「5浪早稲田」彼が選んだ”妖怪絵本作家”という道

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5浪で早稲田大学に入り、妖怪絵本作家になった加藤志異さん。その理由とは?(写真:加藤さん提供)
浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。
今回は、愛知県立豊田南高等学校を卒業後、3浪して明治大学に進学。その後、仮面浪人を経て5浪で早稲田大学第二文学部に進学し、11年かけて卒業した後、現在妖怪絵本作家として活躍する加藤志異さんにお話を伺いました。
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「妖怪になりたい」
今回お話を伺った加藤志異さんは、小さい頃に抱いたこの夢を、大人になってからも持ち続け、現在は妖怪絵本作家として活動しています。さらに加藤さんは『加藤くんからのメッセージ』(監督 綿毛、配給 東風)という、全国で公開された映画にも主演して、『漂流ネットカフェ』、『惡の華』などで知られる漫画家の押見修造さんは、彼のために漫画を描いてくれました。
【2023年12月24日13時追記】初出時、映画製作の箇所に関して事実と異なる部分がありましたので、上記のように修正しました。
加藤さんは、浪人という大きな試練が、現在の夢や仕事につながっているのだと言います。
5年の浪人生活が、彼の人生にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。「妖怪絵本作家」の人生に迫っていきます。
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加藤さんは、岐阜県恵那郡岩村町(現:恵那市)に中卒の父親と高卒の母親のもとに生まれました。
「まるで日本昔ばなしに出てくるような山奥でした。いちばん近い店に行くまで歩いて30分くらいかかりました」
山の中で生まれ育った加藤さん。彼が「妖怪」になろうと思ったきっかけは、そうした環境の中で幼少期を過ごしたこともありますが、子どものときに本屋で購入した妖怪の百科事典の影響が大きかったようです。
「保育園の年長くらいのときに、水木しげるさんの『妖怪《世界編》入門』を読んで、世の中にはこんな妖怪がいるんだって衝撃を受けたんです。
例えば、僕のいた岐阜にはかまいたちが出ると書いてありました。小さい頃、転んで病院で5針縫う大怪我をしたことがあるのですが、不思議なことに血が出なかったんです。先生にその理由を聞いたら『かまいたちに足を切られたんだよ』と言われ、これがそうなんだと思いました」
「家の中で人魂を見た」こともあった加藤さんは、それからも山の奥の家でその本を読む日が続いたそうです。しかし、ある日突然岐阜県の大自然の中での生活は終わりを告げます。
「小学校3年生のとき、祖父の建設会社が倒産するんです。いきなり授業中にすごい形相の母親が迎えに来て、そのまま夜逃げならぬ昼逃げをして、愛知県豊田市に引っ越しました」
一見悲惨な境遇に思えますが、それでも彼は「テレビで見るケンタッキーがある!」と喜び、都会での生活にすぐになじんだそうです。
そんな彼の成績は、つねに真ん中くらいで、体育と音楽は5段階で1だったものの、美術と社会は5と非凡な才能を発揮していました。
そのまま豊田市の公立中学校に進んだ加藤さんは、学校が荒れていたこともあり、「大人しくていじめられていた」と語ります。
当時の彼の居場所は空想の世界。作家になりたいと思い、1人でよく漫画を書いていたそうです。勉強面に関してはまずまずで、約300人中100番くらいの成績を維持した彼は、そのまま高校受験に挑み、進学校の豊田南高等学校へ進学しました。
しかし高校では成績を大きく落とし、「高校に入ったらみんなとても勉強していたこともあり、成績は学年でビリから3番目くらいでした」と彼は語ります。
「悔しかったから、世界史だけは頑張って学年1番になった」そうですが、それでもそのほかの科目の成績は低い順位でした。そんな彼が大学進学を意識し始めたのは、高3になってからだったそうです。
「周囲がみんな受験するというので、自分もようやくする気になったんです。それで大学受験生向けの雑誌『螢雪時代』を手に取ったのですが、知らない学部の情報を見るのにはまってしまいました。
毎日勉強に本腰を入れられないまま受験情報を2~3時間くらい見ていたんですが、その過程で早稲田がいちばん面白そうだと思い、志望校にしました。5浪してまで入ってる人がいるこの環境なら、きっと面白い人に大勢会えると思って、『自分には早稲田しかいない!』と思い込むようになったんですね」
しかし肝心の模試の成績はボロボロで、早稲田の合格判定はつねにEでした。
