自民党のドン・田中角栄に「2度と酒を飲みたくない」と言わせたことも…「元総理・宮沢喜一の酒癖」があまりにも悪すぎたワケ

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酔っ払ったときは、いつもぐでんぐでん。秘書官に抱えられて帰っていくことも……。日本の元内閣総理大臣・宮沢喜一氏の「酒癖」はなぜ悪かったのか? かつての自民党のドン・田中角栄をも驚かせた、その様子をライターの栗下直也氏の新刊『政治家の酒癖』より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
《写真》美しすぎる宮沢喜一の孫
あまりにひどかった「宮沢喜一の酒癖」とは? getty
◆◆◆
近年の日本の政治家で酒好きといえば宮澤喜一だろう。近年と書いてみたが、そういえばいつ亡くなったのかなと思い調べてみたら、2007年に亡くなっている。全くもって近年でない。首相在任期間は1991年から1993年だ。アラサー世代の人はもはや知らない政治家なのかもしれない。宮澤から岸田文雄首相までに14人もの首相が存在するのだから。
ちなみに2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に実衣(北条時政の娘、政子の妹)役で出演していた俳優の宮澤エマは喜一の孫だ。いや、喜一をエマの祖父と書くべき時代になったのかもしれない。
宮澤は官僚出身のバリバリのエリートだった。東京帝国大学法学部を首席で卒業し、大蔵省(現・財務省)に入る。これだけでも凄いが、高等文官任用試験(今の国家公務員総合職試験)で、行政科と外交科の両方に合格している。エリートが門を叩く大蔵省でも、「大秀才」と呼ばれた。秘書官として仕えた池田勇人の勧めもあり、1953年に政界入りする。 宮澤は頭は回るが、口も回った。むしろ、回りすぎた。毒舌の部類だ。自分が東大法学部卒のエリートだったからか、極端な学歴偏重主義で知られた。東京農業大学出身の金丸信に面と向かって「金丸先生は農大を出ていらっしゃる。そいつはお出来になりますなあ」と皮肉った。酒を飲んだ席で金丸の活躍が話題になると「ああいう人は水の底に沈んでいただいた方がいいかもしれませんな。山梨(著者注・金丸の選出区)には釡無川という深い川があるというじゃないですか」と場を静まらせてしまう発言も珍しくなかった。 早大出身の竹下登には、竹下が入学当時の早稲田が無試験であったことを揶揄した。竹下は後藤田正晴に「ボクは宮澤さんに『竹下さん、貴方の時代は早稲田の商学部は無試験だったんですってね』といわれた。あれだけは許せない」と恨みを吐き出している。「それ言う必要ないだろ」ということを言ってしまう人 政治学者の御厨貴氏は「政治判断は正しいものが多かった気がします」としながらも、「頭が良すぎて他者を見下したような態度を取るため、慕う人があまりにも少なかった」と人望の低さを指摘している。「それ言う必要ないだろ」ということをいってしまうのが宮澤なのだ。厄介なのは本人に悪気はないことだ。 例えば、子どもの教育は自由放任で成績にもうるさくなかった。満点のテスト用紙を見せても「僕は100点以外の点は見たことがないな」と呟くだけで、悪い点をとっても「ふーん」と言うだけ。質問すると丁寧に答えてくれるが、くだらない質問をすると無視される。子どもにしてみれば、つかみどころがない。 教養も持ち合わせていたから、学歴主義者、権威主義者とは切り捨てられない。学者で劇作家でもあった山崎正和は、宮澤と私的な会合で席をよくともにしたが、「教養人とはこういうものかとも思いましたね」と感嘆している。 田中角栄に「英語屋」と馬鹿にされるほど語学に堪能だったが、単に語学に長けていただけではない。欧米の幅広い雑誌に目を通していたこともあり、会話に幅もあった。 欧米カブレなわけでもない。多くの人にとっては何が書いてあるかわからないような墨跡もすらすらと読み下し、その様は山崎からみても、まるで曲芸のようだったという。「どうしてああいう人が政界に入ったのか不思議なくらい」と奇妙な気持ちになったとか。そして、山崎を驚かせたのが教養人ぶりにも増して、酔態だ。 