梅田から三宮を通り過ぎて…阪急“ナゾの終着駅”「新開地」には何がある?

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「新開地」とは、字面そのままに意味を取れば、“新しく開けた土地”ということになる。実際に辞書を引いてもその通りに書いてあるし、かつては新たに開墾されたり開発された土地を指して新開地と呼ぶことは普通にあったようだ。
【画像】阪急“ナゾの終着駅”「新開地」を写真で一気に見る が、そんな数ある新開地においても、それをそのまま地名にいただいて圧倒的な知名度を誇っているのが兵庫県は神戸市にある新開地、である。「新開地」には何がある? そもそも、神戸の新開地は阪急電車の終着駅として名高い。梅田を出発した阪急神戸線の列車の行き先は、ざっと大別すれば各駅停車の普通が神戸三宮ゆき、そしていくつも駅をすっ飛ばす特急が新開地ゆきなのだ。つまり、阪神間の移動は阪急電車で、というポリシーの人は、「新開地」という駅名にはよくよく慣れ親しんでいるということになる。

もちろん、だからといって皆が皆新開地駅で降りたことがあるかどうかは別のお話。神戸市内における最大のターミナルは言うまでもなく三宮なのだから、多くの人は神戸三宮駅で降りてしまうだろう。となれば、新開地駅はやはりナゾの終着駅。新しく開けた地を意味するその名もまた、いっそう謎めいた雰囲気を醸し出す。いったい、新開地駅とはどんな駅なのだろうか。 ……などというわけで、かような疑問を抱いた編集氏の強いプッシュもあって、はるばる新開地駅までやってきた。改めて復習すると、新開地駅までは東京からならば新幹線で新神戸駅まで行って地下鉄で三宮、そこから阪急電車に乗り換えて、となる。大阪からは梅田から阪急電車の特急に乗って35分。三宮のちょっと行った先の地下に潜ったところに新開地駅はある。神戸高速線の中核的なターミナル「新開地」 ここで最初にややこしい話を済ませておくと、新開地駅は阪急神戸線ではなくそれが直通している先の神戸高速線の駅のひとつ。 この神戸高速線というのは、阪急だけでなく阪神電車・山陽電鉄・神戸電鉄を含めて4路線が神戸市中心部の地下で人知れず入り組み絡み合っている路線で、とくに高速神戸・新開地のふたつの駅は阪急も阪神も揃って乗り入れてくる。さらに新開地駅は六甲山地の山越えに挑む神戸電鉄の事実上の起点になっていて、ますますややこしさが加速する。 まあ、このあたりの詳しいところはいくら言葉を尽くしても伝わりにくいので、実際に乗ってみて実感していただくのがいいのだろうと思う。地上に出ると大通りが。これは… ともあれ、新開地駅はそんな神戸高速線の中核的なターミナル。阪急と阪神の電車が並んで停まる地下のホームから地上に出ると、そこには多聞通という大通りが走っている。 多聞通の多聞とは、かの楠木正成の幼名・多聞丸にちなむ。楠木正成の墓がこのあたりにあったことから名付けられたという。ちなみに、明治に入って神戸駅の近くに正成を祀った湊川神社が建立され、いまはお墓もその境内に置かれている。 神戸市内を東西に走る多聞通。新開地駅はその地下にあって、多聞通を挟んでやたらと大きなアーケードが待ち受けている。それが新開地本通りの商店街、つまり駅名ではなく地名としての“新開地”の中心ということになる。アーケードを南に進む 多聞通を挟んで、言い換えれば新開地駅を挟んで新開地本通りのアーケード商店街が伸びているのでどちらに行ってもいいのだが、ひとまず南に向かって歩いてみよう。 ……と思ったら、多聞通南側の新開地のアーケードはあっという間に途切れて空が見えるノンアーケードの商店街へ。人通りも多く、一般的な商店街というよりは“繁華街”というほうがふさわしいような雰囲気だ。 で、どんな人がこの町を歩いているのかというと、まさしくよくイメージされる商店街とはまったく違う、ということだけは強く言っておきたい。具体的には、学生グループがはしゃいでいたり、家族連れが遊びや買い物に来たり、という姿はほとんどない。 かわりに目につくのはおじさんたち。気になりながら歩いて行くと、アーケードを抜けたすぐ先に、ボートピア神戸新開地がある。昔風の言い方をすれば、競艇の場外だ。場外舟券売り場だ。つまり新開地を闊歩するおじさんたちは、ボートレースをこよなく愛するおじさんたちだった、というわけだ。まわりに“チェーン店”ではなく“個人店”が印象に残る理由 さすがに舟券売り場だけで終わってはあまりにもアレなので、もう少し新開地の商店街を中心にうろうろと歩き回った。だいたいどこを歩いても、まったく過ぎるほどに庶民的な居酒屋や商店が並ぶ町並み。チェーン店もあるにはあるが、どちらかというと個人経営の、そしてちょっと歴史のありそうな小さな飲食店が多い印象だ。 それは多聞通の北側に出ても変わらない。さらに北側のアーケードから東に逸れると、真っ昼間というのに淫靡なネオンが煌めく一角もある。いわゆる“福原”と呼ばれる風俗街。明治時代から吉原・島原と並ぶ“三ハラ”として名を馳せた、古くからの遊郭街だ。 いまの姿になったのは、戦後の1957年に売春防止法が施行されてからのこと。東京の人にもわかりやすく伝えるならば、吉原の神戸版とでも理解して頂ければ結構であろう。 つまり、ボートレースを愛するおじさんたちと彼らの受け皿になっているであろう庶民派の飲食店、そして少し脇に逸れれば風俗街という、新開地はそんな町なのだ。あまりひとつの町を悪いイメージをもって語るのはよろしくないとは思うが、子どもたちだけで遊びに行ってこいと気軽に言えるような町ではない。 と、これで終わってしまうと本当にイメージが良くないので、もう少し新開地の町を掘り下げてみよう。映画、演芸、劇場の町として開花した「新開地」 そもそも、商店街を歩いていて目に付くのはおじさんばかりではないし、並んでいる店も庶民派の飲食店ばかりではない。たとえば神戸アートビレッジセンター、新開地劇場、シネマ神戸、神戸新開地喜楽館。こういった、演芸場・劇場・映画館をはじめとする文化施設の類いもやたらとあちこちに見られる。新開地は、庶民派の歓楽街であると同時に、映画・演劇の町という個性も持っているのだ。 というよりも、歴史をさかのぼれば映画・演劇の町という点こそが、新開地の決定的な個性といっていい。文字通り、明治以降に“新たに開かれた地”に、演劇や映画(活動写真)といった文化発信の拠点が集まり、繁華街を形成した。それが、新開地の町の本質である。 新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。 湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。なぜ「新開地」が生まれたのか ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。 そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。 湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
が、そんな数ある新開地においても、それをそのまま地名にいただいて圧倒的な知名度を誇っているのが兵庫県は神戸市にある新開地、である。

そもそも、神戸の新開地は阪急電車の終着駅として名高い。梅田を出発した阪急神戸線の列車の行き先は、ざっと大別すれば各駅停車の普通が神戸三宮ゆき、そしていくつも駅をすっ飛ばす特急が新開地ゆきなのだ。つまり、阪神間の移動は阪急電車で、というポリシーの人は、「新開地」という駅名にはよくよく慣れ親しんでいるということになる。
もちろん、だからといって皆が皆新開地駅で降りたことがあるかどうかは別のお話。神戸市内における最大のターミナルは言うまでもなく三宮なのだから、多くの人は神戸三宮駅で降りてしまうだろう。となれば、新開地駅はやはりナゾの終着駅。新しく開けた地を意味するその名もまた、いっそう謎めいた雰囲気を醸し出す。いったい、新開地駅とはどんな駅なのだろうか。 ……などというわけで、かような疑問を抱いた編集氏の強いプッシュもあって、はるばる新開地駅までやってきた。改めて復習すると、新開地駅までは東京からならば新幹線で新神戸駅まで行って地下鉄で三宮、そこから阪急電車に乗り換えて、となる。大阪からは梅田から阪急電車の特急に乗って35分。三宮のちょっと行った先の地下に潜ったところに新開地駅はある。神戸高速線の中核的なターミナル「新開地」 ここで最初にややこしい話を済ませておくと、新開地駅は阪急神戸線ではなくそれが直通している先の神戸高速線の駅のひとつ。 この神戸高速線というのは、阪急だけでなく阪神電車・山陽電鉄・神戸電鉄を含めて4路線が神戸市中心部の地下で人知れず入り組み絡み合っている路線で、とくに高速神戸・新開地のふたつの駅は阪急も阪神も揃って乗り入れてくる。さらに新開地駅は六甲山地の山越えに挑む神戸電鉄の事実上の起点になっていて、ますますややこしさが加速する。 まあ、このあたりの詳しいところはいくら言葉を尽くしても伝わりにくいので、実際に乗ってみて実感していただくのがいいのだろうと思う。