センター試験(現:共通テスト)も、国語は8割、世界史は9割以上を取れたものの、英語が50/200点とボロボロで、現役時の早稲田受験は第一文学部・第二文学部・社会科学部を受験したものの、全滅で終わります。
併願した高崎経済大学には合格したそうですが、彼は入学を辞退して浪人を決断します。その理由を聞くと「早稲田に恋していたから」と答えてくれました。
「有意義な出会いにも期待していましたが、大隈重信像から見えるキャンパスの景色が素晴らしくて、ここを毎日歩きたいと思っていました。僕の人生は早稲田からしか始まらないと、完全に思い込んでいました」
そうして決心した1浪目は、予備校に通わずに自宅での勉強を選択しました。
「受験情報を得ることにはまり、高校時代に集めた参考書が100冊ぐらいありました。そういう本には『予備校に行かなくても、東大や早稲田に受かる』と書いてあるので、『そういうものか!』と信用してしまいました。でも結局、家にこもっていると社会から切り離されてしまいます。それで病んでしまい、勉強に集中できませんでした」
勉強はしていたそうですが、1日中ラジオを聴きながらダラダラやっていたそうです。「英語をどうしてもやる気になれず、世界史や国語ばかりしていました」と反省する彼のこの年の模試の成績は、むしろ下がってしまいました。
結局、この年も早稲田を3学部のみ受けて、全部落ちてしまい、2浪を決断します。
「受験したことだけは覚えていますが、受かるわけがないと半分諦めていました」
こうして加藤さんは2浪に突入します。
高校の同級生で1浪していた人はたくさんいたそうですが、ほとんどが進路を決め、2浪に突入したのはわずか3人になってしまったそうです。
そこで危機感が芽生えた加藤さんと仲間たちは、3人で協力して予備校に通わず、毎日図書館で勉強することを決断します。しかし、彼はこの判断は失敗だったと振り返りました。
「失敗してきた3人で勉強するので、成績が伸びない理由がわからないのです。ある日、リーダー格の友人が『24時間テレビのマラソンで完走する間寛平のような根性が足りないんだ!根性をつけるために今から原付で長野に行くぞ!』って言い出して、3人で遠出をしたりしていました。後から考えたら、そんなこと言わずに勉強しろって話ですよね(笑)。結局、去年と同じように勉強が進まず、成績も変わりませんでした」
「成人式とセンター試験の日が被ったことを覚えている」という20歳の冬はほろ苦い思い出となり、またしても現役時代よりも成績を下げ、早稲田3学部を受けて全滅という結果に終わってしまいました。
3年続けて受験で失敗した加藤さんは、「さすがに家にいてはいけない」と思い、東京に出て新聞奨学生をやりながら予備校に通う決断をします。
「新聞の配達を住み込みでやると、生活費や住む場所、予備校の費用を無償で負担してくれるという仕組みがありました。それで東京の練馬の専売所で働くことになるのですが、僕は配るのが遅くて、一緒に住み込みをしていた年下の浪人生からバカにされていました」
朝3時から朝刊を配達して、終わったら予備校で授業を受けて、夕方からまた夕刊を配るという過酷な生活を送った加藤さん。配達が遅れて授業に遅刻することもあり、定刻までに着いても勉強に集中できませんでした。
職場の後輩に「加藤さんは全然勉強してないし、早稲田なんて絶対受からない」と言われていたこの時期が、精神的にいちばんつらい時期だったと彼は語ります。
「自分は人間としてダメだ」と絶望し、自己肯定感が底になってしまった彼は、予備校も住み込みも挫折してしまい、名古屋の自宅に戻って勉強をする決断をします。この年も成績こそほぼ横ばいでしたが、予備校で英語の勉強をしていたこともあり、早稲田に3学部出してすべて落ちたものの、ようやく明治大学と法政大学に合格しました。
「もう、これ以上は精神的にきつい」と思った彼は、3浪で明治大学二部文学部に進学する決断をします。
明治大学に入った加藤さんは、いったんは大学生活を謳歌しようと頑張ります。
「高円寺の風呂なし3万円の物件に入り、サークルに入って毎日お酒を飲んでいる、普通の大学生でした」
1年目は何事もなく終えますが、2年目に転機が訪れます。夏ぐらいにサークルでできた親友と好きな人が付き合うことになり、ご飯が喉を通らなくなったそうです。
「1カ月で5キロ痩せましたね。ショックで大学に行けなくなり、ノンフィクション作家、沢木耕太郎さんの『深夜特急』を読んで海外を放浪しようかな、と打ちひしがれていました。そう考えてぼんやりしていると、ある日、『SWITCH』という雑誌に沢木さんのインタビューが載っているのを見つけたので興味を持って読み進めたんです」
そこでは当時の加藤さんと同じくらいの年齢、横浜国立大学経済学部にいた22歳のころの沢木さんの人生が丁寧に振り返られていました。
