【武藤 直子】立ち会った看護師と夫は号泣…余命数時間で命がけ…82歳妻の「人生最後のお風呂」で起こった奇跡

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日本人は世界に類を見ないほどの“お風呂好き”の民族だと言われている。ところが人生の終盤ともなるとそうはいかなくなる。病気も進行し、当たり前だったお風呂にも、入る体力も無くなり、多くの人たちは死んでいく。死ぬ前にもう一度、お風呂に入りたい――。
そんな患者の願いに、全力で寄り添ってきた看護師がいる。茨城県つくば市で、訪問入浴・湯灌サービスを提供している『ウィズ』の代表看護師、武藤直子さんだ。彼女はこれまで1万人以上の『人生最期のお風呂』に立ち会ってきた。
自動昇降できる椅子のついた風呂
武藤さんは他の事業者が受け入れを拒否する入浴が難しい患者も受け入れているのだという。これまでも末期の間質性肺炎患者や、末期のがん患者、あるいは重度のALS(筋萎縮性側索硬化症)患者など、他の事業者が様々な事情で尻込みしてしまう患者も積極的に受け入れてきた。
その中でも“忘れられない患者”が、82歳の清子さん(仮名)だ。
私がまだ40代で、訪問入浴をパートでやっていた頃の話です。清子さんは77歳の時に脳梗塞を患い、訪問入浴が必要になりました。清子さんを看ていたのは85歳の三郎さん(仮名)。清子さんのために8年間、献身的な介護を続ける、明治生まれの方でした。私はこの夫婦の家に週1回、5年ほど通って入浴のお世話を続けていました。
あの日の事は、今でも鮮明に覚えています。午後1時。いつものように訪問入浴に訪れると、清子さんに死の兆候がみられました。呼吸の仕方がおかしく、血圧も下がっており、脈も測れない状態でした。「お風呂に入れずに、ばあさんを見送れない」余命は数時間あるかないか…。それで、「三郎さん、清子さんはとても危険な状態です。私も今から、先生に連絡します。三郎さんも、もし会わせたい人がいるなら今すぐ連絡を入れてください」Photo by gettyimagesと伝えて帰ろうとしたんですね。すると三郎さんは私の腕をぐっと握って引き止めて「風呂に入れてくれ」というんです。「この状態でお風呂は無理ですよ」といっても、私の腕を掴んで離そうとせず、さらに訴えってくるんです。「それでもお風呂に入れて欲しい。ワシはずっとばあさんのために、介護をしてきた。これまで自分でやれることはすべてやってきたんだ」三郎さんがたったひとりで、介護してきた姿はずっと見てきました。食事についても、清子さんが自力でスプーンを持てなくなってからも、ペースト状につくった手作り料理を苦労しながら食べさせていました。脳梗塞が多発的に再発して清子さんの状態がどんどん悪くなっていき、会話のやり取りができなくなっていった中でも、三郎さんは清子さんと一緒に彼女の好きなテレビ番組をみながら、会話をする姿をみています。 脳梗塞後の介護は年単位で続く事も珍しくありません。三郎さんも8年間、清子さんのためだけに懸命に走り続けていました。だから「本当に頑張ってこられましたよね」と労いの言葉を掛けたのですが、それでも三郎さんは言うのです。「もしひとつ後悔が残るとしたら、今ここでお風呂に入れずにばあさんを見送る事だ。ばあさんが風呂で死んでしまってもいい。それでもワシとばあさんのために、お風呂に入れてくれないか」って。親戚たちも集まり、みんなで見守った入浴そういわれて私は、三郎さんの主治医に清子さんの状況を伝える際に、お風呂の話をしたのです。主治医に無理だと言われれば三郎さんも諦めがつくと思ったんですね。Photo by gettyimagesでも先生は私にこう言いました。「わかった。後の面倒事はすべて俺が引き受けるからやってあげなさい」。それで私が断る理由は無くなってしまいました。清子さんのお気に入りのパジャマも、床ずれの場所も、何をしたら清子さんが悦んでくれるかも全部わかっている。覚悟を決めた武藤さんはパジャマも傷の処置の道具も全部用意して、「じゃぁいれるよ」とスタッフに指示を出した。もちろん、お風呂で清子さんを死なすわけにはいかない。武藤さんは、これまで培った経験を元に、即興で安楽に入浴させるための手順を組み立て、温度を調整してから、清子さんを無駄に動かさず、お風呂に浅めに入れて対応したといいます。 お風呂に入れていると、三郎さんからの連絡で親戚たちが集まり始めました。