山崎と宮澤が顔を合わせていた会合は京都の大徳寺で開かれていたが、宮澤はその場がよほど好きだったらしい。首相になってからも激務の合間を縫って、わざわざ京都に出向き参加していた。もちろん、一国の首相だけにふらっと遊びに行けるわけもない。SPのみならず、京都府警が総力を挙げて護衛するので、閑静な大徳寺周辺が警護でいっぱいになり、異様な光景が広がった。 異様な光景は寺の中にも広がっていた。宮澤は毎回、ぐでんぐでんに酔っ払って、秘書官に抱えられて帰っていくものだから手に負えない。 宮澤は造り酒屋の息子ということもあってか、酒には弱くなかった。酒をある程度飲まないと酔わないが、酔うまでは相手に絡み続ける。ある時点を境に目が据わり、相手が誰彼かまわず演説が始まる。結局、酔っても酔わなくてもどっちにしろ絡み続けているのだ。 酒豪で酒乱という最も性質の悪い酒飲みともいえる。ジャーナリストの立花隆も「酒乱の域に達しないうちは、人にイヤなからみ方をする時間がえんえんとつづく」とかつて記していた。自民党のドンで懐の深さで知られた田中角栄に「2度と酒を飲みたくない」とまで言わしめているからよほどだったのだろう。 読売グループのボスである渡邊恒雄氏も回顧録で振り返っている。中曽根康弘内閣の時に盟友である中曽根の依頼で、渡邊氏は某料亭の女将の部屋を借りて、宮澤に会う。宮澤に大蔵大臣を引き受けてもらうためだ。シラフの宮澤は真面目な顔で大蔵大臣を引き受ける代わりに、宮澤の派閥「宏池会」に政調会長のポストを用意しろと要求してきた。 渡邊氏は中曽根の遣いできたのでその場では判断ができない。「今晩中に連絡しますから」と引き揚げ、中曽根の了解を取りつけたうえで、架電する。すると、宮澤はすでに泥酔状態で「いやあ、こりゃこりゃ、ナベちゃん、ナベちゃん」と先ほどと様相は一変していて、全く話にならなかったという。「酔ったら電話に出るな」は一般人も政治家も同じだ。実際、宮澤は原則、夜は電話に出なかった時期もあった。「ひどいときは酒乱に近い状態」 宮澤自身、酒癖の悪さは自覚していたのだろう。朝日新聞の政治記者だった石川真澄は「私は会う前から宮澤氏に好感を抱いていた」と書いている。 新聞記者には昼間に正面から聞きにくい話などを、関係者の自宅に足を運んで直接話を聞く「夜回り」という取材方法がある。事件取材ならば警察幹部、企業取材ならば役員、政治取材ならば政治家の家まで出向く。かなり奇妙な慣習で「アメリカならば不審者として射殺される」とよく言われたが日本では一般的になっている。取材される側もそれを心得ていて、政治家の中には玄関脇に専用の部屋を用意したり、麻雀部屋をつくったりする者もいた。記者がそこで待つためだ。 宮澤はこの夜回りを長年、拒否していた。確かにそういう人もいないわけではないが、大臣や官房長官に就いてからも拒むのは珍しい。宮澤の長女がのちに語っているが、「家族が非常識な時間に新聞記者が家に来るのが大嫌い」というのが理由であった。 しかし当時、記者の間ではまことしやかに「酒癖の悪さ」が理由ではとささやかれていた。石川も「その理由は、夜になると酒が回って、多弁あるいは、ひどいときは酒乱に近い状態になるからだと解説する人がいた」と記している(その後、自民党の総務会長になった1980年代半ばに対応し始める)。 実際、家族も宮澤の泥酔ぶりには呆れていた。「酒乱」であることを認め、「あまりに普段とは違う姿勢が出る」と振り返っている。 千鳥足と呼べるほどカワイイ酔態ぶりでないため、帰宅時のあまりのひどい姿に娘が怒って水をぶっかけたこともあるということからも家族の苦悩のほどが伺える。 宮澤は典型的な官僚で「頭が切れ、アイデアを思いつくが決断できない」タイプだったとの指摘は多い。例えば公的資金注入による不良債権処理も思いついていたが、それを実行したのは宮澤退陣から8年後に首相になる小泉純一郎氏だ。宮澤は1993年の衆院選挙で敗北、自民党長期支配38年、及び55年体制の最後の首相となった。「酒を飲んだ時の宮澤なら10年早く政権を取れていた」 衆議院議長や通商産業大臣を歴任した田村元はじめの宮澤評には頷かされる。「酒を飲んだ時の宮澤なら10年早く政権を取れていた」。