「沢木さんも当時やりたいことがなかったらしいんですが、そのまま卒業論文を書く時期になって、彼は、1人の人間を書きたいと思ったそうです。フランスの小説家、アルベール・カミュが生まれてから死ぬまでの伝記を書かれて、その締めが『この論文はカミュのことを書いていたけど、本当は僕自身のことを書いている。だから、この続きは僕が生きないと書けない』で終わるんですね。卒論を担当した先生は、卒論としてはダメだけど、エッセイとしては面白いと言って優評価をくれたそうです」
のちに沢木さんは、この卒論の指導教授が紹介してくれた雑誌に文章を書いたことがきっかけで、ノンフィクション作家としてのキャリアを開拓していきます。
そのエピソードに感情移入した加藤さんは、横浜国立大学に連絡して、沢木さんの論文を読ませてもらいました。彼はその内容に、今までの人生観が変わるほどの感動を覚えたそうです。
「『情熱』の大切さが序章に書いてあったんです。大事なのは理論そのものじゃなくて、その理論は情熱が作ったんだと沢木さんは書いていました。だからそれを読んだ僕も、情熱が乗り移って、沢木さんに手紙を送ったら、著書に”In your own way”という言葉を書いてプレゼントしてくださったんです。
それで、自分も沢木さんのような人間になりたいと強く思いました。でも、よくよく考えてみるとそれは沢木さんの真似で『自分の道』ではないわけです。そこで、自分はあれだけ早稲田に行きたかったのに諦めてしまったことがすごく引っかかったんです。だから、納得できるほど勉強して、早稲田に行かなければならないと強く思いました」
こうして加藤さんは、「自分らしさ」を見つけるため、過去の自分にもう一度挑みます。自分が落ち続けた本質的な理由を「苦手なことを勉強せず、後回しにしていた」ことだと気づき、勉強を疎かにしていた英語にも向き合い、2カ月間、1日1冊参考書を終えるペースで10時間以上の勉強をこなしました。
その結果、偏差値がまったく上がらなかった英語の問題も読めるようになり、最終的に早稲田大学第一文学部、第二文学部を受験。第二文学部に合格することができました。5浪の末に、ついに彼は夢だった早稲田大学に合格することができたのです。
激動の浪人生活を送った加藤さん。浪人してよかったことを聞いたところ、「絶望を知った」、また、頑張れた理由には「早稲田が好きだった」ということを挙げてくれました。
「3浪目のとき、自分は人として終わったと思うくらい精神的に落ち込みました。だから、ほかの人のつらさもわかるようになったのが、よかったと思います。早稲田に受かること以上に、ちゃんと勉強をすることで、胸を張って生きられると思ったんです。実際にいま生きていて、沢木さんの仰った『自分の道』の最初の一歩は、受験勉強をしっかりやることだったんだと感じています」
加藤さんは作家を目指す過程で一度早稲田大学を中退したものの、再入学をして11年かけて大学を卒業。29歳ごろに出会った絵本の世界に感動したことがきっかけで、絵本のワークショップに7年間通って36歳で妖怪絵本作家としてデビューし、現在までに『せかいいちたかいすべりだい』、『ぐるぐるぐるぽん』などの作品を世に送り出しています。
早稲田に入ってからの加藤さんは、さまざまなコミュニティーで多くの友達ができ「救われた」そうです。
プロ作家を目指す人が集まるサークルではのちに漫画家として、『漂流ネットカフェ』、『惡の華』などを発表する押見修造さんとも友達になりました。冒頭でも述べたように、押見さんは加藤さんが主演した『加藤くんからのメッセージ』(監督 綿毛、配給 東風)という映画への応援メッセージを漫画にしました。
加藤さんが主演した映画へのメッセージを、押見さんが漫画にした(漫画:押見さん提供)
つらい思いをした浪人の経験を今、彼は「大事な試練だった」と振り返ります。
「つらい絶望的な経験をしてそれを乗り越えられたから、作品作りを楽しめるんです。作品を作るうえで、浪人のときの経験がすごく生きています。きっと現役で受かっていたら、いまとは全然性格が違ったのではないでしょうか」
2024年1月下旬からはYouTubeチャンネル『聞き流す、人類学。』で世界中でフィールドワークしたり、ゲストと語り合う動画の配信を予定し、新たな挑戦も始める彼。現在の夢は「妖怪」になることだと語ります。
「いま、『夢は叶う』ってタイトルで、母校で講演させていただく機会もいただいています。大人になると、現実的な夢を持つようになってしまいます。でも、子どもはそんなことは考えません。早稲田はどんな荒唐無稽なことを言っても、誰も否定をしない環境でした。だから僕も、夢を持つ大切さを伝えていけたらと思っています」
夢にまで見た早稲田に入った加藤さん。小さい頃からの夢を仕事として追い求めている彼のやさしさは、浪人生活で得た経験からもたらされているものだと思いました。
加藤さんの浪人生活の教訓:「追い詰められた状態を乗り越えれば、どのような状況でも強く生きられるようになる」
(濱井 正吾 : 教育系ライター)

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