今年1月、江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜の玄孫(やしゃご)である山岸美喜さんが、第5代当主として「絶家」することを発表し、大きな話題となりました。
【画像】広さは300坪! 徳川慶喜家の墓所などを見る(全10枚) 120年以上の歴史を持つ名家を閉じようと決めた理由は――先代の徳川慶朝さんが6年前に他界した後、山岸さんが「第5代当主」になるまでの道のりについて聞きました。(全2回の1回目/続きを読む)山岸美喜さん 徳川慶喜家墓所の前にて 杉山拓也/文藝春秋
◆◆◆――山岸美喜さんは、徳川慶喜家の第5代当主です。慶喜からみれば、玄孫ですね。祖父は15代将軍・慶喜の孫の慶光さんで、祖母は幕末の会津藩主・松平容保の孫の和子さんという、由緒正しい御家柄です(家系図を参照)。山岸美喜さん(以下、山岸) 会津松平家は祖母の実家で、徳川慶喜家は母の実家です。慶喜家の当主は、慶喜の七男の慶久、孫の慶光、ひ孫の慶朝と受け継がれました。慶朝の遺志によって、5代目当主として、家じまい、墓じまい、いわゆる絶家という局面に向き合っています。徳川宗家と慶喜家の違い――そもそも、徳川宗家と徳川慶喜家は、どう違うのでしょうか。山岸 慶喜は1867(慶応3)年に大政を奉還して、謹慎、引退という事になりましたが、将軍という立場を失っても、徳川宗家の当主を誰かに継がせなければいけない。のちに10男11女をもうける慶喜ですが、このころはまだ子がなく、田安徳川家から6歳だった亀之助(のちに家達)さまが第16代宗家の家督を継いだのです。全ての立場を控えた慶喜は、宗家の庇護下に置かれます。宗家は今年1月に、19代目として58歳の家広さまが家督を相続されました。 静岡市(かつての駿府)で隠居していた慶喜は、1902(明治35)年に公爵に叙されました。このとき、明治天皇よりご宗家とは別に、新しく徳川慶喜家を興すことが許されました。――徳川宗家は、爵位の中で最も高い公爵でした。徳川宗家の別家として作られた慶喜家も、同じ公爵になったのですね。山岸 ご宗家の家達さまはどのようにお感じになられたかは存じ上げませんが「慶喜は徳川家を滅ぼした人、私は徳川家を再建する人」とおっしゃっていたと聞いています。もしそれが本当であれば、養子に迎えてくれた父親に対しての感想としては、残念に思います。明治天皇は、大政奉還という慶喜の英断によって、平和な世の中が訪れたとお考えだったようで、爵位がなかった時代でも常に慶喜に配慮してくださっていました。――徳川家というのは、現在いくつあるのでしょうか。山岸 公爵だったご宗家と慶喜家が2トップ、尾張、紀伊、水戸の御三家に、田安、一橋、清水の御三卿。そのほか宗家別家、慶喜別家など12家ございまして、それぞれにご当主がいらっしゃいます。 紀州のご当主は、私と同じく女性の徳川宜子(ことこ)さまとおっしゃり、紀州徳川家はお父様の代で墓じまいを済ませておられます。紀州歴代藩主のご墓所は海南市の長保寺にあるそうですが、現在のお墓はお寺にお守りいただいているようです。たった一度、慶喜が孫を一喝――慶喜について、お家に語り継がれているエピソードなどありますか。山岸 「怒りは敵と思え」という家康公の遺訓そのままに、物静かで滅多に怒らない人だったと聞いております。当時の町名から「第六天」(現在は文京区小石川)と呼ばれたお屋敷で暮らしていた晩年の話があります。 かくれんぼをして遊んでいた孫たちの一人が木に登って隠れたところ、お付きの人たちが見つからないと必死に探し回って、大騒ぎになりました。そこへ木から下りてきた孫を、「周りの者に心配かけるでないっ!」と一喝したそうです。慶喜が怒ったのはそのときだけだった、という話を聞いたことがあります。――2020年に出版された『みみずのたわごと』(東京キララ社)という本は、お祖母さまの徳川和子さんが遺された手記と、山岸さんの思い出話で構成されています。やはり、普通の家とは違うしきたりがありましたか。山岸 祖父の姉上君が高松宮様の喜久子妃殿下でしたから、高松宮御殿へお伺いできるのがとても嬉しかったのです。その際、母から、子どもは3つの言葉しか口にしてはいけないと言われました。お目にかかるときとお別れするときの挨拶は「ごきげんよう」。「ありがとう」は上から下へ向かう言葉だから使ってはいけないと言われ、「おそれいります」。「ちょっとすみません」と声をかけるときは「ごめんあそばせ」。御殿では大人の社会に入らせてもらうのだから、「分を知りなさい」と言われていました。――ご先祖が主役の大河ドラマ『どうする家康』は、ご覧になっていますか。山岸 実はテレビはほとんど見ないのです。以前、紀州の徳川宜子さまと電話でお話ししたとき、「家の歴史と一般の人の歴史は、違うものだと考えています」とおっしゃり、「ああ、なるほど」と思いました。歴史上の人物というよりも、私たちにとっては血の通ったご先祖様。テレビドラマ、小説という次元とは違うように思います。 