頭が良すぎるが故に人を見下し人望がなかったわけだから、何も気にせず、ナベチャンナベチャンといいながら、ぐでんぐでんになりながらも夜回りを受けていたら、人生は変わったのかもしれない。 ちなみに、宮澤は文学にも造詣が深く、酔うと文学論も出た。同じく酒飲みの小林秀雄に師事していたが小林からは「君の文章は何を言いたいのかよくわからない」と指摘されたという。一般人には難解な小林の文章の方がよほどわからない気もするが、権威主義の宮澤は小林に心酔していたと娘は語っている。 意外な武勇伝もあわせもつ。ニューリーダーと呼ばれ、首相候補として名前が挙がり始めた1984年、宮澤は暴漢に襲われる。当時の新聞によると「立正佼成会の庭野日敬会長が会見するとのウソで、宮沢氏を千代田区紀尾井町のホテルニューオータニ本館三八六号室に呼び出した。犯人は宮沢氏が部屋に入るとナイフを首筋に突き付け脅迫メモを示し、「これを読め。おとなしくすれば殺さない」と脅したが、ナイフを取り払われ格闘になった」(「東京地裁で宮沢氏襲撃事件初公判」日本経済新聞1984年5月30日夕刊一五面)。 宮澤は後ろからはがいじめにされ、さらに逃げようとしたところ、頭を灰皿で殴られ、全治3週間の傷を負う。犯人は裁判で「先生の力が強くて(格闘が)優勢になることはなかった」と振り返っているが、展開によっては死んでいてもおかしくない。 宮澤は総理になれるか、なれないかは「なりたくてなれるものではない。電車に乗っているときに目の前の席が空けば座るようなもの」と後年語っているが、強運の持ち主でもあったのだろう。《ロシアの黒歴史》酔い潰れた仲間の背中に“ペニスの絵を描いた紙”を貼ったことも…そこらへんの大学生よりもヒドかった「独裁者スターリンの酒癖」 へ続く(栗下 直也/Webオリジナル(外部転載))
宮澤は官僚出身のバリバリのエリートだった。東京帝国大学法学部を首席で卒業し、大蔵省(現・財務省)に入る。これだけでも凄いが、高等文官任用試験(今の国家公務員総合職試験)で、行政科と外交科の両方に合格している。エリートが門を叩く大蔵省でも、「大秀才」と呼ばれた。秘書官として仕えた池田勇人の勧めもあり、1953年に政界入りする。
宮澤は頭は回るが、口も回った。むしろ、回りすぎた。毒舌の部類だ。自分が東大法学部卒のエリートだったからか、極端な学歴偏重主義で知られた。東京農業大学出身の金丸信に面と向かって「金丸先生は農大を出ていらっしゃる。そいつはお出来になりますなあ」と皮肉った。酒を飲んだ席で金丸の活躍が話題になると「ああいう人は水の底に沈んでいただいた方がいいかもしれませんな。山梨(著者注・金丸の選出区)には釡無川という深い川があるというじゃないですか」と場を静まらせてしまう発言も珍しくなかった。
早大出身の竹下登には、竹下が入学当時の早稲田が無試験であったことを揶揄した。竹下は後藤田正晴に「ボクは宮澤さんに『竹下さん、貴方の時代は早稲田の商学部は無試験だったんですってね』といわれた。あれだけは許せない」と恨みを吐き出している。
政治学者の御厨貴氏は「政治判断は正しいものが多かった気がします」としながらも、「頭が良すぎて他者を見下したような態度を取るため、慕う人があまりにも少なかった」と人望の低さを指摘している。「それ言う必要ないだろ」ということをいってしまうのが宮澤なのだ。厄介なのは本人に悪気はないことだ。
例えば、子どもの教育は自由放任で成績にもうるさくなかった。満点のテスト用紙を見せても「僕は100点以外の点は見たことがないな」と呟くだけで、悪い点をとっても「ふーん」と言うだけ。質問すると丁寧に答えてくれるが、くだらない質問をすると無視される。子どもにしてみれば、つかみどころがない。
教養も持ち合わせていたから、学歴主義者、権威主義者とは切り捨てられない。学者で劇作家でもあった山崎正和は、宮澤と私的な会合で席をよくともにしたが、「教養人とはこういうものかとも思いましたね」と感嘆している。
田中角栄に「英語屋」と馬鹿にされるほど語学に堪能だったが、単に語学に長けていただけではない。欧米の幅広い雑誌に目を通していたこともあり、会話に幅もあった。
欧米カブレなわけでもない。多くの人にとっては何が書いてあるかわからないような墨跡もすらすらと読み下し、その様は山崎からみても、まるで曲芸のようだったという。
