ピアニスト・藤田真央が感じた日本と中国の“観客の違い”「上海でショパンのポロネーズを弾いた時には…」

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ピアニストの藤田真央さんが守り続ける亡き師の“教え”とは――。月刊「文藝春秋」のスペシャル・インタビュー。
【画像】演奏後のひとコマ。右手にはハンカチが◆◆◆(1)ピアノは自分をよく見せるために使わない「ピアノを、自分自身をよく見せる道具に使ってはいけない」 これは私の恩師で、東京音楽大学の学長を務められた野島稔先生から学んだことです。先生は昨年5月に亡くなられましたが、今もその教えは私の中に深く根付いています。藤田真央氏 文藝春秋 先生と出会ったのは、私が11歳の時のこと。2010年、全日本学生音楽コンクール・ピアノ部門の小学生の部で1位を頂いたのですが、審査員の一人が野島先生でした。

翌年、先生は東京音大の学長に就任され、私も引き寄せられるように、東京音大付属高校、大学へと進学します。そして17歳の頃から、先生に直接指導して頂けることになったのです。 20歳の時には、世界三大コンクールの一つとされるチャイコフスキー国際コンクールで、2位に入賞することも出来ました。 レッスンはいつも音楽への情熱に溢れていました。そして一音一音を丁寧に、大切にしてハーモニーを築き上げるよう叩きこまれました。 なぜなら、作曲家は一音たりとも無駄な音を楽譜に書いていないからです。作曲家が伝えたかったことはなんなのか、緻密に考え抜かなくてはなりません。 作曲家が生きてきた時代背景や、その系譜から学べることも多いです。モーツァルト自らが18世紀に綴った手紙が残っていたり、ショパンら19世紀の作曲家の人生について記された本も多く残っています。 バックグラウンドを踏まえた上で、楽譜をしっかりと読み取り、表現する。その時、例えば速いパッセージがあるからといって、自分のテクニックを誇示するような弾き方をしてはならない。それは作曲家へのリスペクトに欠けた行為です。 とことんハーモニーにこだわる私の演奏の根底には、“野島イズム”とも言うべき、先生の教えがあるのです。(2)とにかく練習。一日中ピアノに向かうことも 作曲家が楽譜に込めた音を表現するにあたり、練習が何より大事なのは言うまでもありません。 22年春から私は、ドイツ・ベルリンに活動の拠点を移しました。コンサートの無い日は、ベルリンのアパートメントで、起きたら13時までピアノに向かいます。13時から15時、そして20時以降は大きい音を出してはならないのが、ドイツのマナー。その間は一旦、手を止めます。15時を回ったら練習を始め、夕飯を作って食べ終わったら、今度はサイレントモードで弾く。そして疲れ果てたらベッドに向かうのが、日々のルーティンです。 余裕のある時は買い物に行ったり、料理をしたり、ゆっくり本を読んだりもします。 とはいえ、ベルリンにいられる時間は限られています。ほとんどは、行く先々の場所で練習をしなくてはならない。時には、代役のために急なオファーが届いて、練習時間が数日しかないことも。 昨年秋の出来事です。指を怪我したピアニストの、代役オファーが旅先で舞い込んだのです。すぐに練習をするため、その地で楽譜を手に入れ、ベルリンへ帰るフライトを急遽変更して、リハーサルに駆けつけたこともありました。 コンサート直前の練習の重要さは、ピアニスト特有の問題でもあります。例えばバイオリン奏者は、自分の楽器を持ち運べます。しかしピアニストは、ホールに備え付けの、その日初めて触れる楽器を使う。稀代の名品のこともあれば、傾いたぼろぼろのピアノに呆然としたこともあります。それらを毎回、リハーサルの1、2時間で、感覚を掴まなければならないのです。 会場ごとに異なるピアノの特徴やホールの響きを計算するのは、とても難しいことです。ただ一方で、違いを意識して演奏していると、思わぬ恵みに出逢えることもあります。毎回一期一会の演奏をお届けできるのが、ピアニストの魅力とも言えましょう。(3)お国柄の違いを理解する コンサートを行う国や地域によっては、音楽の楽しさがいちばん伝わりやすいように、弾き方やプログラムを調整することもあります。 例えば日本と中国を比べてみましょう。あくまで個人的な意見ですが、日本は鹿威しに代表されるように、音と音の“間”を楽しむ文化が根付いています。また、盆栽のように、余計なものを削ぎ落すことに美学を感じる方が多い。 その一方、中国のお客さんたちは、より華やかなものを好まれます。