司馬遼太郎さんなどの小説でも大河ドラマでも、大変研究されていますが、結局はフィクションとなってしまいます。史実に基づく部分は沢山あると思いますが、徳川家が捉えている家の歴史とはちょっと違うところもあると思います。そういったテレビや小説と家の歴史という観点に接点をつけられれば、もっと立体的な歴史となるような気がいたします。第5代当主になった経緯は――山岸さんが慶喜家の当主になられた経緯ですが、第4代の慶朝さんが亡くなる際に、姪である山岸さんを指名されたんですね。山岸 「アンクル」と呼んでいた慶朝叔父は、とにかくこだわりの強い人でした。コーヒー好きが高じて、慶喜が欧米の公使にふるまった珈琲を文献から再現しただけでなく、茨城のコーヒー屋さんに頼み込んで焙煎してもらい、「将軍珈琲」という名前をつけて売り出しました。自由人でこだわりの強い趣味人でもありました。カメラマンを仕事にしたのは、写真好きだった慶喜の血を引いたのかもしれません。 私は小さい時からとても可愛がってもらっていて、本当に心優しい人でした。でも叔父には徳川家当主に求められるような貫禄もなかったので、親族から見下されることもありました。確かに、見た目はちょっと頼りない感じでしたし(笑)。ですから慶喜家の当主として、叔父の考えなどはあまり真剣に取り上げてもらえなかったりして、自分が当主なのにと悔しい思いがあったのではないかと思います。 慶朝叔父は2014(平成26)年に、食道と咽頭に原発性のがんが2つもあることがわかりました。茨城県のひたちなか市に独り暮らししていたので、発病以来、私が毎週のように通い、名古屋の自宅と半々くらいの生活を送りながら看病していました。 がんは完治したのですが、虚血性心筋梗塞で、残念ながら2017年9月に「あとは美喜ちゃんよろしくね」という内容の遺書を残し、67歳で苦労の多かった人生の幕を閉じました。「事務仕事だけするべき」という反発も――山岸さんにとって、後継の指名は予想外でしたね。山岸 遺言により人生が変わったと言っても過言ではなく、これほど大変だとは思っていませんでした。叔父の亡き後、他の親族にも配慮しつつ、あまり自分が目立たぬよう葬儀を出し、遺志に従って家じまいと墓じまいを進めていければと考えていました。 ところが親族の間では、私が当主であることが受け入れ難いようなのです。煩雑な法律の手続きを一つ一つ心を込めて進めていますが、私がいかに心を砕いて務めているか、親族や関係者が無関心なことに哀しさも感じています。「事務仕事、後処理だけするべき」というお考えも分からなくはないのですが、徳川慶喜家の最後の責任を負った立場を理解していただけたらと願っています。 それゆえに、対外的にも徳川家の中でも、自分の立場を明確にする必要があると感じました。それまでは周りに配慮し「当主」という言葉を避けてきたのですが、止むを得ず、叔父の死から5年経った今年1月に、5代目当主であると対外的に表明いたしました。家じまい、墓じまいは、当主しかできない仕事だからです。――実際に継いでみたら、ご苦労の連続だったわけですか。山岸 私はそれまで、純粋にクラシック音楽やゴルフが好きな専業主婦でした。そんな折、仲良くしている独身の叔父が病気になり、とても気の毒でしたし、私を頼ってきているのに見捨てる事など到底できず、私なりに心を込めて看病してきました。 別に徳川だからという事ではなく、私がやるべきこととして、努力してきたつもりです。しかしその向こうには深い歴史があることに、後から気づく事になりました。「ウチって、本当に徳川家だったのね!」と。《お墓は300坪》徳川慶喜家・最後の当主が語る「家じまい」の大変さ「お宝も埋蔵金も、ありはしないのに…」 へ続く(石井 謙一郎)
120年以上の歴史を持つ名家を閉じようと決めた理由は――先代の徳川慶朝さんが6年前に他界した後、山岸さんが「第5代当主」になるまでの道のりについて聞きました。(全2回の1回目/続きを読む)
山岸美喜さん 徳川慶喜家墓所の前にて 杉山拓也/文藝春秋
◆◆◆
――山岸美喜さんは、徳川慶喜家の第5代当主です。慶喜からみれば、玄孫ですね。祖父は15代将軍・慶喜の孫の慶光さんで、祖母は幕末の会津藩主・松平容保の孫の和子さんという、由緒正しい御家柄です(家系図を参照)。
山岸美喜さん(以下、山岸) 会津松平家は祖母の実家で、徳川慶喜家は母の実家です。慶喜家の当主は、慶喜の七男の慶久、孫の慶光、ひ孫の慶朝と受け継がれました。慶朝の遺志によって、5代目当主として、家じまい、墓じまい、いわゆる絶家という局面に向き合っています。