地上に出ると大通りが。これは… ともあれ、新開地駅はそんな神戸高速線の中核的なターミナル。阪急と阪神の電車が並んで停まる地下のホームから地上に出ると、そこには多聞通という大通りが走っている。 多聞通の多聞とは、かの楠木正成の幼名・多聞丸にちなむ。楠木正成の墓がこのあたりにあったことから名付けられたという。ちなみに、明治に入って神戸駅の近くに正成を祀った湊川神社が建立され、いまはお墓もその境内に置かれている。 神戸市内を東西に走る多聞通。新開地駅はその地下にあって、多聞通を挟んでやたらと大きなアーケードが待ち受けている。それが新開地本通りの商店街、つまり駅名ではなく地名としての“新開地”の中心ということになる。アーケードを南に進む 多聞通を挟んで、言い換えれば新開地駅を挟んで新開地本通りのアーケード商店街が伸びているのでどちらに行ってもいいのだが、ひとまず南に向かって歩いてみよう。 ……と思ったら、多聞通南側の新開地のアーケードはあっという間に途切れて空が見えるノンアーケードの商店街へ。人通りも多く、一般的な商店街というよりは“繁華街”というほうがふさわしいような雰囲気だ。 で、どんな人がこの町を歩いているのかというと、まさしくよくイメージされる商店街とはまったく違う、ということだけは強く言っておきたい。具体的には、学生グループがはしゃいでいたり、家族連れが遊びや買い物に来たり、という姿はほとんどない。 かわりに目につくのはおじさんたち。気になりながら歩いて行くと、アーケードを抜けたすぐ先に、ボートピア神戸新開地がある。昔風の言い方をすれば、競艇の場外だ。場外舟券売り場だ。つまり新開地を闊歩するおじさんたちは、ボートレースをこよなく愛するおじさんたちだった、というわけだ。まわりに“チェーン店”ではなく“個人店”が印象に残る理由 さすがに舟券売り場だけで終わってはあまりにもアレなので、もう少し新開地の商店街を中心にうろうろと歩き回った。だいたいどこを歩いても、まったく過ぎるほどに庶民的な居酒屋や商店が並ぶ町並み。チェーン店もあるにはあるが、どちらかというと個人経営の、そしてちょっと歴史のありそうな小さな飲食店が多い印象だ。 それは多聞通の北側に出ても変わらない。さらに北側のアーケードから東に逸れると、真っ昼間というのに淫靡なネオンが煌めく一角もある。いわゆる“福原”と呼ばれる風俗街。明治時代から吉原・島原と並ぶ“三ハラ”として名を馳せた、古くからの遊郭街だ。 いまの姿になったのは、戦後の1957年に売春防止法が施行されてからのこと。東京の人にもわかりやすく伝えるならば、吉原の神戸版とでも理解して頂ければ結構であろう。 つまり、ボートレースを愛するおじさんたちと彼らの受け皿になっているであろう庶民派の飲食店、そして少し脇に逸れれば風俗街という、新開地はそんな町なのだ。あまりひとつの町を悪いイメージをもって語るのはよろしくないとは思うが、子どもたちだけで遊びに行ってこいと気軽に言えるような町ではない。 と、これで終わってしまうと本当にイメージが良くないので、もう少し新開地の町を掘り下げてみよう。映画、演芸、劇場の町として開花した「新開地」 そもそも、商店街を歩いていて目に付くのはおじさんばかりではないし、並んでいる店も庶民派の飲食店ばかりではない。たとえば神戸アートビレッジセンター、新開地劇場、シネマ神戸、神戸新開地喜楽館。こういった、演芸場・劇場・映画館をはじめとする文化施設の類いもやたらとあちこちに見られる。新開地は、庶民派の歓楽街であると同時に、映画・演劇の町という個性も持っているのだ。 というよりも、歴史をさかのぼれば映画・演劇の町という点こそが、新開地の決定的な個性といっていい。文字通り、明治以降に“新たに開かれた地”に、演劇や映画(活動写真)といった文化発信の拠点が集まり、繁華街を形成した。それが、新開地の町の本質である。 新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。 湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。なぜ「新開地」が生まれたのか ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。 そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。 湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
もちろん、だからといって皆が皆新開地駅で降りたことがあるかどうかは別のお話。神戸市内における最大のターミナルは言うまでもなく三宮なのだから、多くの人は神戸三宮駅で降りてしまうだろう。となれば、新開地駅はやはりナゾの終着駅。新しく開けた地を意味するその名もまた、いっそう謎めいた雰囲気を醸し出す。いったい、新開地駅とはどんな駅なのだろうか。
……などというわけで、かような疑問を抱いた編集氏の強いプッシュもあって、はるばる新開地駅までやってきた。改めて復習すると、新開地駅までは東京からならば新幹線で新神戸駅まで行って地下鉄で三宮、そこから阪急電車に乗り換えて、となる。大阪からは梅田から阪急電車の特急に乗って35分。三宮のちょっと行った先の地下に潜ったところに新開地駅はある。
ここで最初にややこしい話を済ませておくと、新開地駅は阪急神戸線ではなくそれが直通している先の神戸高速線の駅のひとつ。
この神戸高速線というのは、阪急だけでなく阪神電車・山陽電鉄・神戸電鉄を含めて4路線が神戸市中心部の地下で人知れず入り組み絡み合っている路線で、とくに高速神戸・新開地のふたつの駅は阪急も阪神も揃って乗り入れてくる。さらに新開地駅は六甲山地の山越えに挑む神戸電鉄の事実上の起点になっていて、ますますややこしさが加速する。
まあ、このあたりの詳しいところはいくら言葉を尽くしても伝わりにくいので、実際に乗ってみて実感していただくのがいいのだろうと思う。地上に出ると大通りが。これは… ともあれ、新開地駅はそんな神戸高速線の中核的なターミナル。阪急と阪神の電車が並んで停まる地下のホームから地上に出ると、そこには多聞通という大通りが走っている。 多聞通の多聞とは、かの楠木正成の幼名・多聞丸にちなむ。楠木正成の墓がこのあたりにあったことから名付けられたという。ちなみに、明治に入って神戸駅の近くに正成を祀った湊川神社が建立され、いまはお墓もその境内に置かれている。 神戸市内を東西に走る多聞通。新開地駅はその地下にあって、多聞通を挟んでやたらと大きなアーケードが待ち受けている。それが新開地本通りの商店街、つまり駅名ではなく地名としての“新開地”の中心ということになる。アーケードを南に進む 多聞通を挟んで、言い換えれば新開地駅を挟んで新開地本通りのアーケード商店街が伸びているのでどちらに行ってもいいのだが、ひとまず南に向かって歩いてみよう。 ……と思ったら、多聞通南側の新開地のアーケードはあっという間に途切れて空が見えるノンアーケードの商店街へ。人通りも多く、一般的な商店街というよりは“繁華街”というほうがふさわしいような雰囲気だ。 で、どんな人がこの町を歩いているのかというと、まさしくよくイメージされる商店街とはまったく違う、ということだけは強く言っておきたい。具体的には、学生グループがはしゃいでいたり、家族連れが遊びや買い物に来たり、という姿はほとんどない。 かわりに目につくのはおじさんたち。気になりながら歩いて行くと、アーケードを抜けたすぐ先に、ボートピア神戸新開地がある。昔風の言い方をすれば、競艇の場外だ。場外舟券売り場だ。つまり新開地を闊歩するおじさんたちは、ボートレースをこよなく愛するおじさんたちだった、というわけだ。まわりに“チェーン店”ではなく“個人店”が印象に残る理由 さすがに舟券売り場だけで終わってはあまりにもアレなので、もう少し新開地の商店街を中心にうろうろと歩き回った。だいたいどこを歩いても、まったく過ぎるほどに庶民的な居酒屋や商店が並ぶ町並み。チェーン店もあるにはあるが、どちらかというと個人経営の、そしてちょっと歴史のありそうな小さな飲食店が多い印象だ。 それは多聞通の北側に出ても変わらない。さらに北側のアーケードから東に逸れると、真っ昼間というのに淫靡なネオンが煌めく一角もある。いわゆる“福原”と呼ばれる風俗街。明治時代から吉原・島原と並ぶ“三ハラ”として名を馳せた、古くからの遊郭街だ。 いまの姿になったのは、戦後の1957年に売春防止法が施行されてからのこと。東京の人にもわかりやすく伝えるならば、吉原の神戸版とでも理解して頂ければ結構であろう。 つまり、ボートレースを愛するおじさんたちと彼らの受け皿になっているであろう庶民派の飲食店、そして少し脇に逸れれば風俗街という、新開地はそんな町なのだ。あまりひとつの町を悪いイメージをもって語るのはよろしくないとは思うが、子どもたちだけで遊びに行ってこいと気軽に言えるような町ではない。 と、これで終わってしまうと本当にイメージが良くないので、もう少し新開地の町を掘り下げてみよう。