「毎日胃薬を飲んで泣いた」高い家賃と人件費、何カ月もこない客…酒を呑めない“銀座のママ”が夜の街で経験した“苦難”

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「殴られた痕をファンデーションで隠した」母親の虐待、繰り返す離婚…水商売嫌いだった“銀座のママ”が上京前に抱えていた“闇” から続く
コロナ禍の発生という未曾有の状況のなか、スナックを始めとする夜の街はきわめて大きな影響をこうむってきた。そんな状況下で、現場の人々はどのような風評被害や経営の苦労に直面していたのか。
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ここでは、スナック愛好家として知られる法哲学者の谷口功一氏が、日本各地のスナック、ラウンジ、クラブ、バーなどを1年にわたってめぐり歩き、そこで繰り広げられる人々の営みを描き出したノンフィクション『日本の水商売 法哲学者、夜の街を歩く』(PHP研究所)より一部を抜粋。
銀座にある会員制BAR「おかえりなさい さつま二」の店主・植村亜紀子さんのエピソードを紹介する。植村さんは地元・鹿児島の天文館で「酒彩おかえりなさい」という食事処を開始。店はすぐに評判になって繁盛していくが――。(全2回の2回目/1回目から続く)
写真はイメージです iStock.com
◆◆◆
常連客たちから接待の場所が欲しいのでスナックをつくってくれと言われ、あれよあれよという間にカウンターバーの2号店「おかえりなさいANATA」を開店し、1999年には100坪の「倶楽部おかえりなさい」を構えるまでに至ったのだった。
植村さんの著書の中にはヤクザがらみの肝が冷える話も出てくるが、苛烈な母に精神を鍛えられすぎたためか「母よりも怖い人はいない」と思うようになってしまって、苦境を乗り切ってきたのかもしれないという。
植村さんは「武士のように育てられてきたから」とも話していたが、これこそが私の彼女に対するイメージを正確に表した言葉である。そう、彼女は「夜の武士」なのだ。この話をすると、植村さんは「本当は涙もろくて情に弱い部分もあるんですよ」と笑って話すのだった。
自分自身は酒を一滴も呑めないが、天文館随一ともいえる大箱を経営し、いつしか鹿児島県の社交業組合の理事長を務めるまでになった。しかし、理事長の仕事でしばしば東京へと来るようになって、植村さんのなかで東京、なかんずく銀座でこそ一旗あげたいという気持ちが再び急速に膨らむこととなった。この気持ちはじつのところ、最初の店(「酒彩おかえりなさい」)を始めたときから口にしていたことでもあったのだが。
思いついたら即行動、それが植村さんである。あるとき、上京し、不動産屋に頼んで20軒ほどの物件を見て回ったが、どうにも気に入る店舗がない。せっかく銀座で店をやるなら1階の路面店が良かったのだ。
しかし、そんな物件、簡単に見つかるはずもない。一緒に物件巡りをしていた不動産屋の若者に食い下がり、奇跡的に現在の店舗を見つけた。家主宛に自分の思いの丈をしたためた手紙などを不動産屋の若者に託してみたりして、最終的には、理想の店舗を見事に射止めたのだった。入居が決まったときには「裏にどんな(政治家などの)バックがいるんですか?」とさえ聞かれたという。そんなものはなく、本当にたった1人の徒手空拳での船出だったのだが。
「銀座フィルター」を突破する底力 しかし、そうやって始めた銀座の店も当初は苦難の連続だった。客が来ないのである。娘さんが寝静まった自宅で高い家賃と人件費に悩み、毎日胃薬を飲んで泣いた。銀座の店で初めて迎えた彼女の誕生日は、鹿児島天文館でなら200本以上の蘭の鉢植えなどが届く盛大なものだったが、知り合いのピアニストの女性がカウンターに1人だけ座り、ピアノでハッピーバースデーを演奏してくれる寂しいものだった。 その日、娘の樹麗さんがピエロの変装をし、ヘリウムガスで声をかえてサプライズで訪れたことは、忘れがたい思い出として残っているという。 何カ月も客のいない苦しい状況は、あるときを境に変化していった。地元の名門校ラサールの卒業生たちが鹿児島だけでなく東京、そして全国から訪れてくれるようになったのである。私が最初に店を訪れたのも、この頃だった。 念願の銀座に店を構え、ようやく順調な日々を送り始めたように見えたが、そこに訪れたのがコロナ禍だったのである。銀座の他の店の例に漏れず、社会的地位のある(したがって高齢でもある)お客が多かった店は再び苦境に陥ることになった。『龍神様』が繋いでくれた縁 コロナ禍のなかでは、同情した3人のお客さんから「銀行口座にお金を振り込みたい」あるいは「1000万円でも」という話さえあったが、植村さんは、それに甘えるわけにはゆかないと、すべての申し出を固辞した。 そんななか、再び転機がやってくることになる。ある雨の日、すぐそばの寿司屋で働いていた年下の男性が、植村さんに傘をさしかけてくれた。