徳川宗家と慶喜家の違い――そもそも、徳川宗家と徳川慶喜家は、どう違うのでしょうか。山岸 慶喜は1867(慶応3)年に大政を奉還して、謹慎、引退という事になりましたが、将軍という立場を失っても、徳川宗家の当主を誰かに継がせなければいけない。のちに10男11女をもうける慶喜ですが、このころはまだ子がなく、田安徳川家から6歳だった亀之助(のちに家達)さまが第16代宗家の家督を継いだのです。全ての立場を控えた慶喜は、宗家の庇護下に置かれます。宗家は今年1月に、19代目として58歳の家広さまが家督を相続されました。 静岡市(かつての駿府)で隠居していた慶喜は、1902(明治35)年に公爵に叙されました。このとき、明治天皇よりご宗家とは別に、新しく徳川慶喜家を興すことが許されました。――徳川宗家は、爵位の中で最も高い公爵でした。徳川宗家の別家として作られた慶喜家も、同じ公爵になったのですね。山岸 ご宗家の家達さまはどのようにお感じになられたかは存じ上げませんが「慶喜は徳川家を滅ぼした人、私は徳川家を再建する人」とおっしゃっていたと聞いています。もしそれが本当であれば、養子に迎えてくれた父親に対しての感想としては、残念に思います。明治天皇は、大政奉還という慶喜の英断によって、平和な世の中が訪れたとお考えだったようで、爵位がなかった時代でも常に慶喜に配慮してくださっていました。――徳川家というのは、現在いくつあるのでしょうか。山岸 公爵だったご宗家と慶喜家が2トップ、尾張、紀伊、水戸の御三家に、田安、一橋、清水の御三卿。そのほか宗家別家、慶喜別家など12家ございまして、それぞれにご当主がいらっしゃいます。 紀州のご当主は、私と同じく女性の徳川宜子(ことこ)さまとおっしゃり、紀州徳川家はお父様の代で墓じまいを済ませておられます。紀州歴代藩主のご墓所は海南市の長保寺にあるそうですが、現在のお墓はお寺にお守りいただいているようです。たった一度、慶喜が孫を一喝――慶喜について、お家に語り継がれているエピソードなどありますか。山岸 「怒りは敵と思え」という家康公の遺訓そのままに、物静かで滅多に怒らない人だったと聞いております。当時の町名から「第六天」(現在は文京区小石川)と呼ばれたお屋敷で暮らしていた晩年の話があります。 かくれんぼをして遊んでいた孫たちの一人が木に登って隠れたところ、お付きの人たちが見つからないと必死に探し回って、大騒ぎになりました。そこへ木から下りてきた孫を、「周りの者に心配かけるでないっ!」と一喝したそうです。慶喜が怒ったのはそのときだけだった、という話を聞いたことがあります。――2020年に出版された『みみずのたわごと』(東京キララ社)という本は、お祖母さまの徳川和子さんが遺された手記と、山岸さんの思い出話で構成されています。やはり、普通の家とは違うしきたりがありましたか。山岸 祖父の姉上君が高松宮様の喜久子妃殿下でしたから、高松宮御殿へお伺いできるのがとても嬉しかったのです。その際、母から、子どもは3つの言葉しか口にしてはいけないと言われました。お目にかかるときとお別れするときの挨拶は「ごきげんよう」。「ありがとう」は上から下へ向かう言葉だから使ってはいけないと言われ、「おそれいります」。「ちょっとすみません」と声をかけるときは「ごめんあそばせ」。御殿では大人の社会に入らせてもらうのだから、「分を知りなさい」と言われていました。――ご先祖が主役の大河ドラマ『どうする家康』は、ご覧になっていますか。山岸 実はテレビはほとんど見ないのです。以前、紀州の徳川宜子さまと電話でお話ししたとき、「家の歴史と一般の人の歴史は、違うものだと考えています」とおっしゃり、「ああ、なるほど」と思いました。歴史上の人物というよりも、私たちにとっては血の通ったご先祖様。テレビドラマ、小説という次元とは違うように思います。 司馬遼太郎さんなどの小説でも大河ドラマでも、大変研究されていますが、結局はフィクションとなってしまいます。史実に基づく部分は沢山あると思いますが、徳川家が捉えている家の歴史とはちょっと違うところもあると思います。そういったテレビや小説と家の歴史という観点に接点をつけられれば、もっと立体的な歴史となるような気がいたします。第5代当主になった経緯は――山岸さんが慶喜家の当主になられた経緯ですが、第4代の慶朝さんが亡くなる際に、姪である山岸さんを指名されたんですね。山岸 「アンクル」と呼んでいた慶朝叔父は、とにかくこだわりの強い人でした。コーヒー好きが高じて、慶喜が欧米の公使にふるまった珈琲を文献から再現しただけでなく、茨城のコーヒー屋さんに頼み込んで焙煎してもらい、「将軍珈琲」という名前をつけて売り出しました。自由人でこだわりの強い趣味人でもありました。カメラマンを仕事にしたのは、写真好きだった慶喜の血を引いたのかもしれません。 私は小さい時からとても可愛がってもらっていて、本当に心優しい人でした。でも叔父には徳川家当主に求められるような貫禄もなかったので、親族から見下されることもありました。確かに、見た目はちょっと頼りない感じでしたし(笑)。ですから慶喜家の当主として、叔父の考えなどはあまり真剣に取り上げてもらえなかったりして、自分が当主なのにと悔しい思いがあったのではないかと思います。 慶朝叔父は2014(平成26)年に、食道と咽頭に原発性のがんが2つもあることがわかりました。茨城県のひたちなか市に独り暮らししていたので、発病以来、私が毎週のように通い、名古屋の自宅と半々くらいの生活を送りながら看病していました。 