映画、演芸、劇場の町として開花した「新開地」 そもそも、商店街を歩いていて目に付くのはおじさんばかりではないし、並んでいる店も庶民派の飲食店ばかりではない。たとえば神戸アートビレッジセンター、新開地劇場、シネマ神戸、神戸新開地喜楽館。こういった、演芸場・劇場・映画館をはじめとする文化施設の類いもやたらとあちこちに見られる。新開地は、庶民派の歓楽街であると同時に、映画・演劇の町という個性も持っているのだ。 というよりも、歴史をさかのぼれば映画・演劇の町という点こそが、新開地の決定的な個性といっていい。文字通り、明治以降に“新たに開かれた地”に、演劇や映画(活動写真)といった文化発信の拠点が集まり、繁華街を形成した。それが、新開地の町の本質である。 新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。 湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。なぜ「新開地」が生まれたのか ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。 そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。 湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
まあ、このあたりの詳しいところはいくら言葉を尽くしても伝わりにくいので、実際に乗ってみて実感していただくのがいいのだろうと思う。地上に出ると大通りが。これは… ともあれ、新開地駅はそんな神戸高速線の中核的なターミナル。阪急と阪神の電車が並んで停まる地下のホームから地上に出ると、そこには多聞通という大通りが走っている。 多聞通の多聞とは、かの楠木正成の幼名・多聞丸にちなむ。楠木正成の墓がこのあたりにあったことから名付けられたという。ちなみに、明治に入って神戸駅の近くに正成を祀った湊川神社が建立され、いまはお墓もその境内に置かれている。 神戸市内を東西に走る多聞通。新開地駅はその地下にあって、多聞通を挟んでやたらと大きなアーケードが待ち受けている。それが新開地本通りの商店街、つまり駅名ではなく地名としての“新開地”の中心ということになる。アーケードを南に進む 多聞通を挟んで、言い換えれば新開地駅を挟んで新開地本通りのアーケード商店街が伸びているのでどちらに行ってもいいのだが、ひとまず南に向かって歩いてみよう。 ……と思ったら、多聞通南側の新開地のアーケードはあっという間に途切れて空が見えるノンアーケードの商店街へ。人通りも多く、一般的な商店街というよりは“繁華街”というほうがふさわしいような雰囲気だ。 で、どんな人がこの町を歩いているのかというと、まさしくよくイメージされる商店街とはまったく違う、ということだけは強く言っておきたい。具体的には、学生グループがはしゃいでいたり、家族連れが遊びや買い物に来たり、という姿はほとんどない。 かわりに目につくのはおじさんたち。気になりながら歩いて行くと、アーケードを抜けたすぐ先に、ボートピア神戸新開地がある。昔風の言い方をすれば、競艇の場外だ。場外舟券売り場だ。つまり新開地を闊歩するおじさんたちは、ボートレースをこよなく愛するおじさんたちだった、というわけだ。まわりに“チェーン店”ではなく“個人店”が印象に残る理由 さすがに舟券売り場だけで終わってはあまりにもアレなので、もう少し新開地の商店街を中心にうろうろと歩き回った。だいたいどこを歩いても、まったく過ぎるほどに庶民的な居酒屋や商店が並ぶ町並み。チェーン店もあるにはあるが、どちらかというと個人経営の、そしてちょっと歴史のありそうな小さな飲食店が多い印象だ。 それは多聞通の北側に出ても変わらない。さらに北側のアーケードから東に逸れると、真っ昼間というのに淫靡なネオンが煌めく一角もある。いわゆる“福原”と呼ばれる風俗街。明治時代から吉原・島原と並ぶ“三ハラ”として名を馳せた、古くからの遊郭街だ。 いまの姿になったのは、戦後の1957年に売春防止法が施行されてからのこと。東京の人にもわかりやすく伝えるならば、吉原の神戸版とでも理解して頂ければ結構であろう。 つまり、ボートレースを愛するおじさんたちと彼らの受け皿になっているであろう庶民派の飲食店、そして少し脇に逸れれば風俗街という、新開地はそんな町なのだ。あまりひとつの町を悪いイメージをもって語るのはよろしくないとは思うが、子どもたちだけで遊びに行ってこいと気軽に言えるような町ではない。 と、これで終わってしまうと本当にイメージが良くないので、もう少し新開地の町を掘り下げてみよう。映画、演芸、劇場の町として開花した「新開地」 そもそも、商店街を歩いていて目に付くのはおじさんばかりではないし、並んでいる店も庶民派の飲食店ばかりではない。たとえば神戸アートビレッジセンター、新開地劇場、シネマ神戸、神戸新開地喜楽館。こういった、演芸場・劇場・映画館をはじめとする文化施設の類いもやたらとあちこちに見られる。新開地は、庶民派の歓楽街であると同時に、映画・演劇の町という個性も持っているのだ。 というよりも、歴史をさかのぼれば映画・演劇の町という点こそが、新開地の決定的な個性といっていい。文字通り、明治以降に“新たに開かれた地”に、演劇や映画(活動写真)といった文化発信の拠点が集まり、繁華街を形成した。それが、新開地の町の本質である。 新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。 湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。なぜ「新開地」が生まれたのか ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。 そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。 湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
まあ、このあたりの詳しいところはいくら言葉を尽くしても伝わりにくいので、実際に乗ってみて実感していただくのがいいのだろうと思う。地上に出ると大通りが。これは… ともあれ、新開地駅はそんな神戸高速線の中核的なターミナル。阪急と阪神の電車が並んで停まる地下のホームから地上に出ると、そこには多聞通という大通りが走っている。 多聞通の多聞とは、かの楠木正成の幼名・多聞丸にちなむ。楠木正成の墓がこのあたりにあったことから名付けられたという。ちなみに、明治に入って神戸駅の近くに正成を祀った湊川神社が建立され、いまはお墓もその境内に置かれている。 神戸市内を東西に走る多聞通。新開地駅はその地下にあって、多聞通を挟んでやたらと大きなアーケードが待ち受けている。それが新開地本通りの商店街、つまり駅名ではなく地名としての“新開地”の中心ということになる。アーケードを南に進む 多聞通を挟んで、言い換えれば新開地駅を挟んで新開地本通りのアーケード商店街が伸びているのでどちらに行ってもいいのだが、ひとまず南に向かって歩いてみよう。 ……と思ったら、多聞通南側の新開地のアーケードはあっという間に途切れて空が見えるノンアーケードの商店街へ。人通りも多く、一般的な商店街というよりは“繁華街”というほうがふさわしいような雰囲気だ。 で、どんな人がこの町を歩いているのかというと、まさしくよくイメージされる商店街とはまったく違う、ということだけは強く言っておきたい。具体的には、学生グループがはしゃいでいたり、家族連れが遊びや買い物に来たり、という姿はほとんどない。 かわりに目につくのはおじさんたち。気になりながら歩いて行くと、アーケードを抜けたすぐ先に、ボートピア神戸新開地がある。昔風の言い方をすれば、競艇の場外だ。場外舟券売り場だ。つまり新開地を闊歩するおじさんたちは、ボートレースをこよなく愛するおじさんたちだった、というわけだ。まわりに“チェーン店”ではなく“個人店”が印象に残る理由 さすがに舟券売り場だけで終わってはあまりにもアレなので、もう少し新開地の商店街を中心にうろうろと歩き回った。だいたいどこを歩いても、まったく過ぎるほどに庶民的な居酒屋や商店が並ぶ町並み。チェーン店もあるにはあるが、どちらかというと個人経営の、そしてちょっと歴史のありそうな小さな飲食店が多い印象だ。 それは多聞通の北側に出ても変わらない。さらに北側のアーケードから東に逸れると、真っ昼間というのに淫靡なネオンが煌めく一角もある。いわゆる“福原”と呼ばれる風俗街。明治時代から吉原・島原と並ぶ“三ハラ”として名を馳せた、古くからの遊郭街だ。 いまの姿になったのは、戦後の1957年に売春防止法が施行されてからのこと。東京の人にもわかりやすく伝えるならば、吉原の神戸版とでも理解して頂ければ結構であろう。 つまり、ボートレースを愛するおじさんたちと彼らの受け皿になっているであろう庶民派の飲食店、そして少し脇に逸れれば風俗街という、新開地はそんな町なのだ。