「この状況でお風呂にいれるんだ」と言い出す人はひとりもいないのには驚きました。そのかわり「最後に風呂に入れて貰って、清子さんも幸せだね」と言いながら、私が入浴させている側で、清子さんとの色々な思い出話をしながら、泣いたり笑ったりしはじめたのです。途中、呼吸が荒くなり、危険な状態にもなったのですが、みんなで名前を呼んで呼び戻し、清子さんのお風呂を見守っていました。「良かったなあ、良かったなあ」で感極まるそうやって何とかお風呂を済ませ、ベッドに戻し、傷の処置をして、お気に入りのパジャマを着せて、きれいに整髪したところ、清子さんの顔がピンク色にもなって、とても穏やかな顔色になりました。Photo by gettyimages老衰が進むと、心臓が動いているうちは、心臓から血液を送り出せるのですが、末梢から心臓に送り返す力がとても弱まります。しかし湯舟に入って頂くと、ふくらはぎなどに、3~5センチほどの静水圧がかかり、血管が押され、末梢から心臓に血液を戻す力が働きやすくなり、自律神経の副交感神経が優位に働き、血色が戻ってくるんです。三郎さんは「よかったなぁ。ばあさん。綺麗だよ。本当に良かったなぁ…」と清子さんの手を両手で握り、頬を寄せて「良かったなぁ、良かったなぁ」と人目をはばからずに泣き出しました。その一時間後、清子さんは穏やかに旅立ったという。三郎さんは武藤さんに「お風呂に入れてくれてありがとう。こんなに幸せな事はない」と悦び、感極まった武藤さんは、「これを一生の私の仕事にしようと」決めて、三郎さんとハグして別れたそうだ。私は看護師になってからずっと大学病院で働いていたので、患者がチューブだらけの状態で亡くなった後、医師が死亡診断書を書いている場面は何度もみてきました。むしろそれが普通の事だったと思っていたくらいだったのですが、清子さんの死を通して、こういう看取り方があるのかと初めて知りました。 30年前のその時経験した事が今の私の原点になっています。後編『部屋には「自分の賞味期限が残り3日」という紙が…48歳末期がん男性が「人生最期のお風呂」で見せた「驚きの表情」』に続く。
あの日の事は、今でも鮮明に覚えています。午後1時。いつものように訪問入浴に訪れると、清子さんに死の兆候がみられました。呼吸の仕方がおかしく、血圧も下がっており、脈も測れない状態でした。
余命は数時間あるかないか…。それで、
「三郎さん、清子さんはとても危険な状態です。私も今から、先生に連絡します。三郎さんも、もし会わせたい人がいるなら今すぐ連絡を入れてください」
Photo by gettyimages
と伝えて帰ろうとしたんですね。すると三郎さんは私の腕をぐっと握って引き止めて「風呂に入れてくれ」というんです。「この状態でお風呂は無理ですよ」といっても、私の腕を掴んで離そうとせず、さらに訴えってくるんです。
「それでもお風呂に入れて欲しい。ワシはずっとばあさんのために、介護をしてきた。これまで自分でやれることはすべてやってきたんだ」
三郎さんがたったひとりで、介護してきた姿はずっと見てきました。食事についても、清子さんが自力でスプーンを持てなくなってからも、ペースト状につくった手作り料理を苦労しながら食べさせていました。脳梗塞が多発的に再発して清子さんの状態がどんどん悪くなっていき、会話のやり取りができなくなっていった中でも、三郎さんは清子さんと一緒に彼女の好きなテレビ番組をみながら、会話をする姿をみています。
脳梗塞後の介護は年単位で続く事も珍しくありません。三郎さんも8年間、清子さんのためだけに懸命に走り続けていました。だから「本当に頑張ってこられましたよね」と労いの言葉を掛けたのですが、それでも三郎さんは言うのです。「もしひとつ後悔が残るとしたら、今ここでお風呂に入れずにばあさんを見送る事だ。ばあさんが風呂で死んでしまってもいい。それでもワシとばあさんのために、お風呂に入れてくれないか」って。親戚たちも集まり、みんなで見守った入浴そういわれて私は、三郎さんの主治医に清子さんの状況を伝える際に、お風呂の話をしたのです。主治医に無理だと言われれば三郎さんも諦めがつくと思ったんですね。Photo by gettyimagesでも先生は私にこう言いました。「わかった。後の面倒事はすべて俺が引き受けるからやってあげなさい」。それで私が断る理由は無くなってしまいました。