がんは完治したのですが、虚血性心筋梗塞で、残念ながら2017年9月に「あとは美喜ちゃんよろしくね」という内容の遺書を残し、67歳で苦労の多かった人生の幕を閉じました。「事務仕事だけするべき」という反発も――山岸さんにとって、後継の指名は予想外でしたね。山岸 遺言により人生が変わったと言っても過言ではなく、これほど大変だとは思っていませんでした。叔父の亡き後、他の親族にも配慮しつつ、あまり自分が目立たぬよう葬儀を出し、遺志に従って家じまいと墓じまいを進めていければと考えていました。 ところが親族の間では、私が当主であることが受け入れ難いようなのです。煩雑な法律の手続きを一つ一つ心を込めて進めていますが、私がいかに心を砕いて務めているか、親族や関係者が無関心なことに哀しさも感じています。「事務仕事、後処理だけするべき」というお考えも分からなくはないのですが、徳川慶喜家の最後の責任を負った立場を理解していただけたらと願っています。 それゆえに、対外的にも徳川家の中でも、自分の立場を明確にする必要があると感じました。それまでは周りに配慮し「当主」という言葉を避けてきたのですが、止むを得ず、叔父の死から5年経った今年1月に、5代目当主であると対外的に表明いたしました。家じまい、墓じまいは、当主しかできない仕事だからです。――実際に継いでみたら、ご苦労の連続だったわけですか。山岸 私はそれまで、純粋にクラシック音楽やゴルフが好きな専業主婦でした。そんな折、仲良くしている独身の叔父が病気になり、とても気の毒でしたし、私を頼ってきているのに見捨てる事など到底できず、私なりに心を込めて看病してきました。 別に徳川だからという事ではなく、私がやるべきこととして、努力してきたつもりです。しかしその向こうには深い歴史があることに、後から気づく事になりました。「ウチって、本当に徳川家だったのね!」と。《お墓は300坪》徳川慶喜家・最後の当主が語る「家じまい」の大変さ「お宝も埋蔵金も、ありはしないのに…」 へ続く(石井 謙一郎)
――そもそも、徳川宗家と徳川慶喜家は、どう違うのでしょうか。
山岸 慶喜は1867(慶応3)年に大政を奉還して、謹慎、引退という事になりましたが、将軍という立場を失っても、徳川宗家の当主を誰かに継がせなければいけない。のちに10男11女をもうける慶喜ですが、このころはまだ子がなく、田安徳川家から6歳だった亀之助(のちに家達)さまが第16代宗家の家督を継いだのです。全ての立場を控えた慶喜は、宗家の庇護下に置かれます。宗家は今年1月に、19代目として58歳の家広さまが家督を相続されました。
静岡市(かつての駿府)で隠居していた慶喜は、1902(明治35)年に公爵に叙されました。このとき、明治天皇よりご宗家とは別に、新しく徳川慶喜家を興すことが許されました。
――徳川宗家は、爵位の中で最も高い公爵でした。徳川宗家の別家として作られた慶喜家も、同じ公爵になったのですね。山岸 ご宗家の家達さまはどのようにお感じになられたかは存じ上げませんが「慶喜は徳川家を滅ぼした人、私は徳川家を再建する人」とおっしゃっていたと聞いています。もしそれが本当であれば、養子に迎えてくれた父親に対しての感想としては、残念に思います。明治天皇は、大政奉還という慶喜の英断によって、平和な世の中が訪れたとお考えだったようで、爵位がなかった時代でも常に慶喜に配慮してくださっていました。――徳川家というのは、現在いくつあるのでしょうか。山岸 公爵だったご宗家と慶喜家が2トップ、尾張、紀伊、水戸の御三家に、田安、一橋、清水の御三卿。そのほか宗家別家、慶喜別家など12家ございまして、それぞれにご当主がいらっしゃいます。 紀州のご当主は、私と同じく女性の徳川宜子(ことこ)さまとおっしゃり、紀州徳川家はお父様の代で墓じまいを済ませておられます。紀州歴代藩主のご墓所は海南市の長保寺にあるそうですが、現在のお墓はお寺にお守りいただいているようです。たった一度、慶喜が孫を一喝――慶喜について、お家に語り継がれているエピソードなどありますか。山岸 「怒りは敵と思え」という家康公の遺訓そのままに、物静かで滅多に怒らない人だったと聞いております。当時の町名から「第六天」(現在は文京区小石川)と呼ばれたお屋敷で暮らしていた晩年の話があります。 かくれんぼをして遊んでいた孫たちの一人が木に登って隠れたところ、お付きの人たちが見つからないと必死に探し回って、大騒ぎになりました。そこへ木から下りてきた孫を、「周りの者に心配かけるでないっ!」と一喝したそうです。慶喜が怒ったのはそのときだけだった、という話を聞いたことがあります。――2020年に出版された『みみずのたわごと』(東京キララ社)という本は、お祖母さまの徳川和子さんが遺された手記と、山岸さんの思い出話で構成されています。やはり、普通の家とは違うしきたりがありましたか。山岸 祖父の姉上君が高松宮様の喜久子妃殿下でしたから、高松宮御殿へお伺いできるのがとても嬉しかったのです。その際、母から、子どもは3つの言葉しか口にしてはいけないと言われました。