そこで今年の9月、中国の上海でショパンのポロネーズを弾いた時には、音と音の間を気持ち短くしてみました。 主催者がコンサート・プログラムに求めるものも国によって差があります。フランスは基本的に奏者にお任せですが、ドイツでは「この曲を」と頼まれることが多い。例えば私は去年、モーツァルトの『ピアノ・ソナタ全集』のCDを出しましたが、最初に提案した曲目にモーツァルトを入れていなかったら「あなたのモーツァルトを聞きたいんです!」と言われました。 イタリアでは主催者に「長いと観客が飽きるので1時間半にして欲しい」と言われました。でもイタリア・オペラには3時間の公演もあります。そう指摘したら、「オペラは物語があるし、動きもあるから大丈夫なんだ」と。 ニューヨークの“音楽の殿堂”カーネギーホールは、奏者へのリクエストに対しても、有無を言わさぬ迫力がありました。 最初、私が尊敬する作曲家・三善晃先生のピアノ・ソナタをプログラムに入れていました。せっかくのカーネギーホール・デビューですから、日本人の作品を弾いてみたかった。でも、「マスター・ピースを弾いてください」と言われ、結局、モーツァルト、リスト、ブラームスなどメジャーな曲を選びました。(4)海外公演に必要な三種の神器 私にはコンサートの時に持ち歩く“三種の神器”があります。持ち運び可能な小型の加湿器とヒーター、そしてカイロの3つです。 なぜこの3つが必要か。例えば東京のサントリーホールでしたら、夏でも28度に温度を設定できます。しかし毎回、そんな素晴らしいホールばかりではありません。特に私はヨーロッパの音楽祭に出演することが多いですから、石造りの教会で弾くことも、森の中の野外ホールで演奏することだってあります。 カイロは常に2個常備して右手と左手を温めておきます。ヒーターは楽屋のピアノの傍に置き、乾燥し過ぎないように加湿器を設置する。これが公演前のルーティンです。 導入したのは、今年の春からです。プレッシャーのかかる大きな公演に呼ばれることが増え、ありがたいことにお客さんも増えてきました。どの国の公演にも来て下さる外国のファンの方もいます。 皆様の期待に応える演奏をしなくてはならない。その責任感から、この3つを揃えることを思いついたのです。◆本稿の全文「ヒアノは自分をよく見せるために使わない」は、「文藝春秋」1月号、および「文藝春秋 電子版」に掲載されています。(藤田 真央/文藝春秋 2024年1月号)
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「ピアノを、自分自身をよく見せる道具に使ってはいけない」
これは私の恩師で、東京音楽大学の学長を務められた野島稔先生から学んだことです。先生は昨年5月に亡くなられましたが、今もその教えは私の中に深く根付いています。
藤田真央氏 文藝春秋
先生と出会ったのは、私が11歳の時のこと。2010年、全日本学生音楽コンクール・ピアノ部門の小学生の部で1位を頂いたのですが、審査員の一人が野島先生でした。
翌年、先生は東京音大の学長に就任され、私も引き寄せられるように、東京音大付属高校、大学へと進学します。そして17歳の頃から、先生に直接指導して頂けることになったのです。
20歳の時には、世界三大コンクールの一つとされるチャイコフスキー国際コンクールで、2位に入賞することも出来ました。
レッスンはいつも音楽への情熱に溢れていました。そして一音一音を丁寧に、大切にしてハーモニーを築き上げるよう叩きこまれました。
なぜなら、作曲家は一音たりとも無駄な音を楽譜に書いていないからです。作曲家が伝えたかったことはなんなのか、緻密に考え抜かなくてはなりません。
作曲家が生きてきた時代背景や、その系譜から学べることも多いです。モーツァルト自らが18世紀に綴った手紙が残っていたり、ショパンら19世紀の作曲家の人生について記された本も多く残っています。
バックグラウンドを踏まえた上で、楽譜をしっかりと読み取り、表現する。その時、例えば速いパッセージがあるからといって、自分のテクニックを誇示するような弾き方をしてはならない。それは作曲家へのリスペクトに欠けた行為です。
とことんハーモニーにこだわる私の演奏の根底には、“野島イズム”とも言うべき、先生の教えがあるのです。
作曲家が楽譜に込めた音を表現するにあたり、練習が何より大事なのは言うまでもありません。
