をアニメショップのレジ袋として認識できるのはオタクだけなのだから、剥き出しで持ち歩いたところで何の問題もなかったのだが、当時の私はそれがオタクとしての品性に欠けることだと信じていた。
しかし仮に品性があったとて、好きな漫画のアニメイト限定特典つき新刊をこそこそとバッグにしまい、隠蔽のため上からタオルまでかぶせていた私の姿は、漫画の著者に見せられるものだっただろうか。紙袋いっぱいのダッフィーを落としていたおじさんのほうが、クレーンゲームを愛するものとして美しい姿ではなかっただろうか。
『コレクターズ・ハイ』の作中、発売後すぐ完売してしまったなにゅなにゅグッズについて検索をかけながら、語り手はこう考えていた。
〈フリマサイトで買う人も、SNSで譲渡を繰り返す人もみんな自分のことしか考えていない。私たちが本当に考えるべきは、なにゅなにゅの未来についてではないのか。これから先の、なにゅなにゅの発展ではないのか。〉
私が気にすべきだったのもオタクのあるべき姿なんかじゃなくて、作品のこれからの内容とか、今後の発展についてだったんじゃないのか。そんなことを、この一文を読んでからぼんやり考えているのだった。
つづく【好きな本はとりあえず3冊購入、気に入った映画は20回観に行く…「応援消費」というオタクのあり方】では、村雲菜月氏による『コレクターズ・ハイ』執筆秘話をお届けする。

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