お目にかかるときとお別れするときの挨拶は「ごきげんよう」。「ありがとう」は上から下へ向かう言葉だから使ってはいけないと言われ、「おそれいります」。「ちょっとすみません」と声をかけるときは「ごめんあそばせ」。御殿では大人の社会に入らせてもらうのだから、「分を知りなさい」と言われていました。――ご先祖が主役の大河ドラマ『どうする家康』は、ご覧になっていますか。山岸 実はテレビはほとんど見ないのです。以前、紀州の徳川宜子さまと電話でお話ししたとき、「家の歴史と一般の人の歴史は、違うものだと考えています」とおっしゃり、「ああ、なるほど」と思いました。歴史上の人物というよりも、私たちにとっては血の通ったご先祖様。テレビドラマ、小説という次元とは違うように思います。 司馬遼太郎さんなどの小説でも大河ドラマでも、大変研究されていますが、結局はフィクションとなってしまいます。史実に基づく部分は沢山あると思いますが、徳川家が捉えている家の歴史とはちょっと違うところもあると思います。そういったテレビや小説と家の歴史という観点に接点をつけられれば、もっと立体的な歴史となるような気がいたします。第5代当主になった経緯は――山岸さんが慶喜家の当主になられた経緯ですが、第4代の慶朝さんが亡くなる際に、姪である山岸さんを指名されたんですね。山岸 「アンクル」と呼んでいた慶朝叔父は、とにかくこだわりの強い人でした。コーヒー好きが高じて、慶喜が欧米の公使にふるまった珈琲を文献から再現しただけでなく、茨城のコーヒー屋さんに頼み込んで焙煎してもらい、「将軍珈琲」という名前をつけて売り出しました。自由人でこだわりの強い趣味人でもありました。カメラマンを仕事にしたのは、写真好きだった慶喜の血を引いたのかもしれません。 私は小さい時からとても可愛がってもらっていて、本当に心優しい人でした。でも叔父には徳川家当主に求められるような貫禄もなかったので、親族から見下されることもありました。確かに、見た目はちょっと頼りない感じでしたし(笑)。ですから慶喜家の当主として、叔父の考えなどはあまり真剣に取り上げてもらえなかったりして、自分が当主なのにと悔しい思いがあったのではないかと思います。 慶朝叔父は2014(平成26)年に、食道と咽頭に原発性のがんが2つもあることがわかりました。茨城県のひたちなか市に独り暮らししていたので、発病以来、私が毎週のように通い、名古屋の自宅と半々くらいの生活を送りながら看病していました。 がんは完治したのですが、虚血性心筋梗塞で、残念ながら2017年9月に「あとは美喜ちゃんよろしくね」という内容の遺書を残し、67歳で苦労の多かった人生の幕を閉じました。「事務仕事だけするべき」という反発も――山岸さんにとって、後継の指名は予想外でしたね。山岸 遺言により人生が変わったと言っても過言ではなく、これほど大変だとは思っていませんでした。叔父の亡き後、他の親族にも配慮しつつ、あまり自分が目立たぬよう葬儀を出し、遺志に従って家じまいと墓じまいを進めていければと考えていました。 ところが親族の間では、私が当主であることが受け入れ難いようなのです。煩雑な法律の手続きを一つ一つ心を込めて進めていますが、私がいかに心を砕いて務めているか、親族や関係者が無関心なことに哀しさも感じています。「事務仕事、後処理だけするべき」というお考えも分からなくはないのですが、徳川慶喜家の最後の責任を負った立場を理解していただけたらと願っています。 それゆえに、対外的にも徳川家の中でも、自分の立場を明確にする必要があると感じました。それまでは周りに配慮し「当主」という言葉を避けてきたのですが、止むを得ず、叔父の死から5年経った今年1月に、5代目当主であると対外的に表明いたしました。家じまい、墓じまいは、当主しかできない仕事だからです。――実際に継いでみたら、ご苦労の連続だったわけですか。山岸 私はそれまで、純粋にクラシック音楽やゴルフが好きな専業主婦でした。そんな折、仲良くしている独身の叔父が病気になり、とても気の毒でしたし、私を頼ってきているのに見捨てる事など到底できず、私なりに心を込めて看病してきました。 別に徳川だからという事ではなく、私がやるべきこととして、努力してきたつもりです。しかしその向こうには深い歴史があることに、後から気づく事になりました。「ウチって、本当に徳川家だったのね!」と。《お墓は300坪》徳川慶喜家・最後の当主が語る「家じまい」の大変さ「お宝も埋蔵金も、ありはしないのに…」 へ続く(石井 謙一郎)
――徳川宗家は、爵位の中で最も高い公爵でした。徳川宗家の別家として作られた慶喜家も、同じ公爵になったのですね。
山岸 ご宗家の家達さまはどのようにお感じになられたかは存じ上げませんが「慶喜は徳川家を滅ぼした人、私は徳川家を再建する人」とおっしゃっていたと聞いています。もしそれが本当であれば、養子に迎えてくれた父親に対しての感想としては、残念に思います。明治天皇は、大政奉還という慶喜の英断によって、平和な世の中が訪れたとお考えだったようで、爵位がなかった時代でも常に慶喜に配慮してくださっていました。
