「行く場所がある人はいいなあ」店舗兼住宅が全壊、避難所でコロナに感染し咳が止まらず娘宅へ「誰かに迷惑だけはかけたくないので」〈能登地震から1ヶ月〉

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奥能登地域で最大の港、飯田港を抱える珠洲市飯田町の商店街にあった創業約130年の「衣料ストアーサカシタ」。その店主の坂下重雄さん(77)は能登半島地震によって倒壊した家屋の下敷きになったが、とっさにこたつの中に飛び込み、生き埋め状態から17時間後に救出され九死に一生を得た。その一部始終については1月7日に報じた。緊迫の救出劇から1ヶ月が過ぎたが、重雄さんは時間が経てば経つほど、先々のことが不安になるという。その胸の内を明かしてくれた。

1月25日、取材班を出迎えてくれた坂下重雄さん(77)は「遠いところまでよく来てくださった」と笑顔を見せたが、雪がちらつく天気同様、その笑顔はどこか曇っているようにも見えた。

最大震度7を観測した能登半島地震によって重雄さんの店舗兼自宅だった「衣料ストアーサカシタ」は倒壊し、現在は娘の嫁ぎ先である能登町で暮らし始めたという。今季最強の寒波が流れ込んだ1月下旬から、能登地方にも強い大雪が断続的に降り、ひときわ厳しい寒さが続いている。重雄さんはスコップ片手に玄関先で雪かきをしている最中だった。

玄関先で雪かきをしていた坂下重雄さん

「あれから私らは飯田小学校で避難生活をしておりましたが、家内がコロナにかかり、私自身も咳が止まらなくなり、それで娘の嫁ぎ先に一時的におじゃましている状態です。今は私らはよくなりましたが、今度は娘がコロナに罹り、旦那さんも熱を出して寝こんでしまっています」

そう言いながら応接間に案内してくれた。重雄さんが続ける。

「飯田小学校に避難していた方は当初は約500人とのことでした。ひとつの教室に20人~30人近くは生活していて、それぞれが布団代わりに畳や絨毯をひいて毛布をかぶって寝ていました。なかには椅子に座ったまま寝る人もいました。

空調が効いているので暖かったのですが、だいたい2枚の布団を3人で使うようなスペースだったので、知らない人が寝がえりをうてばぶつかる距離です。知らない人と一緒に寝るというのは私はともかく家内はストレスを感じていたのか、避難所で生活をし始めて4、5日後には耳鳴りがひどくなって左耳が聞こえなくなりました」

崩壊した直後の坂下重雄さんの店舗兼自宅

妻の坂下久美子さんが総合病院の耳鼻科で診てもらったところ、「ストレスと風邪からきている」と診断された。

避難所では給水所などで顔や手を洗うことはできたが、小まめに手洗いができるわけではない。教室内で集団生活していることもあり、風邪などをひく人は少なくなかったという。重雄さんも久美子さんもそうした生活のなかで体調を崩していった。

「今は飯田小学校には100人ほどの人たちが避難生活していますが、そのうちの10人がコロナに罹ってしまったそうです。また、家内の耳が聞えなくなってから、すぐに私も家内も咳が止まらなくなりました。

私は夜中に咳こんで目がさめてしまうくらいで、まわりの人に迷惑やろなあって思いながらも、こればかりは止まりませんから……。教室内の空気の入れ替えは日に2度ほどと頻繁にはできませんし、咳をするのにも気を遣いながらの生活でしたね」

取材に応じる重雄さん

避難所には日赤の医師が定期的に被災者の健康を診に来ていて、重雄さんがコロナの検査を受けると、結果は陰性。ホッと胸を撫で下ろしたが、その数日後に診てもらった久美子さんは陽性だった。医師に「おそらく旦那さんもコロナの可能性が高いでしょう」と言われ、重雄さんはすぐに避難所を出る決意をしたという。

「他の人に迷惑をかけるわけにはいかない、学校におるわけにはいかん、と思いました。診断してくれた先生からはコロナ患者を隔離するための教室もあると聞いていましたが、幸いにも私たちは娘の嫁ぎ先にしばらくいれることになったので避難所を出ることにしました。出る際に誰かに報告するようなシステムがあるわけではないので黙って出ました」

避難所の飯田小学校で集団生活を送る様子。中央で横になっているのが重雄さん(本人提供)

避難所を出た後に、親しかった人たちに久美子さんが電話をし「コロナ陽性と言われて慌てて黙って出たのでごめんなさい」と伝えたという。久美子さんは当時をこう振り返った。

「私も主人もコロナに罹って高熱は出なかったものの、咳はひどかった。私自身は避難生活も楽しくやっているつもりでしたが、知らず知らずのうちにストレスを溜めていたのかもしれません。

これまでも聞き取りづらいことはありましたが突然、左耳がファッといった感じで聞えなくなりましたから。咳は治って耳もだいぶよくはなりましたが、おそらく元には戻らないらしいので、補聴器をつけなきゃなと思っています」

食事も日に3度出るようになるなど、震災直後に比べれば少しずつ避難所は生活しやすくなっていった。避難して10日ほどで自衛隊の入浴支援が始まり、重雄さんはお風呂につかったときのことを「生きた心地がする。そのときのみなさんの顔は忘れられない」と語る。

だが、避難生活が続くにつれ久美子さんは生活とは別の部分で不安を感じるようになり、それは今も払拭されたわけではないと話す。

「避難所からは1人、また1人とどんどん人が減っていきました。でも私たちは家が倒壊しているので戻る家がありません。家を直してまた住めるのかどうかもわかりませんが、そんなふうに人が減っていくのを見ていると、『行く場所がある人はいいなあ』という焦りみたいなのを感じていましたね。私たちもずっとこちらでお世話になるわけにもいきませんから……」

崩壊した珠洲市飯田町の商店街の町並み

今後のことについては考えても考えても答えが出ないという。重雄さんは現在の心境をこう語る。

「一番は住む場所ですね。それから店をどうするか。そのふたつが頭の中をずっとぐるぐるぐる回っていて、頭が痛いです。まだしっかり考えがまとまっていないのですが、仮に電気が通って家に戻っても住める部屋はひとつだけだと思います。雨漏りもひどいですし、あの状況で果たして生活できるのか……。

仮設住宅に1~2年は入れると聞いてますので、入れたらゆっくり考えなきゃならないと思っています。
あとはお金の問題です。地震保険がどれだけおりるのか、経済的な面も計算して照らし合わせないといけないと思っています。誰かに迷惑だけはかけたくないので」

坂下さん夫婦もまだまだ元の生活に戻るメドは立たない

地震発生から1ヶ月近くたった今も、被災者たちは先の見えない不安と戦っている。

取材・文/集英社オンライン編集部ニュース班
撮影/Soichiro Koriyama

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