あまりひとつの町を悪いイメージをもって語るのはよろしくないとは思うが、子どもたちだけで遊びに行ってこいと気軽に言えるような町ではない。 と、これで終わってしまうと本当にイメージが良くないので、もう少し新開地の町を掘り下げてみよう。映画、演芸、劇場の町として開花した「新開地」 そもそも、商店街を歩いていて目に付くのはおじさんばかりではないし、並んでいる店も庶民派の飲食店ばかりではない。たとえば神戸アートビレッジセンター、新開地劇場、シネマ神戸、神戸新開地喜楽館。こういった、演芸場・劇場・映画館をはじめとする文化施設の類いもやたらとあちこちに見られる。新開地は、庶民派の歓楽街であると同時に、映画・演劇の町という個性も持っているのだ。 というよりも、歴史をさかのぼれば映画・演劇の町という点こそが、新開地の決定的な個性といっていい。文字通り、明治以降に“新たに開かれた地”に、演劇や映画(活動写真)といった文化発信の拠点が集まり、繁華街を形成した。それが、新開地の町の本質である。 新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。 湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。なぜ「新開地」が生まれたのか ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。 そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。 湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
まあ、このあたりの詳しいところはいくら言葉を尽くしても伝わりにくいので、実際に乗ってみて実感していただくのがいいのだろうと思う。
ともあれ、新開地駅はそんな神戸高速線の中核的なターミナル。阪急と阪神の電車が並んで停まる地下のホームから地上に出ると、そこには多聞通という大通りが走っている。
多聞通の多聞とは、かの楠木正成の幼名・多聞丸にちなむ。楠木正成の墓がこのあたりにあったことから名付けられたという。ちなみに、明治に入って神戸駅の近くに正成を祀った湊川神社が建立され、いまはお墓もその境内に置かれている。 神戸市内を東西に走る多聞通。新開地駅はその地下にあって、多聞通を挟んでやたらと大きなアーケードが待ち受けている。それが新開地本通りの商店街、つまり駅名ではなく地名としての“新開地”の中心ということになる。アーケードを南に進む 多聞通を挟んで、言い換えれば新開地駅を挟んで新開地本通りのアーケード商店街が伸びているのでどちらに行ってもいいのだが、ひとまず南に向かって歩いてみよう。 ……と思ったら、多聞通南側の新開地のアーケードはあっという間に途切れて空が見えるノンアーケードの商店街へ。人通りも多く、一般的な商店街というよりは“繁華街”というほうがふさわしいような雰囲気だ。 で、どんな人がこの町を歩いているのかというと、まさしくよくイメージされる商店街とはまったく違う、ということだけは強く言っておきたい。具体的には、学生グループがはしゃいでいたり、家族連れが遊びや買い物に来たり、という姿はほとんどない。 かわりに目につくのはおじさんたち。気になりながら歩いて行くと、アーケードを抜けたすぐ先に、ボートピア神戸新開地がある。昔風の言い方をすれば、競艇の場外だ。場外舟券売り場だ。つまり新開地を闊歩するおじさんたちは、ボートレースをこよなく愛するおじさんたちだった、というわけだ。まわりに“チェーン店”ではなく“個人店”が印象に残る理由 さすがに舟券売り場だけで終わってはあまりにもアレなので、もう少し新開地の商店街を中心にうろうろと歩き回った。だいたいどこを歩いても、まったく過ぎるほどに庶民的な居酒屋や商店が並ぶ町並み。チェーン店もあるにはあるが、どちらかというと個人経営の、そしてちょっと歴史のありそうな小さな飲食店が多い印象だ。 それは多聞通の北側に出ても変わらない。さらに北側のアーケードから東に逸れると、真っ昼間というのに淫靡なネオンが煌めく一角もある。いわゆる“福原”と呼ばれる風俗街。明治時代から吉原・島原と並ぶ“三ハラ”として名を馳せた、古くからの遊郭街だ。 いまの姿になったのは、戦後の1957年に売春防止法が施行されてからのこと。東京の人にもわかりやすく伝えるならば、吉原の神戸版とでも理解して頂ければ結構であろう。 つまり、ボートレースを愛するおじさんたちと彼らの受け皿になっているであろう庶民派の飲食店、そして少し脇に逸れれば風俗街という、新開地はそんな町なのだ。あまりひとつの町を悪いイメージをもって語るのはよろしくないとは思うが、子どもたちだけで遊びに行ってこいと気軽に言えるような町ではない。 と、これで終わってしまうと本当にイメージが良くないので、もう少し新開地の町を掘り下げてみよう。映画、演芸、劇場の町として開花した「新開地」 そもそも、商店街を歩いていて目に付くのはおじさんばかりではないし、並んでいる店も庶民派の飲食店ばかりではない。たとえば神戸アートビレッジセンター、新開地劇場、シネマ神戸、神戸新開地喜楽館。こういった、演芸場・劇場・映画館をはじめとする文化施設の類いもやたらとあちこちに見られる。新開地は、庶民派の歓楽街であると同時に、映画・演劇の町という個性も持っているのだ。 というよりも、歴史をさかのぼれば映画・演劇の町という点こそが、新開地の決定的な個性といっていい。文字通り、明治以降に“新たに開かれた地”に、演劇や映画(活動写真)といった文化発信の拠点が集まり、繁華街を形成した。それが、新開地の町の本質である。 新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。 湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。なぜ「新開地」が生まれたのか ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。 そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。 湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
多聞通の多聞とは、かの楠木正成の幼名・多聞丸にちなむ。楠木正成の墓がこのあたりにあったことから名付けられたという。ちなみに、明治に入って神戸駅の近くに正成を祀った湊川神社が建立され、いまはお墓もその境内に置かれている。 神戸市内を東西に走る多聞通。新開地駅はその地下にあって、多聞通を挟んでやたらと大きなアーケードが待ち受けている。それが新開地本通りの商店街、つまり駅名ではなく地名としての“新開地”の中心ということになる。アーケードを南に進む 多聞通を挟んで、言い換えれば新開地駅を挟んで新開地本通りのアーケード商店街が伸びているのでどちらに行ってもいいのだが、ひとまず南に向かって歩いてみよう。 ……と思ったら、多聞通南側の新開地のアーケードはあっという間に途切れて空が見えるノンアーケードの商店街へ。人通りも多く、一般的な商店街というよりは“繁華街”というほうがふさわしいような雰囲気だ。 で、どんな人がこの町を歩いているのかというと、まさしくよくイメージされる商店街とはまったく違う、ということだけは強く言っておきたい。具体的には、学生グループがはしゃいでいたり、家族連れが遊びや買い物に来たり、という姿はほとんどない。 かわりに目につくのはおじさんたち。気になりながら歩いて行くと、アーケードを抜けたすぐ先に、ボートピア神戸新開地がある。昔風の言い方をすれば、競艇の場外だ。場外舟券売り場だ。つまり新開地を闊歩するおじさんたちは、ボートレースをこよなく愛するおじさんたちだった、というわけだ。まわりに“チェーン店”ではなく“個人店”が印象に残る理由 さすがに舟券売り場だけで終わってはあまりにもアレなので、もう少し新開地の商店街を中心にうろうろと歩き回った。だいたいどこを歩いても、まったく過ぎるほどに庶民的な居酒屋や商店が並ぶ町並み。チェーン店もあるにはあるが、どちらかというと個人経営の、そしてちょっと歴史のありそうな小さな飲食店が多い印象だ。 それは多聞通の北側に出ても変わらない。さらに北側のアーケードから東に逸れると、真っ昼間というのに淫靡なネオンが煌めく一角もある。いわゆる“福原”と呼ばれる風俗街。明治時代から吉原・島原と並ぶ“三ハラ”として名を馳せた、古くからの遊郭街だ。 いまの姿になったのは、戦後の1957年に売春防止法が施行されてからのこと。東京の人にもわかりやすく伝えるならば、吉原の神戸版とでも理解して頂ければ結構であろう。 つまり、ボートレースを愛するおじさんたちと彼らの受け皿になっているであろう庶民派の飲食店、そして少し脇に逸れれば風俗街という、新開地はそんな町なのだ。あまりひとつの町を悪いイメージをもって語るのはよろしくないとは思うが、子どもたちだけで遊びに行ってこいと気軽に言えるような町ではない。 と、これで終わってしまうと本当にイメージが良くないので、もう少し新開地の町を掘り下げてみよう。