清子さんのお気に入りのパジャマも、床ずれの場所も、何をしたら清子さんが悦んでくれるかも全部わかっている。覚悟を決めた武藤さんはパジャマも傷の処置の道具も全部用意して、「じゃぁいれるよ」とスタッフに指示を出した。もちろん、お風呂で清子さんを死なすわけにはいかない。武藤さんは、これまで培った経験を元に、即興で安楽に入浴させるための手順を組み立て、温度を調整してから、清子さんを無駄に動かさず、お風呂に浅めに入れて対応したといいます。 お風呂に入れていると、三郎さんからの連絡で親戚たちが集まり始めました。「この状況でお風呂にいれるんだ」と言い出す人はひとりもいないのには驚きました。そのかわり「最後に風呂に入れて貰って、清子さんも幸せだね」と言いながら、私が入浴させている側で、清子さんとの色々な思い出話をしながら、泣いたり笑ったりしはじめたのです。途中、呼吸が荒くなり、危険な状態にもなったのですが、みんなで名前を呼んで呼び戻し、清子さんのお風呂を見守っていました。「良かったなあ、良かったなあ」で感極まるそうやって何とかお風呂を済ませ、ベッドに戻し、傷の処置をして、お気に入りのパジャマを着せて、きれいに整髪したところ、清子さんの顔がピンク色にもなって、とても穏やかな顔色になりました。Photo by gettyimages老衰が進むと、心臓が動いているうちは、心臓から血液を送り出せるのですが、末梢から心臓に送り返す力がとても弱まります。しかし湯舟に入って頂くと、ふくらはぎなどに、3~5センチほどの静水圧がかかり、血管が押され、末梢から心臓に血液を戻す力が働きやすくなり、自律神経の副交感神経が優位に働き、血色が戻ってくるんです。三郎さんは「よかったなぁ。ばあさん。綺麗だよ。本当に良かったなぁ…」と清子さんの手を両手で握り、頬を寄せて「良かったなぁ、良かったなぁ」と人目をはばからずに泣き出しました。その一時間後、清子さんは穏やかに旅立ったという。三郎さんは武藤さんに「お風呂に入れてくれてありがとう。こんなに幸せな事はない」と悦び、感極まった武藤さんは、「これを一生の私の仕事にしようと」決めて、三郎さんとハグして別れたそうだ。私は看護師になってからずっと大学病院で働いていたので、患者がチューブだらけの状態で亡くなった後、医師が死亡診断書を書いている場面は何度もみてきました。むしろそれが普通の事だったと思っていたくらいだったのですが、清子さんの死を通して、こういう看取り方があるのかと初めて知りました。 30年前のその時経験した事が今の私の原点になっています。後編『部屋には「自分の賞味期限が残り3日」という紙が…48歳末期がん男性が「人生最期のお風呂」で見せた「驚きの表情」』に続く。
脳梗塞後の介護は年単位で続く事も珍しくありません。三郎さんも8年間、清子さんのためだけに懸命に走り続けていました。だから「本当に頑張ってこられましたよね」と労いの言葉を掛けたのですが、それでも三郎さんは言うのです。
「もしひとつ後悔が残るとしたら、今ここでお風呂に入れずにばあさんを見送る事だ。ばあさんが風呂で死んでしまってもいい。それでもワシとばあさんのために、お風呂に入れてくれないか」って。
そういわれて私は、三郎さんの主治医に清子さんの状況を伝える際に、お風呂の話をしたのです。主治医に無理だと言われれば三郎さんも諦めがつくと思ったんですね。
Photo by gettyimages
でも先生は私にこう言いました。「わかった。後の面倒事はすべて俺が引き受けるからやってあげなさい」。それで私が断る理由は無くなってしまいました。
清子さんのお気に入りのパジャマも、床ずれの場所も、何をしたら清子さんが悦んでくれるかも全部わかっている。覚悟を決めた武藤さんはパジャマも傷の処置の道具も全部用意して、「じゃぁいれるよ」とスタッフに指示を出した。
もちろん、お風呂で清子さんを死なすわけにはいかない。武藤さんは、これまで培った経験を元に、即興で安楽に入浴させるための手順を組み立て、温度を調整してから、清子さんを無駄に動かさず、お風呂に浅めに入れて対応したといいます。