とても自然な親切をきっかけに彼女は、その男性の仕事上の悩みの相談などに親身になって乗ることになったのだった。その後、彼は近所で会員制の高級寿司店の社長となり、そこから若く勢いのある事業家などが「おかえりなさい」にやって来るようになった。 銀座の多くの店が課題として抱えるであろう世代交代と客層の広がりが、コロナ禍の下、劇的なかたちで成し遂げられたのだった。 いまでは店に来る多くの人が、亜紀子ママの店に訪れると運気が上がる、運勢を見てもらおうとやって来る。「雨の日に傘をさしてくれた彼は〈龍神様〉だったんですね」と植村さんは話すのだった。峻烈な母に多くを負った人生 岡本哲志の『銀座四百年 都市空間の歴史』(講談社選書メチエ、2006年)という本の中に銀座の人たちがよく口にするある言葉についての印象深いくだりがある。「銀座フィルター」は銀座で商いを望む人たちを拒まないが、街に同化できなければ自ずと去っていく、篩(ふるい)のようなものであるというのである。大企業でも、小さな店でも、街を育てる企業努力なくして、銀座での商いは長続きしないという意味である。最も経済性が問われる銀座でありながら、経済一辺倒の論理だけでは成立し得ない、街と共に生きる銀座の店のあり方がこの言葉には示されている。 いまでは植村さんの夢を受け継いで演劇で活躍している娘の樹麗さんや、その演劇友だちも植村さんを慕って店で働いている。峻烈な母に多くを負った人生だったが、いま植村さんはコロナ禍の苦境を乗り切り、この生き馬の目を抜く夜の街で見事に「銀座フィルター」を突破したように私には思われるのである。彼女は自らの人生を己の力で切り拓き、今日も銀座で店を開けている。(谷口 功一/Webオリジナル(外部転載))
しかし、そうやって始めた銀座の店も当初は苦難の連続だった。客が来ないのである。娘さんが寝静まった自宅で高い家賃と人件費に悩み、毎日胃薬を飲んで泣いた。銀座の店で初めて迎えた彼女の誕生日は、鹿児島天文館でなら200本以上の蘭の鉢植えなどが届く盛大なものだったが、知り合いのピアニストの女性がカウンターに1人だけ座り、ピアノでハッピーバースデーを演奏してくれる寂しいものだった。
その日、娘の樹麗さんがピエロの変装をし、ヘリウムガスで声をかえてサプライズで訪れたことは、忘れがたい思い出として残っているという。
何カ月も客のいない苦しい状況は、あるときを境に変化していった。地元の名門校ラサールの卒業生たちが鹿児島だけでなく東京、そして全国から訪れてくれるようになったのである。私が最初に店を訪れたのも、この頃だった。
念願の銀座に店を構え、ようやく順調な日々を送り始めたように見えたが、そこに訪れたのがコロナ禍だったのである。銀座の他の店の例に漏れず、社会的地位のある(したがって高齢でもある)お客が多かった店は再び苦境に陥ることになった。
コロナ禍のなかでは、同情した3人のお客さんから「銀行口座にお金を振り込みたい」あるいは「1000万円でも」という話さえあったが、植村さんは、それに甘えるわけにはゆかないと、すべての申し出を固辞した。
そんななか、再び転機がやってくることになる。ある雨の日、すぐそばの寿司屋で働いていた年下の男性が、植村さんに傘をさしかけてくれた。とても自然な親切をきっかけに彼女は、その男性の仕事上の悩みの相談などに親身になって乗ることになったのだった。その後、彼は近所で会員制の高級寿司店の社長となり、そこから若く勢いのある事業家などが「おかえりなさい」にやって来るようになった。
銀座の多くの店が課題として抱えるであろう世代交代と客層の広がりが、コロナ禍の下、劇的なかたちで成し遂げられたのだった。
いまでは店に来る多くの人が、亜紀子ママの店に訪れると運気が上がる、運勢を見てもらおうとやって来る。「雨の日に傘をさしてくれた彼は〈龍神様〉だったんですね」と植村さんは話すのだった。
岡本哲志の『銀座四百年 都市空間の歴史』(講談社選書メチエ、2006年)という本の中に銀座の人たちがよく口にするある言葉についての印象深いくだりがある。
「銀座フィルター」は銀座で商いを望む人たちを拒まないが、街に同化できなければ自ずと去っていく、篩(ふるい)のようなものであるというのである。大企業でも、小さな店でも、街を育てる企業努力なくして、銀座での商いは長続きしないという意味である。最も経済性が問われる銀座でありながら、経済一辺倒の論理だけでは成立し得ない、街と共に生きる銀座の店のあり方がこの言葉には示されている。
いまでは植村さんの夢を受け継いで演劇で活躍している娘の樹麗さんや、その演劇友だちも植村さんを慕って店で働いている。峻烈な母に多くを負った人生だったが、いま植村さんはコロナ禍の苦境を乗り切り、この生き馬の目を抜く夜の街で見事に「銀座フィルター」を突破したように私には思われるのである。彼女は自らの人生を己の力で切り拓き、今日も銀座で店を開けている。
(谷口 功一/Webオリジナル(外部転載))

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