映画、演芸、劇場の町として開花した「新開地」 そもそも、商店街を歩いていて目に付くのはおじさんばかりではないし、並んでいる店も庶民派の飲食店ばかりではない。たとえば神戸アートビレッジセンター、新開地劇場、シネマ神戸、神戸新開地喜楽館。こういった、演芸場・劇場・映画館をはじめとする文化施設の類いもやたらとあちこちに見られる。新開地は、庶民派の歓楽街であると同時に、映画・演劇の町という個性も持っているのだ。 というよりも、歴史をさかのぼれば映画・演劇の町という点こそが、新開地の決定的な個性といっていい。文字通り、明治以降に“新たに開かれた地”に、演劇や映画(活動写真)といった文化発信の拠点が集まり、繁華街を形成した。それが、新開地の町の本質である。 新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。 湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。なぜ「新開地」が生まれたのか ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。 そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。 湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
多聞通の多聞とは、かの楠木正成の幼名・多聞丸にちなむ。楠木正成の墓がこのあたりにあったことから名付けられたという。ちなみに、明治に入って神戸駅の近くに正成を祀った湊川神社が建立され、いまはお墓もその境内に置かれている。
神戸市内を東西に走る多聞通。新開地駅はその地下にあって、多聞通を挟んでやたらと大きなアーケードが待ち受けている。それが新開地本通りの商店街、つまり駅名ではなく地名としての“新開地”の中心ということになる。アーケードを南に進む 多聞通を挟んで、言い換えれば新開地駅を挟んで新開地本通りのアーケード商店街が伸びているのでどちらに行ってもいいのだが、ひとまず南に向かって歩いてみよう。 ……と思ったら、多聞通南側の新開地のアーケードはあっという間に途切れて空が見えるノンアーケードの商店街へ。人通りも多く、一般的な商店街というよりは“繁華街”というほうがふさわしいような雰囲気だ。 で、どんな人がこの町を歩いているのかというと、まさしくよくイメージされる商店街とはまったく違う、ということだけは強く言っておきたい。具体的には、学生グループがはしゃいでいたり、家族連れが遊びや買い物に来たり、という姿はほとんどない。 かわりに目につくのはおじさんたち。気になりながら歩いて行くと、アーケードを抜けたすぐ先に、ボートピア神戸新開地がある。昔風の言い方をすれば、競艇の場外だ。場外舟券売り場だ。つまり新開地を闊歩するおじさんたちは、ボートレースをこよなく愛するおじさんたちだった、というわけだ。まわりに“チェーン店”ではなく“個人店”が印象に残る理由 さすがに舟券売り場だけで終わってはあまりにもアレなので、もう少し新開地の商店街を中心にうろうろと歩き回った。だいたいどこを歩いても、まったく過ぎるほどに庶民的な居酒屋や商店が並ぶ町並み。チェーン店もあるにはあるが、どちらかというと個人経営の、そしてちょっと歴史のありそうな小さな飲食店が多い印象だ。 それは多聞通の北側に出ても変わらない。さらに北側のアーケードから東に逸れると、真っ昼間というのに淫靡なネオンが煌めく一角もある。いわゆる“福原”と呼ばれる風俗街。明治時代から吉原・島原と並ぶ“三ハラ”として名を馳せた、古くからの遊郭街だ。 いまの姿になったのは、戦後の1957年に売春防止法が施行されてからのこと。東京の人にもわかりやすく伝えるならば、吉原の神戸版とでも理解して頂ければ結構であろう。 つまり、ボートレースを愛するおじさんたちと彼らの受け皿になっているであろう庶民派の飲食店、そして少し脇に逸れれば風俗街という、新開地はそんな町なのだ。あまりひとつの町を悪いイメージをもって語るのはよろしくないとは思うが、子どもたちだけで遊びに行ってこいと気軽に言えるような町ではない。 と、これで終わってしまうと本当にイメージが良くないので、もう少し新開地の町を掘り下げてみよう。映画、演芸、劇場の町として開花した「新開地」 そもそも、商店街を歩いていて目に付くのはおじさんばかりではないし、並んでいる店も庶民派の飲食店ばかりではない。たとえば神戸アートビレッジセンター、新開地劇場、シネマ神戸、神戸新開地喜楽館。こういった、演芸場・劇場・映画館をはじめとする文化施設の類いもやたらとあちこちに見られる。新開地は、庶民派の歓楽街であると同時に、映画・演劇の町という個性も持っているのだ。 というよりも、歴史をさかのぼれば映画・演劇の町という点こそが、新開地の決定的な個性といっていい。文字通り、明治以降に“新たに開かれた地”に、演劇や映画(活動写真)といった文化発信の拠点が集まり、繁華街を形成した。それが、新開地の町の本質である。 新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。 湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。なぜ「新開地」が生まれたのか ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。 そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。 湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
神戸市内を東西に走る多聞通。新開地駅はその地下にあって、多聞通を挟んでやたらと大きなアーケードが待ち受けている。それが新開地本通りの商店街、つまり駅名ではなく地名としての“新開地”の中心ということになる。
多聞通を挟んで、言い換えれば新開地駅を挟んで新開地本通りのアーケード商店街が伸びているのでどちらに行ってもいいのだが、ひとまず南に向かって歩いてみよう。
……と思ったら、多聞通南側の新開地のアーケードはあっという間に途切れて空が見えるノンアーケードの商店街へ。人通りも多く、一般的な商店街というよりは“繁華街”というほうがふさわしいような雰囲気だ。
で、どんな人がこの町を歩いているのかというと、まさしくよくイメージされる商店街とはまったく違う、ということだけは強く言っておきたい。具体的には、学生グループがはしゃいでいたり、家族連れが遊びや買い物に来たり、という姿はほとんどない。 かわりに目につくのはおじさんたち。気になりながら歩いて行くと、アーケードを抜けたすぐ先に、ボートピア神戸新開地がある。昔風の言い方をすれば、競艇の場外だ。場外舟券売り場だ。つまり新開地を闊歩するおじさんたちは、ボートレースをこよなく愛するおじさんたちだった、というわけだ。まわりに“チェーン店”ではなく“個人店”が印象に残る理由 さすがに舟券売り場だけで終わってはあまりにもアレなので、もう少し新開地の商店街を中心にうろうろと歩き回った。だいたいどこを歩いても、まったく過ぎるほどに庶民的な居酒屋や商店が並ぶ町並み。チェーン店もあるにはあるが、どちらかというと個人経営の、そしてちょっと歴史のありそうな小さな飲食店が多い印象だ。 それは多聞通の北側に出ても変わらない。さらに北側のアーケードから東に逸れると、真っ昼間というのに淫靡なネオンが煌めく一角もある。いわゆる“福原”と呼ばれる風俗街。明治時代から吉原・島原と並ぶ“三ハラ”として名を馳せた、古くからの遊郭街だ。 いまの姿になったのは、戦後の1957年に売春防止法が施行されてからのこと。東京の人にもわかりやすく伝えるならば、吉原の神戸版とでも理解して頂ければ結構であろう。 つまり、ボートレースを愛するおじさんたちと彼らの受け皿になっているであろう庶民派の飲食店、そして少し脇に逸れれば風俗街という、新開地はそんな町なのだ。あまりひとつの町を悪いイメージをもって語るのはよろしくないとは思うが、子どもたちだけで遊びに行ってこいと気軽に言えるような町ではない。 と、これで終わってしまうと本当にイメージが良くないので、もう少し新開地の町を掘り下げてみよう。映画、演芸、劇場の町として開花した「新開地」 そもそも、商店街を歩いていて目に付くのはおじさんばかりではないし、並んでいる店も庶民派の飲食店ばかりではない。たとえば神戸アートビレッジセンター、新開地劇場、シネマ神戸、神戸新開地喜楽館。こういった、演芸場・劇場・映画館をはじめとする文化施設の類いもやたらとあちこちに見られる。新開地は、庶民派の歓楽街であると同時に、映画・演劇の町という個性も持っているのだ。 というよりも、歴史をさかのぼれば映画・演劇の町という点こそが、新開地の決定的な個性といっていい。文字通り、明治以降に“新たに開かれた地”に、演劇や映画(活動写真)といった文化発信の拠点が集まり、繁華街を形成した。それが、新開地の町の本質である。 新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。 湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。なぜ「新開地」が生まれたのか ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。 そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。 湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