「どうしてああいう人が政界に入ったのか不思議なくらい」と奇妙な気持ちになったとか。そして、山崎を驚かせたのが教養人ぶりにも増して、酔態だ。
山崎と宮澤が顔を合わせていた会合は京都の大徳寺で開かれていたが、宮澤はその場がよほど好きだったらしい。首相になってからも激務の合間を縫って、わざわざ京都に出向き参加していた。もちろん、一国の首相だけにふらっと遊びに行けるわけもない。SPのみならず、京都府警が総力を挙げて護衛するので、閑静な大徳寺周辺が警護でいっぱいになり、異様な光景が広がった。
異様な光景は寺の中にも広がっていた。宮澤は毎回、ぐでんぐでんに酔っ払って、秘書官に抱えられて帰っていくものだから手に負えない。
宮澤は造り酒屋の息子ということもあってか、酒には弱くなかった。酒をある程度飲まないと酔わないが、酔うまでは相手に絡み続ける。ある時点を境に目が据わり、相手が誰彼かまわず演説が始まる。結局、酔っても酔わなくてもどっちにしろ絡み続けているのだ。
酒豪で酒乱という最も性質の悪い酒飲みともいえる。ジャーナリストの立花隆も「酒乱の域に達しないうちは、人にイヤなからみ方をする時間がえんえんとつづく」とかつて記していた。自民党のドンで懐の深さで知られた田中角栄に「2度と酒を飲みたくない」とまで言わしめているからよほどだったのだろう。 読売グループのボスである渡邊恒雄氏も回顧録で振り返っている。中曽根康弘内閣の時に盟友である中曽根の依頼で、渡邊氏は某料亭の女将の部屋を借りて、宮澤に会う。宮澤に大蔵大臣を引き受けてもらうためだ。シラフの宮澤は真面目な顔で大蔵大臣を引き受ける代わりに、宮澤の派閥「宏池会」に政調会長のポストを用意しろと要求してきた。 渡邊氏は中曽根の遣いできたのでその場では判断ができない。「今晩中に連絡しますから」と引き揚げ、中曽根の了解を取りつけたうえで、架電する。すると、宮澤はすでに泥酔状態で「いやあ、こりゃこりゃ、ナベちゃん、ナベちゃん」と先ほどと様相は一変していて、全く話にならなかったという。「酔ったら電話に出るな」は一般人も政治家も同じだ。実際、宮澤は原則、夜は電話に出なかった時期もあった。「ひどいときは酒乱に近い状態」 宮澤自身、酒癖の悪さは自覚していたのだろう。朝日新聞の政治記者だった石川真澄は「私は会う前から宮澤氏に好感を抱いていた」と書いている。 新聞記者には昼間に正面から聞きにくい話などを、関係者の自宅に足を運んで直接話を聞く「夜回り」という取材方法がある。事件取材ならば警察幹部、企業取材ならば役員、政治取材ならば政治家の家まで出向く。かなり奇妙な慣習で「アメリカならば不審者として射殺される」とよく言われたが日本では一般的になっている。取材される側もそれを心得ていて、政治家の中には玄関脇に専用の部屋を用意したり、麻雀部屋をつくったりする者もいた。記者がそこで待つためだ。 宮澤はこの夜回りを長年、拒否していた。確かにそういう人もいないわけではないが、大臣や官房長官に就いてからも拒むのは珍しい。宮澤の長女がのちに語っているが、「家族が非常識な時間に新聞記者が家に来るのが大嫌い」というのが理由であった。 しかし当時、記者の間ではまことしやかに「酒癖の悪さ」が理由ではとささやかれていた。石川も「その理由は、夜になると酒が回って、多弁あるいは、ひどいときは酒乱に近い状態になるからだと解説する人がいた」と記している(その後、自民党の総務会長になった1980年代半ばに対応し始める)。 実際、家族も宮澤の泥酔ぶりには呆れていた。「酒乱」であることを認め、「あまりに普段とは違う姿勢が出る」と振り返っている。 千鳥足と呼べるほどカワイイ酔態ぶりでないため、帰宅時のあまりのひどい姿に娘が怒って水をぶっかけたこともあるということからも家族の苦悩のほどが伺える。 宮澤は典型的な官僚で「頭が切れ、アイデアを思いつくが決断できない」タイプだったとの指摘は多い。例えば公的資金注入による不良債権処理も思いついていたが、それを実行したのは宮澤退陣から8年後に首相になる小泉純一郎氏だ。宮澤は1993年の衆院選挙で敗北、自民党長期支配38年、及び55年体制の最後の首相となった。「酒を飲んだ時の宮澤なら10年早く政権を取れていた」 衆議院議長や通商産業大臣を歴任した田村元はじめの宮澤評には頷かされる。