――徳川家というのは、現在いくつあるのでしょうか。
山岸 公爵だったご宗家と慶喜家が2トップ、尾張、紀伊、水戸の御三家に、田安、一橋、清水の御三卿。そのほか宗家別家、慶喜別家など12家ございまして、それぞれにご当主がいらっしゃいます。
紀州のご当主は、私と同じく女性の徳川宜子(ことこ)さまとおっしゃり、紀州徳川家はお父様の代で墓じまいを済ませておられます。紀州歴代藩主のご墓所は海南市の長保寺にあるそうですが、現在のお墓はお寺にお守りいただいているようです。
――慶喜について、お家に語り継がれているエピソードなどありますか。
山岸 「怒りは敵と思え」という家康公の遺訓そのままに、物静かで滅多に怒らない人だったと聞いております。当時の町名から「第六天」(現在は文京区小石川)と呼ばれたお屋敷で暮らしていた晩年の話があります。
かくれんぼをして遊んでいた孫たちの一人が木に登って隠れたところ、お付きの人たちが見つからないと必死に探し回って、大騒ぎになりました。そこへ木から下りてきた孫を、「周りの者に心配かけるでないっ!」と一喝したそうです。慶喜が怒ったのはそのときだけだった、という話を聞いたことがあります。
――2020年に出版された『みみずのたわごと』(東京キララ社)という本は、お祖母さまの徳川和子さんが遺された手記と、山岸さんの思い出話で構成されています。やはり、普通の家とは違うしきたりがありましたか。山岸 祖父の姉上君が高松宮様の喜久子妃殿下でしたから、高松宮御殿へお伺いできるのがとても嬉しかったのです。その際、母から、子どもは3つの言葉しか口にしてはいけないと言われました。お目にかかるときとお別れするときの挨拶は「ごきげんよう」。「ありがとう」は上から下へ向かう言葉だから使ってはいけないと言われ、「おそれいります」。「ちょっとすみません」と声をかけるときは「ごめんあそばせ」。御殿では大人の社会に入らせてもらうのだから、「分を知りなさい」と言われていました。――ご先祖が主役の大河ドラマ『どうする家康』は、ご覧になっていますか。山岸 実はテレビはほとんど見ないのです。以前、紀州の徳川宜子さまと電話でお話ししたとき、「家の歴史と一般の人の歴史は、違うものだと考えています」とおっしゃり、「ああ、なるほど」と思いました。歴史上の人物というよりも、私たちにとっては血の通ったご先祖様。テレビドラマ、小説という次元とは違うように思います。 司馬遼太郎さんなどの小説でも大河ドラマでも、大変研究されていますが、結局はフィクションとなってしまいます。史実に基づく部分は沢山あると思いますが、徳川家が捉えている家の歴史とはちょっと違うところもあると思います。そういったテレビや小説と家の歴史という観点に接点をつけられれば、もっと立体的な歴史となるような気がいたします。第5代当主になった経緯は――山岸さんが慶喜家の当主になられた経緯ですが、第4代の慶朝さんが亡くなる際に、姪である山岸さんを指名されたんですね。山岸 「アンクル」と呼んでいた慶朝叔父は、とにかくこだわりの強い人でした。コーヒー好きが高じて、慶喜が欧米の公使にふるまった珈琲を文献から再現しただけでなく、茨城のコーヒー屋さんに頼み込んで焙煎してもらい、「将軍珈琲」という名前をつけて売り出しました。自由人でこだわりの強い趣味人でもありました。カメラマンを仕事にしたのは、写真好きだった慶喜の血を引いたのかもしれません。 私は小さい時からとても可愛がってもらっていて、本当に心優しい人でした。でも叔父には徳川家当主に求められるような貫禄もなかったので、親族から見下されることもありました。確かに、見た目はちょっと頼りない感じでしたし(笑)。ですから慶喜家の当主として、叔父の考えなどはあまり真剣に取り上げてもらえなかったりして、自分が当主なのにと悔しい思いがあったのではないかと思います。 慶朝叔父は2014(平成26)年に、食道と咽頭に原発性のがんが2つもあることがわかりました。茨城県のひたちなか市に独り暮らししていたので、発病以来、私が毎週のように通い、名古屋の自宅と半々くらいの生活を送りながら看病していました。 がんは完治したのですが、虚血性心筋梗塞で、残念ながら2017年9月に「あとは美喜ちゃんよろしくね」という内容の遺書を残し、67歳で苦労の多かった人生の幕を閉じました。「事務仕事だけするべき」という反発も――山岸さんにとって、後継の指名は予想外でしたね。山岸 遺言により人生が変わったと言っても過言ではなく、これほど大変だとは思っていませんでした。叔父の亡き後、他の親族にも配慮しつつ、あまり自分が目立たぬよう葬儀を出し、遺志に従って家じまいと墓じまいを進めていければと考えていました。 ところが親族の間では、私が当主であることが受け入れ難いようなのです。煩雑な法律の手続きを一つ一つ心を込めて進めていますが、私がいかに心を砕いて務めているか、親族や関係者が無関心なことに哀しさも感じています。「事務仕事、後処理だけするべき」というお考えも分からなくはないのですが、徳川慶喜家の最後の責任を負った立場を理解していただけたらと願っています。 