で、どんな人がこの町を歩いているのかというと、まさしくよくイメージされる商店街とはまったく違う、ということだけは強く言っておきたい。具体的には、学生グループがはしゃいでいたり、家族連れが遊びや買い物に来たり、という姿はほとんどない。
かわりに目につくのはおじさんたち。気になりながら歩いて行くと、アーケードを抜けたすぐ先に、ボートピア神戸新開地がある。昔風の言い方をすれば、競艇の場外だ。場外舟券売り場だ。つまり新開地を闊歩するおじさんたちは、ボートレースをこよなく愛するおじさんたちだった、というわけだ。まわりに“チェーン店”ではなく“個人店”が印象に残る理由 さすがに舟券売り場だけで終わってはあまりにもアレなので、もう少し新開地の商店街を中心にうろうろと歩き回った。だいたいどこを歩いても、まったく過ぎるほどに庶民的な居酒屋や商店が並ぶ町並み。チェーン店もあるにはあるが、どちらかというと個人経営の、そしてちょっと歴史のありそうな小さな飲食店が多い印象だ。 それは多聞通の北側に出ても変わらない。さらに北側のアーケードから東に逸れると、真っ昼間というのに淫靡なネオンが煌めく一角もある。いわゆる“福原”と呼ばれる風俗街。明治時代から吉原・島原と並ぶ“三ハラ”として名を馳せた、古くからの遊郭街だ。 いまの姿になったのは、戦後の1957年に売春防止法が施行されてからのこと。東京の人にもわかりやすく伝えるならば、吉原の神戸版とでも理解して頂ければ結構であろう。 つまり、ボートレースを愛するおじさんたちと彼らの受け皿になっているであろう庶民派の飲食店、そして少し脇に逸れれば風俗街という、新開地はそんな町なのだ。あまりひとつの町を悪いイメージをもって語るのはよろしくないとは思うが、子どもたちだけで遊びに行ってこいと気軽に言えるような町ではない。 と、これで終わってしまうと本当にイメージが良くないので、もう少し新開地の町を掘り下げてみよう。映画、演芸、劇場の町として開花した「新開地」 そもそも、商店街を歩いていて目に付くのはおじさんばかりではないし、並んでいる店も庶民派の飲食店ばかりではない。たとえば神戸アートビレッジセンター、新開地劇場、シネマ神戸、神戸新開地喜楽館。こういった、演芸場・劇場・映画館をはじめとする文化施設の類いもやたらとあちこちに見られる。新開地は、庶民派の歓楽街であると同時に、映画・演劇の町という個性も持っているのだ。 というよりも、歴史をさかのぼれば映画・演劇の町という点こそが、新開地の決定的な個性といっていい。文字通り、明治以降に“新たに開かれた地”に、演劇や映画(活動写真)といった文化発信の拠点が集まり、繁華街を形成した。それが、新開地の町の本質である。 新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。 湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。なぜ「新開地」が生まれたのか ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。 そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。 湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
かわりに目につくのはおじさんたち。気になりながら歩いて行くと、アーケードを抜けたすぐ先に、ボートピア神戸新開地がある。昔風の言い方をすれば、競艇の場外だ。場外舟券売り場だ。つまり新開地を闊歩するおじさんたちは、ボートレースをこよなく愛するおじさんたちだった、というわけだ。
まわりに“チェーン店”ではなく“個人店”が印象に残る理由 さすがに舟券売り場だけで終わってはあまりにもアレなので、もう少し新開地の商店街を中心にうろうろと歩き回った。だいたいどこを歩いても、まったく過ぎるほどに庶民的な居酒屋や商店が並ぶ町並み。チェーン店もあるにはあるが、どちらかというと個人経営の、そしてちょっと歴史のありそうな小さな飲食店が多い印象だ。 それは多聞通の北側に出ても変わらない。さらに北側のアーケードから東に逸れると、真っ昼間というのに淫靡なネオンが煌めく一角もある。いわゆる“福原”と呼ばれる風俗街。明治時代から吉原・島原と並ぶ“三ハラ”として名を馳せた、古くからの遊郭街だ。 いまの姿になったのは、戦後の1957年に売春防止法が施行されてからのこと。東京の人にもわかりやすく伝えるならば、吉原の神戸版とでも理解して頂ければ結構であろう。 つまり、ボートレースを愛するおじさんたちと彼らの受け皿になっているであろう庶民派の飲食店、そして少し脇に逸れれば風俗街という、新開地はそんな町なのだ。あまりひとつの町を悪いイメージをもって語るのはよろしくないとは思うが、子どもたちだけで遊びに行ってこいと気軽に言えるような町ではない。 と、これで終わってしまうと本当にイメージが良くないので、もう少し新開地の町を掘り下げてみよう。映画、演芸、劇場の町として開花した「新開地」 そもそも、商店街を歩いていて目に付くのはおじさんばかりではないし、並んでいる店も庶民派の飲食店ばかりではない。たとえば神戸アートビレッジセンター、新開地劇場、シネマ神戸、神戸新開地喜楽館。こういった、演芸場・劇場・映画館をはじめとする文化施設の類いもやたらとあちこちに見られる。新開地は、庶民派の歓楽街であると同時に、映画・演劇の町という個性も持っているのだ。 というよりも、歴史をさかのぼれば映画・演劇の町という点こそが、新開地の決定的な個性といっていい。文字通り、明治以降に“新たに開かれた地”に、演劇や映画(活動写真)といった文化発信の拠点が集まり、繁華街を形成した。それが、新開地の町の本質である。 新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。 湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。なぜ「新開地」が生まれたのか ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。 そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。 湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
さすがに舟券売り場だけで終わってはあまりにもアレなので、もう少し新開地の商店街を中心にうろうろと歩き回った。だいたいどこを歩いても、まったく過ぎるほどに庶民的な居酒屋や商店が並ぶ町並み。チェーン店もあるにはあるが、どちらかというと個人経営の、そしてちょっと歴史のありそうな小さな飲食店が多い印象だ。
それは多聞通の北側に出ても変わらない。さらに北側のアーケードから東に逸れると、真っ昼間というのに淫靡なネオンが煌めく一角もある。いわゆる“福原”と呼ばれる風俗街。明治時代から吉原・島原と並ぶ“三ハラ”として名を馳せた、古くからの遊郭街だ。 いまの姿になったのは、戦後の1957年に売春防止法が施行されてからのこと。東京の人にもわかりやすく伝えるならば、吉原の神戸版とでも理解して頂ければ結構であろう。 つまり、ボートレースを愛するおじさんたちと彼らの受け皿になっているであろう庶民派の飲食店、そして少し脇に逸れれば風俗街という、新開地はそんな町なのだ。あまりひとつの町を悪いイメージをもって語るのはよろしくないとは思うが、子どもたちだけで遊びに行ってこいと気軽に言えるような町ではない。 と、これで終わってしまうと本当にイメージが良くないので、もう少し新開地の町を掘り下げてみよう。映画、演芸、劇場の町として開花した「新開地」 そもそも、商店街を歩いていて目に付くのはおじさんばかりではないし、並んでいる店も庶民派の飲食店ばかりではない。たとえば神戸アートビレッジセンター、新開地劇場、シネマ神戸、神戸新開地喜楽館。こういった、演芸場・劇場・映画館をはじめとする文化施設の類いもやたらとあちこちに見られる。新開地は、庶民派の歓楽街であると同時に、映画・演劇の町という個性も持っているのだ。 というよりも、歴史をさかのぼれば映画・演劇の町という点こそが、新開地の決定的な個性といっていい。文字通り、明治以降に“新たに開かれた地”に、演劇や映画(活動写真)といった文化発信の拠点が集まり、繁華街を形成した。それが、新開地の町の本質である。 新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。 湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。なぜ「新開地」が生まれたのか ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。 そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。 湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