22年春から私は、ドイツ・ベルリンに活動の拠点を移しました。コンサートの無い日は、ベルリンのアパートメントで、起きたら13時までピアノに向かいます。13時から15時、そして20時以降は大きい音を出してはならないのが、ドイツのマナー。その間は一旦、手を止めます。15時を回ったら練習を始め、夕飯を作って食べ終わったら、今度はサイレントモードで弾く。そして疲れ果てたらベッドに向かうのが、日々のルーティンです。
余裕のある時は買い物に行ったり、料理をしたり、ゆっくり本を読んだりもします。
とはいえ、ベルリンにいられる時間は限られています。ほとんどは、行く先々の場所で練習をしなくてはならない。時には、代役のために急なオファーが届いて、練習時間が数日しかないことも。
昨年秋の出来事です。指を怪我したピアニストの、代役オファーが旅先で舞い込んだのです。すぐに練習をするため、その地で楽譜を手に入れ、ベルリンへ帰るフライトを急遽変更して、リハーサルに駆けつけたこともありました。 コンサート直前の練習の重要さは、ピアニスト特有の問題でもあります。例えばバイオリン奏者は、自分の楽器を持ち運べます。しかしピアニストは、ホールに備え付けの、その日初めて触れる楽器を使う。稀代の名品のこともあれば、傾いたぼろぼろのピアノに呆然としたこともあります。それらを毎回、リハーサルの1、2時間で、感覚を掴まなければならないのです。 会場ごとに異なるピアノの特徴やホールの響きを計算するのは、とても難しいことです。ただ一方で、違いを意識して演奏していると、思わぬ恵みに出逢えることもあります。毎回一期一会の演奏をお届けできるのが、ピアニストの魅力とも言えましょう。(3)お国柄の違いを理解する コンサートを行う国や地域によっては、音楽の楽しさがいちばん伝わりやすいように、弾き方やプログラムを調整することもあります。 例えば日本と中国を比べてみましょう。あくまで個人的な意見ですが、日本は鹿威しに代表されるように、音と音の“間”を楽しむ文化が根付いています。また、盆栽のように、余計なものを削ぎ落すことに美学を感じる方が多い。 その一方、中国のお客さんたちは、より華やかなものを好まれます。そこで今年の9月、中国の上海でショパンのポロネーズを弾いた時には、音と音の間を気持ち短くしてみました。 主催者がコンサート・プログラムに求めるものも国によって差があります。フランスは基本的に奏者にお任せですが、ドイツでは「この曲を」と頼まれることが多い。例えば私は去年、モーツァルトの『ピアノ・ソナタ全集』のCDを出しましたが、最初に提案した曲目にモーツァルトを入れていなかったら「あなたのモーツァルトを聞きたいんです!」と言われました。 イタリアでは主催者に「長いと観客が飽きるので1時間半にして欲しい」と言われました。でもイタリア・オペラには3時間の公演もあります。そう指摘したら、「オペラは物語があるし、動きもあるから大丈夫なんだ」と。 ニューヨークの“音楽の殿堂”カーネギーホールは、奏者へのリクエストに対しても、有無を言わさぬ迫力がありました。 最初、私が尊敬する作曲家・三善晃先生のピアノ・ソナタをプログラムに入れていました。せっかくのカーネギーホール・デビューですから、日本人の作品を弾いてみたかった。でも、「マスター・ピースを弾いてください」と言われ、結局、モーツァルト、リスト、ブラームスなどメジャーな曲を選びました。(4)海外公演に必要な三種の神器 私にはコンサートの時に持ち歩く“三種の神器”があります。持ち運び可能な小型の加湿器とヒーター、そしてカイロの3つです。 なぜこの3つが必要か。例えば東京のサントリーホールでしたら、夏でも28度に温度を設定できます。しかし毎回、そんな素晴らしいホールばかりではありません。特に私はヨーロッパの音楽祭に出演することが多いですから、石造りの教会で弾くことも、森の中の野外ホールで演奏することだってあります。 カイロは常に2個常備して右手と左手を温めておきます。ヒーターは楽屋のピアノの傍に置き、乾燥し過ぎないように加湿器を設置する。これが公演前のルーティンです。 導入したのは、今年の春からです。プレッシャーのかかる大きな公演に呼ばれることが増え、ありがたいことにお客さんも増えてきました。どの国の公演にも来て下さる外国のファンの方もいます。 皆様の期待に応える演奏をしなくてはならない。その責任感から、この3つを揃えることを思いついたのです。◆本稿の全文「ヒアノは自分をよく見せるために使わない」は、「文藝春秋」1月号、および「文藝春秋 電子版」に掲載されています。(藤田 真央/文藝春秋 2024年1月号)