それゆえに、対外的にも徳川家の中でも、自分の立場を明確にする必要があると感じました。それまでは周りに配慮し「当主」という言葉を避けてきたのですが、止むを得ず、叔父の死から5年経った今年1月に、5代目当主であると対外的に表明いたしました。家じまい、墓じまいは、当主しかできない仕事だからです。――実際に継いでみたら、ご苦労の連続だったわけですか。山岸 私はそれまで、純粋にクラシック音楽やゴルフが好きな専業主婦でした。そんな折、仲良くしている独身の叔父が病気になり、とても気の毒でしたし、私を頼ってきているのに見捨てる事など到底できず、私なりに心を込めて看病してきました。 別に徳川だからという事ではなく、私がやるべきこととして、努力してきたつもりです。しかしその向こうには深い歴史があることに、後から気づく事になりました。「ウチって、本当に徳川家だったのね!」と。《お墓は300坪》徳川慶喜家・最後の当主が語る「家じまい」の大変さ「お宝も埋蔵金も、ありはしないのに…」 へ続く(石井 謙一郎)
――2020年に出版された『みみずのたわごと』(東京キララ社)という本は、お祖母さまの徳川和子さんが遺された手記と、山岸さんの思い出話で構成されています。やはり、普通の家とは違うしきたりがありましたか。
山岸 祖父の姉上君が高松宮様の喜久子妃殿下でしたから、高松宮御殿へお伺いできるのがとても嬉しかったのです。その際、母から、子どもは3つの言葉しか口にしてはいけないと言われました。お目にかかるときとお別れするときの挨拶は「ごきげんよう」。「ありがとう」は上から下へ向かう言葉だから使ってはいけないと言われ、「おそれいります」。「ちょっとすみません」と声をかけるときは「ごめんあそばせ」。御殿では大人の社会に入らせてもらうのだから、「分を知りなさい」と言われていました。
――ご先祖が主役の大河ドラマ『どうする家康』は、ご覧になっていますか。
山岸 実はテレビはほとんど見ないのです。以前、紀州の徳川宜子さまと電話でお話ししたとき、「家の歴史と一般の人の歴史は、違うものだと考えています」とおっしゃり、「ああ、なるほど」と思いました。歴史上の人物というよりも、私たちにとっては血の通ったご先祖様。テレビドラマ、小説という次元とは違うように思います。
司馬遼太郎さんなどの小説でも大河ドラマでも、大変研究されていますが、結局はフィクションとなってしまいます。史実に基づく部分は沢山あると思いますが、徳川家が捉えている家の歴史とはちょっと違うところもあると思います。そういったテレビや小説と家の歴史という観点に接点をつけられれば、もっと立体的な歴史となるような気がいたします。
第5代当主になった経緯は――山岸さんが慶喜家の当主になられた経緯ですが、第4代の慶朝さんが亡くなる際に、姪である山岸さんを指名されたんですね。山岸 「アンクル」と呼んでいた慶朝叔父は、とにかくこだわりの強い人でした。コーヒー好きが高じて、慶喜が欧米の公使にふるまった珈琲を文献から再現しただけでなく、茨城のコーヒー屋さんに頼み込んで焙煎してもらい、「将軍珈琲」という名前をつけて売り出しました。自由人でこだわりの強い趣味人でもありました。カメラマンを仕事にしたのは、写真好きだった慶喜の血を引いたのかもしれません。 私は小さい時からとても可愛がってもらっていて、本当に心優しい人でした。でも叔父には徳川家当主に求められるような貫禄もなかったので、親族から見下されることもありました。確かに、見た目はちょっと頼りない感じでしたし(笑)。ですから慶喜家の当主として、叔父の考えなどはあまり真剣に取り上げてもらえなかったりして、自分が当主なのにと悔しい思いがあったのではないかと思います。 慶朝叔父は2014(平成26)年に、食道と咽頭に原発性のがんが2つもあることがわかりました。茨城県のひたちなか市に独り暮らししていたので、発病以来、私が毎週のように通い、名古屋の自宅と半々くらいの生活を送りながら看病していました。 がんは完治したのですが、虚血性心筋梗塞で、残念ながら2017年9月に「あとは美喜ちゃんよろしくね」という内容の遺書を残し、67歳で苦労の多かった人生の幕を閉じました。「事務仕事だけするべき」という反発も――山岸さんにとって、後継の指名は予想外でしたね。山岸 遺言により人生が変わったと言っても過言ではなく、これほど大変だとは思っていませんでした。叔父の亡き後、他の親族にも配慮しつつ、あまり自分が目立たぬよう葬儀を出し、遺志に従って家じまいと墓じまいを進めていければと考えていました。 ところが親族の間では、私が当主であることが受け入れ難いようなのです。煩雑な法律の手続きを一つ一つ心を込めて進めていますが、私がいかに心を砕いて務めているか、親族や関係者が無関心なことに哀しさも感じています。「事務仕事、後処理だけするべき」というお考えも分からなくはないのですが、徳川慶喜家の最後の責任を負った立場を理解していただけたらと願っています。 