それは多聞通の北側に出ても変わらない。さらに北側のアーケードから東に逸れると、真っ昼間というのに淫靡なネオンが煌めく一角もある。いわゆる“福原”と呼ばれる風俗街。明治時代から吉原・島原と並ぶ“三ハラ”として名を馳せた、古くからの遊郭街だ。
いまの姿になったのは、戦後の1957年に売春防止法が施行されてからのこと。東京の人にもわかりやすく伝えるならば、吉原の神戸版とでも理解して頂ければ結構であろう。 つまり、ボートレースを愛するおじさんたちと彼らの受け皿になっているであろう庶民派の飲食店、そして少し脇に逸れれば風俗街という、新開地はそんな町なのだ。あまりひとつの町を悪いイメージをもって語るのはよろしくないとは思うが、子どもたちだけで遊びに行ってこいと気軽に言えるような町ではない。 と、これで終わってしまうと本当にイメージが良くないので、もう少し新開地の町を掘り下げてみよう。映画、演芸、劇場の町として開花した「新開地」 そもそも、商店街を歩いていて目に付くのはおじさんばかりではないし、並んでいる店も庶民派の飲食店ばかりではない。たとえば神戸アートビレッジセンター、新開地劇場、シネマ神戸、神戸新開地喜楽館。こういった、演芸場・劇場・映画館をはじめとする文化施設の類いもやたらとあちこちに見られる。新開地は、庶民派の歓楽街であると同時に、映画・演劇の町という個性も持っているのだ。 というよりも、歴史をさかのぼれば映画・演劇の町という点こそが、新開地の決定的な個性といっていい。文字通り、明治以降に“新たに開かれた地”に、演劇や映画(活動写真)といった文化発信の拠点が集まり、繁華街を形成した。それが、新開地の町の本質である。 新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。 湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。なぜ「新開地」が生まれたのか ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。 そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。 湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
いまの姿になったのは、戦後の1957年に売春防止法が施行されてからのこと。東京の人にもわかりやすく伝えるならば、吉原の神戸版とでも理解して頂ければ結構であろう。
つまり、ボートレースを愛するおじさんたちと彼らの受け皿になっているであろう庶民派の飲食店、そして少し脇に逸れれば風俗街という、新開地はそんな町なのだ。あまりひとつの町を悪いイメージをもって語るのはよろしくないとは思うが、子どもたちだけで遊びに行ってこいと気軽に言えるような町ではない。
と、これで終わってしまうと本当にイメージが良くないので、もう少し新開地の町を掘り下げてみよう。
そもそも、商店街を歩いていて目に付くのはおじさんばかりではないし、並んでいる店も庶民派の飲食店ばかりではない。たとえば神戸アートビレッジセンター、新開地劇場、シネマ神戸、神戸新開地喜楽館。こういった、演芸場・劇場・映画館をはじめとする文化施設の類いもやたらとあちこちに見られる。新開地は、庶民派の歓楽街であると同時に、映画・演劇の町という個性も持っているのだ。
というよりも、歴史をさかのぼれば映画・演劇の町という点こそが、新開地の決定的な個性といっていい。文字通り、明治以降に“新たに開かれた地”に、演劇や映画(活動写真)といった文化発信の拠点が集まり、繁華街を形成した。それが、新開地の町の本質である。 新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。 湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。なぜ「新開地」が生まれたのか ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。 そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。 湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
というよりも、歴史をさかのぼれば映画・演劇の町という点こそが、新開地の決定的な個性といっていい。文字通り、明治以降に“新たに開かれた地”に、演劇や映画(活動写真)といった文化発信の拠点が集まり、繁華街を形成した。それが、新開地の町の本質である。 新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。 湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。なぜ「新開地」が生まれたのか ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。 そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。 湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
というよりも、歴史をさかのぼれば映画・演劇の町という点こそが、新開地の決定的な個性といっていい。文字通り、明治以降に“新たに開かれた地”に、演劇や映画(活動写真)といった文化発信の拠点が集まり、繁華街を形成した。それが、新開地の町の本質である。
新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。 湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。なぜ「新開地」が生まれたのか ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。 そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。 湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。 湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。なぜ「新開地」が生まれたのか ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。 そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。 湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
新開地が“新たに開かれた”のは、1901年のことだ。それ以前まで、新開地本通りがあるあたりには湊川という川が流れていた。
湊川を挟んで西側が江戸時代以来の港町・兵庫。反対に東側が外国に開かれた近代港の神戸港を要する神戸。そういう風にふたつの町を隔てる役割を、湊川が果たしていた。楠木正成が滅びた湊川の戦いも、この湊川沿いを舞台に繰り広げられた南北朝期の戦である。
ただ、湊川がただの川ならばまだよかったのだが、実際は高さ6mもあろうという天井川だった。天井川とは上流からの土砂が堆積して周辺の低地よりも高くなっている川をいう。想像すればわかるとおり、少しでも大雨が降って増水すればたちどころに周囲は浸水被害を受ける。実際、1896年には湊川が氾濫して福原遊郭が水浸しになったという。
そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。いつしか露天商の町に…そして迎えたターニングポイント もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。 湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
そこでどうにかせねばならぬと神戸市の主導のもとで、1897年から湊川の付け替え工事(つまり湊川の埋め立て)が行われ、1901年に完成。そうしてそれまで川の上だった場所が埋め立てられて新たに生まれたのが、“新開地”なのである。