昨年秋の出来事です。指を怪我したピアニストの、代役オファーが旅先で舞い込んだのです。すぐに練習をするため、その地で楽譜を手に入れ、ベルリンへ帰るフライトを急遽変更して、リハーサルに駆けつけたこともありました。
コンサート直前の練習の重要さは、ピアニスト特有の問題でもあります。例えばバイオリン奏者は、自分の楽器を持ち運べます。しかしピアニストは、ホールに備え付けの、その日初めて触れる楽器を使う。稀代の名品のこともあれば、傾いたぼろぼろのピアノに呆然としたこともあります。それらを毎回、リハーサルの1、2時間で、感覚を掴まなければならないのです。
会場ごとに異なるピアノの特徴やホールの響きを計算するのは、とても難しいことです。ただ一方で、違いを意識して演奏していると、思わぬ恵みに出逢えることもあります。毎回一期一会の演奏をお届けできるのが、ピアニストの魅力とも言えましょう。
コンサートを行う国や地域によっては、音楽の楽しさがいちばん伝わりやすいように、弾き方やプログラムを調整することもあります。
例えば日本と中国を比べてみましょう。あくまで個人的な意見ですが、日本は鹿威しに代表されるように、音と音の“間”を楽しむ文化が根付いています。また、盆栽のように、余計なものを削ぎ落すことに美学を感じる方が多い。
その一方、中国のお客さんたちは、より華やかなものを好まれます。そこで今年の9月、中国の上海でショパンのポロネーズを弾いた時には、音と音の間を気持ち短くしてみました。
主催者がコンサート・プログラムに求めるものも国によって差があります。フランスは基本的に奏者にお任せですが、ドイツでは「この曲を」と頼まれることが多い。例えば私は去年、モーツァルトの『ピアノ・ソナタ全集』のCDを出しましたが、最初に提案した曲目にモーツァルトを入れていなかったら「あなたのモーツァルトを聞きたいんです!」と言われました。
イタリアでは主催者に「長いと観客が飽きるので1時間半にして欲しい」と言われました。でもイタリア・オペラには3時間の公演もあります。そう指摘したら、「オペラは物語があるし、動きもあるから大丈夫なんだ」と。
ニューヨークの“音楽の殿堂”カーネギーホールは、奏者へのリクエストに対しても、有無を言わさぬ迫力がありました。
最初、私が尊敬する作曲家・三善晃先生のピアノ・ソナタをプログラムに入れていました。せっかくのカーネギーホール・デビューですから、日本人の作品を弾いてみたかった。でも、「マスター・ピースを弾いてください」と言われ、結局、モーツァルト、リスト、ブラームスなどメジャーな曲を選びました。
私にはコンサートの時に持ち歩く“三種の神器”があります。持ち運び可能な小型の加湿器とヒーター、そしてカイロの3つです。
なぜこの3つが必要か。例えば東京のサントリーホールでしたら、夏でも28度に温度を設定できます。しかし毎回、そんな素晴らしいホールばかりではありません。特に私はヨーロッパの音楽祭に出演することが多いですから、石造りの教会で弾くことも、森の中の野外ホールで演奏することだってあります。
カイロは常に2個常備して右手と左手を温めておきます。ヒーターは楽屋のピアノの傍に置き、乾燥し過ぎないように加湿器を設置する。これが公演前のルーティンです。 導入したのは、今年の春からです。プレッシャーのかかる大きな公演に呼ばれることが増え、ありがたいことにお客さんも増えてきました。どの国の公演にも来て下さる外国のファンの方もいます。 皆様の期待に応える演奏をしなくてはならない。その責任感から、この3つを揃えることを思いついたのです。◆本稿の全文「ヒアノは自分をよく見せるために使わない」は、「文藝春秋」1月号、および「文藝春秋 電子版」に掲載されています。(藤田 真央/文藝春秋 2024年1月号)
カイロは常に2個常備して右手と左手を温めておきます。ヒーターは楽屋のピアノの傍に置き、乾燥し過ぎないように加湿器を設置する。これが公演前のルーティンです。
導入したのは、今年の春からです。プレッシャーのかかる大きな公演に呼ばれることが増え、ありがたいことにお客さんも増えてきました。どの国の公演にも来て下さる外国のファンの方もいます。
皆様の期待に応える演奏をしなくてはならない。その責任感から、この3つを揃えることを思いついたのです。

本稿の全文「ヒアノは自分をよく見せるために使わない」は、「文藝春秋」1月号、および「文藝春秋 電子版」に掲載されています。
(藤田 真央/文藝春秋 2024年1月号)

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