お風呂に入れていると、三郎さんからの連絡で親戚たちが集まり始めました。「この状況でお風呂にいれるんだ」と言い出す人はひとりもいないのには驚きました。そのかわり「最後に風呂に入れて貰って、清子さんも幸せだね」と言いながら、私が入浴させている側で、清子さんとの色々な思い出話をしながら、泣いたり笑ったりしはじめたのです。途中、呼吸が荒くなり、危険な状態にもなったのですが、みんなで名前を呼んで呼び戻し、清子さんのお風呂を見守っていました。「良かったなあ、良かったなあ」で感極まるそうやって何とかお風呂を済ませ、ベッドに戻し、傷の処置をして、お気に入りのパジャマを着せて、きれいに整髪したところ、清子さんの顔がピンク色にもなって、とても穏やかな顔色になりました。Photo by gettyimages老衰が進むと、心臓が動いているうちは、心臓から血液を送り出せるのですが、末梢から心臓に送り返す力がとても弱まります。しかし湯舟に入って頂くと、ふくらはぎなどに、3~5センチほどの静水圧がかかり、血管が押され、末梢から心臓に血液を戻す力が働きやすくなり、自律神経の副交感神経が優位に働き、血色が戻ってくるんです。三郎さんは「よかったなぁ。ばあさん。綺麗だよ。本当に良かったなぁ…」と清子さんの手を両手で握り、頬を寄せて「良かったなぁ、良かったなぁ」と人目をはばからずに泣き出しました。その一時間後、清子さんは穏やかに旅立ったという。三郎さんは武藤さんに「お風呂に入れてくれてありがとう。こんなに幸せな事はない」と悦び、感極まった武藤さんは、「これを一生の私の仕事にしようと」決めて、三郎さんとハグして別れたそうだ。私は看護師になってからずっと大学病院で働いていたので、患者がチューブだらけの状態で亡くなった後、医師が死亡診断書を書いている場面は何度もみてきました。むしろそれが普通の事だったと思っていたくらいだったのですが、清子さんの死を通して、こういう看取り方があるのかと初めて知りました。 30年前のその時経験した事が今の私の原点になっています。後編『部屋には「自分の賞味期限が残り3日」という紙が…48歳末期がん男性が「人生最期のお風呂」で見せた「驚きの表情」』に続く。
お風呂に入れていると、三郎さんからの連絡で親戚たちが集まり始めました。「この状況でお風呂にいれるんだ」と言い出す人はひとりもいないのには驚きました。そのかわり「最後に風呂に入れて貰って、清子さんも幸せだね」と言いながら、私が入浴させている側で、清子さんとの色々な思い出話をしながら、泣いたり笑ったりしはじめたのです。
途中、呼吸が荒くなり、危険な状態にもなったのですが、みんなで名前を呼んで呼び戻し、清子さんのお風呂を見守っていました。
そうやって何とかお風呂を済ませ、ベッドに戻し、傷の処置をして、お気に入りのパジャマを着せて、きれいに整髪したところ、清子さんの顔がピンク色にもなって、とても穏やかな顔色になりました。
Photo by gettyimages
老衰が進むと、心臓が動いているうちは、心臓から血液を送り出せるのですが、末梢から心臓に送り返す力がとても弱まります。しかし湯舟に入って頂くと、ふくらはぎなどに、3~5センチほどの静水圧がかかり、血管が押され、末梢から心臓に血液を戻す力が働きやすくなり、自律神経の副交感神経が優位に働き、血色が戻ってくるんです。
三郎さんは「よかったなぁ。ばあさん。綺麗だよ。本当に良かったなぁ…」と清子さんの手を両手で握り、頬を寄せて「良かったなぁ、良かったなぁ」と人目をはばからずに泣き出しました。
その一時間後、清子さんは穏やかに旅立ったという。三郎さんは武藤さんに「お風呂に入れてくれてありがとう。こんなに幸せな事はない」と悦び、感極まった武藤さんは、「これを一生の私の仕事にしようと」決めて、三郎さんとハグして別れたそうだ。
私は看護師になってからずっと大学病院で働いていたので、患者がチューブだらけの状態で亡くなった後、医師が死亡診断書を書いている場面は何度もみてきました。むしろそれが普通の事だったと思っていたくらいだったのですが、清子さんの死を通して、こういう看取り方があるのかと初めて知りました。
30年前のその時経験した事が今の私の原点になっています。後編『部屋には「自分の賞味期限が残り3日」という紙が…48歳末期がん男性が「人生最期のお風呂」で見せた「驚きの表情」』に続く。
30年前のその時経験した事が今の私の原点になっています。
後編『部屋には「自分の賞味期限が残り3日」という紙が…48歳末期がん男性が「人生最期のお風呂」で見せた「驚きの表情」』に続く。

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