それゆえに、対外的にも徳川家の中でも、自分の立場を明確にする必要があると感じました。それまでは周りに配慮し「当主」という言葉を避けてきたのですが、止むを得ず、叔父の死から5年経った今年1月に、5代目当主であると対外的に表明いたしました。家じまい、墓じまいは、当主しかできない仕事だからです。――実際に継いでみたら、ご苦労の連続だったわけですか。山岸 私はそれまで、純粋にクラシック音楽やゴルフが好きな専業主婦でした。そんな折、仲良くしている独身の叔父が病気になり、とても気の毒でしたし、私を頼ってきているのに見捨てる事など到底できず、私なりに心を込めて看病してきました。 別に徳川だからという事ではなく、私がやるべきこととして、努力してきたつもりです。しかしその向こうには深い歴史があることに、後から気づく事になりました。「ウチって、本当に徳川家だったのね!」と。《お墓は300坪》徳川慶喜家・最後の当主が語る「家じまい」の大変さ「お宝も埋蔵金も、ありはしないのに…」 へ続く(石井 謙一郎)
――山岸さんが慶喜家の当主になられた経緯ですが、第4代の慶朝さんが亡くなる際に、姪である山岸さんを指名されたんですね。
山岸 「アンクル」と呼んでいた慶朝叔父は、とにかくこだわりの強い人でした。コーヒー好きが高じて、慶喜が欧米の公使にふるまった珈琲を文献から再現しただけでなく、茨城のコーヒー屋さんに頼み込んで焙煎してもらい、「将軍珈琲」という名前をつけて売り出しました。自由人でこだわりの強い趣味人でもありました。カメラマンを仕事にしたのは、写真好きだった慶喜の血を引いたのかもしれません。
私は小さい時からとても可愛がってもらっていて、本当に心優しい人でした。でも叔父には徳川家当主に求められるような貫禄もなかったので、親族から見下されることもありました。確かに、見た目はちょっと頼りない感じでしたし(笑)。ですから慶喜家の当主として、叔父の考えなどはあまり真剣に取り上げてもらえなかったりして、自分が当主なのにと悔しい思いがあったのではないかと思います。
慶朝叔父は2014(平成26)年に、食道と咽頭に原発性のがんが2つもあることがわかりました。茨城県のひたちなか市に独り暮らししていたので、発病以来、私が毎週のように通い、名古屋の自宅と半々くらいの生活を送りながら看病していました。
がんは完治したのですが、虚血性心筋梗塞で、残念ながら2017年9月に「あとは美喜ちゃんよろしくね」という内容の遺書を残し、67歳で苦労の多かった人生の幕を閉じました。
――山岸さんにとって、後継の指名は予想外でしたね。
山岸 遺言により人生が変わったと言っても過言ではなく、これほど大変だとは思っていませんでした。叔父の亡き後、他の親族にも配慮しつつ、あまり自分が目立たぬよう葬儀を出し、遺志に従って家じまいと墓じまいを進めていければと考えていました。
ところが親族の間では、私が当主であることが受け入れ難いようなのです。煩雑な法律の手続きを一つ一つ心を込めて進めていますが、私がいかに心を砕いて務めているか、親族や関係者が無関心なことに哀しさも感じています。「事務仕事、後処理だけするべき」というお考えも分からなくはないのですが、徳川慶喜家の最後の責任を負った立場を理解していただけたらと願っています。
それゆえに、対外的にも徳川家の中でも、自分の立場を明確にする必要があると感じました。それまでは周りに配慮し「当主」という言葉を避けてきたのですが、止むを得ず、叔父の死から5年経った今年1月に、5代目当主であると対外的に表明いたしました。家じまい、墓じまいは、当主しかできない仕事だからです。
――実際に継いでみたら、ご苦労の連続だったわけですか。山岸 私はそれまで、純粋にクラシック音楽やゴルフが好きな専業主婦でした。そんな折、仲良くしている独身の叔父が病気になり、とても気の毒でしたし、私を頼ってきているのに見捨てる事など到底できず、私なりに心を込めて看病してきました。 別に徳川だからという事ではなく、私がやるべきこととして、努力してきたつもりです。しかしその向こうには深い歴史があることに、後から気づく事になりました。「ウチって、本当に徳川家だったのね!」と。《お墓は300坪》徳川慶喜家・最後の当主が語る「家じまい」の大変さ「お宝も埋蔵金も、ありはしないのに…」 へ続く(石井 謙一郎)
――実際に継いでみたら、ご苦労の連続だったわけですか。
山岸 私はそれまで、純粋にクラシック音楽やゴルフが好きな専業主婦でした。そんな折、仲良くしている独身の叔父が病気になり、とても気の毒でしたし、私を頼ってきているのに見捨てる事など到底できず、私なりに心を込めて看病してきました。
別に徳川だからという事ではなく、私がやるべきこととして、努力してきたつもりです。しかしその向こうには深い歴史があることに、後から気づく事になりました。「ウチって、本当に徳川家だったのね!」と。
《お墓は300坪》徳川慶喜家・最後の当主が語る「家じまい」の大変さ「お宝も埋蔵金も、ありはしないのに…」 へ続く
(石井 謙一郎)