もともと湊川沿いは茶店が建ち並ぶような賑わいのある一帯だったが、新開地が生まれてからはそれが一層発展してゆく。
湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。 そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。 ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。 ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。 いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
湊川の埋め立ては神戸市ではなく湊川改修会社という半官半民のような民間企業によって行われたが、とうぜん改修工事だけでは利益は上げられない。
そこで埋め立てた湊川跡地を露天商などに貸し付けて賃料を得て、そこから株主に配当していた。そのため、誕生間もない新開地には次々に露天商が店を開いたという。
ただ、国際港・神戸港にもほど近いこの場所をいつまでも露店だらけの青空市にしておくわけにもいかない。そこでほどなく本格的な開発が進められてゆく。
ターニングポイントになったのは、1907年に開業した芝居小屋の相生座。次いで東洋一豪華と謳われた錦座や聚楽館、いまでいう百貨店にあたる湊川商品館や神戸勧商場なども開業し、明治の終わり頃から大正のはじめにかけて、瞬く間に新開地は文化芸能の発信地になっていった。
いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。映画館の誕生、スターの訪問。200を超える飲食店が軒を連ねる圧倒的な繁華街へ そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。 さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。 こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。 浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
いまでは多聞通沿いのパチンコ店(以前はラウンドワン)になっている聚楽館は本格的な西洋建築で、幼少期を新開地で過ごした淀川長治も「帝劇にも負けない」と称したほどの豪奢な作りだったようだ。
そして新開地を娯楽の町として定着させた決め手になったのが、1909年に開業した電気館と日本館というふたつの活動写真館(映画館)。以後、次々に活動写真館が新開地に進出していった。
さらに大正時代になると、世界のスターも新開地を訪れている。1920年にはアメリカの名女優マリー・ウォールキャンプが中国へのロケの途上に立ち寄り、1922年にはロシア人バレリーナのアンナ・パブロワもやってきた。新開地はロシア革命から逃れてきたロシア人(白系ロシア人)の受け皿にもなっていたようだ。
こうして新開地は神戸文化、上方文化の最先端をゆく繁華街としての地位を確立してゆく。同じ頃、東京では浅草が映画の町として賑わいを見せており、東の浅草・西の新開地と呼ばれるほど、大正から昭和にかけて、新開地は圧倒的な存在感を持つ繁華街に育ったのである。
浅草が後背地に吉原遊郭を抱えていたのと同じく、新開地にもすぐ脇に福原遊郭があり、それらとの関係も往時の賑わいには無関係ではなかろう。また、かつての湊川の河口付近の埋め立て地には川崎造船(川崎重工)の工場が広がり、そこで働く人たちも繁華街・新開地への来訪者供給源になったこともある。1922年には新開地本通りに200を超える飲食店が軒を連ねていたというエピソードからも、その繁栄ぶりがうかがえる。
町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
町を覆った戦争の影、そして時代は映画からテレビへ しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。 戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。 加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。 そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。 そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。 本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
しかし盛者必衰、太平洋戦争末期の空襲で新開地も大きな被害を受けて、松竹座と聚楽館を除いてほとんどが灰燼に帰してしまう。
戦争が終わるとすぐに映画館は復活して再び映画の町としての賑わいを取り戻したが、いっぽうでは新開地本通り・多聞通から神戸駅方面に向けて米軍のウエストキャンプが設けられるという集客の障壁になるようなできごともあった。
加えて1957年には新開地の北端にあった神戸市役所が三宮に移転、同年の売春防止法施行で福原遊郭が衰退に向かうなど、新開地も少しずつ厳しい環境に追い込まれていった。
そして1960年代半ば以降になると映画に変わってテレビの時代がやってくる。庶民でも楽しめるほとんど唯一の娯楽だった映画の斜陽化がはじまったのだ。
そうして少しずつ新開地から人が遠のき、川崎重工の工場縮小や市電の廃止による交通の便の悪化も加わって、新開地そのものの衰退も決定的なものになっていった。三宮周辺が神戸最大の繁華街として成長していったことも関係しているだろう。
本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。 かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
本通り沿いに20以上もあったという映画館も、その多くがこの時期に閉鎖されている。“新しく開けた地”として隆盛を誇った新開地も、時を経て“古い繁華街”になってしまったのである。
かくしてさびれた雰囲気、もっといえば“怖い・汚い・暗い”の3Kの町ともいわれるようになった新開地。このままでは終われないと、1980年代以降は復活に向けた動きも見られ、1995年の阪神・淡路大震災での被災を経てアーケードの一部撤去や新開地北端の湊川公園のリニューアルなどが行われ、ようやく活気を取り戻しつつある、そういう姿が、いまの新開地というわけだ。
「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
「新開地」がもつ“神戸のもうひとつの顔” たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。 映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
たまさか新開地駅について一目散にボートレースの場外方面に向けて歩いたことで、あまり良いとはいえないイメージの新開地を見てしまったが、実際にはいかにも通が好みそうな小さな映画館やら飲食店やらも少なくない。周辺から一段高いという湊川現役時代の面影が残る湊川公園の直下にも、小さくも古びた映画館がある。
映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。 西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
映画といえば、いまや座席指定で入れ替え制のシネコンがあたりまえ。ただ、子どもの頃を思い出せば、1日中だらだらと見続けてもとがめられない映画館も少なくなかった。新開地には、そうした古き良き映画の文化がいまも残る。
西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。 なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
西の新開地に対する東の浅草には、もはや映画館はひとつもなくなった。それを思えば、新開地の雑多な雰囲気といくつかの小さく古い映画館は、衰退ではなく“踏ん張っている”と表現するほうが正しいのではないかと思う。
なんでも、新開地を指して“B面の神戸”と呼ぶ向きがあるという。A面が何を意味するのかはよくわからないが、ヨソ者の持つ神戸のイメージは港町、異国情緒、南京町といったところ。確かに新開地はそれとはまったく異なっている。だが、ただのさびれた古い歓楽街とは明らかに異質な、昭和の文化芸能の香りがいまも漂う街並みが、そこに残っているのである。
写真=鼠入昌史(鼠入 昌史)
(鼠入 昌史)

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