「酒を飲んだ時の宮澤なら10年早く政権を取れていた」。頭が良すぎるが故に人を見下し人望がなかったわけだから、何も気にせず、ナベチャンナベチャンといいながら、ぐでんぐでんになりながらも夜回りを受けていたら、人生は変わったのかもしれない。 ちなみに、宮澤は文学にも造詣が深く、酔うと文学論も出た。同じく酒飲みの小林秀雄に師事していたが小林からは「君の文章は何を言いたいのかよくわからない」と指摘されたという。一般人には難解な小林の文章の方がよほどわからない気もするが、権威主義の宮澤は小林に心酔していたと娘は語っている。 意外な武勇伝もあわせもつ。ニューリーダーと呼ばれ、首相候補として名前が挙がり始めた1984年、宮澤は暴漢に襲われる。当時の新聞によると「立正佼成会の庭野日敬会長が会見するとのウソで、宮沢氏を千代田区紀尾井町のホテルニューオータニ本館三八六号室に呼び出した。犯人は宮沢氏が部屋に入るとナイフを首筋に突き付け脅迫メモを示し、「これを読め。おとなしくすれば殺さない」と脅したが、ナイフを取り払われ格闘になった」(「東京地裁で宮沢氏襲撃事件初公判」日本経済新聞1984年5月30日夕刊一五面)。 宮澤は後ろからはがいじめにされ、さらに逃げようとしたところ、頭を灰皿で殴られ、全治3週間の傷を負う。犯人は裁判で「先生の力が強くて(格闘が)優勢になることはなかった」と振り返っているが、展開によっては死んでいてもおかしくない。 宮澤は総理になれるか、なれないかは「なりたくてなれるものではない。電車に乗っているときに目の前の席が空けば座るようなもの」と後年語っているが、強運の持ち主でもあったのだろう。《ロシアの黒歴史》酔い潰れた仲間の背中に“ペニスの絵を描いた紙”を貼ったことも…そこらへんの大学生よりもヒドかった「独裁者スターリンの酒癖」 へ続く(栗下 直也/Webオリジナル(外部転載))
酒豪で酒乱という最も性質の悪い酒飲みともいえる。ジャーナリストの立花隆も「酒乱の域に達しないうちは、人にイヤなからみ方をする時間がえんえんとつづく」とかつて記していた。自民党のドンで懐の深さで知られた田中角栄に「2度と酒を飲みたくない」とまで言わしめているからよほどだったのだろう。
読売グループのボスである渡邊恒雄氏も回顧録で振り返っている。中曽根康弘内閣の時に盟友である中曽根の依頼で、渡邊氏は某料亭の女将の部屋を借りて、宮澤に会う。宮澤に大蔵大臣を引き受けてもらうためだ。シラフの宮澤は真面目な顔で大蔵大臣を引き受ける代わりに、宮澤の派閥「宏池会」に政調会長のポストを用意しろと要求してきた。
渡邊氏は中曽根の遣いできたのでその場では判断ができない。「今晩中に連絡しますから」と引き揚げ、中曽根の了解を取りつけたうえで、架電する。すると、宮澤はすでに泥酔状態で「いやあ、こりゃこりゃ、ナベちゃん、ナベちゃん」と先ほどと様相は一変していて、全く話にならなかったという。「酔ったら電話に出るな」は一般人も政治家も同じだ。実際、宮澤は原則、夜は電話に出なかった時期もあった。
宮澤自身、酒癖の悪さは自覚していたのだろう。朝日新聞の政治記者だった石川真澄は「私は会う前から宮澤氏に好感を抱いていた」と書いている。
新聞記者には昼間に正面から聞きにくい話などを、関係者の自宅に足を運んで直接話を聞く「夜回り」という取材方法がある。事件取材ならば警察幹部、企業取材ならば役員、政治取材ならば政治家の家まで出向く。かなり奇妙な慣習で「アメリカならば不審者として射殺される」とよく言われたが日本では一般的になっている。取材される側もそれを心得ていて、政治家の中には玄関脇に専用の部屋を用意したり、麻雀部屋をつくったりする者もいた。記者がそこで待つためだ。
宮澤はこの夜回りを長年、拒否していた。確かにそういう人もいないわけではないが、大臣や官房長官に就いてからも拒むのは珍しい。宮澤の長女がのちに語っているが、「家族が非常識な時間に新聞記者が家に来るのが大嫌い」というのが理由であった。
しかし当時、記者の間ではまことしやかに「酒癖の悪さ」が理由ではとささやかれていた。石川も「その理由は、夜になると酒が回って、多弁あるいは、ひどいときは酒乱に近い状態になるからだと解説する人がいた」と記している(その後、自民党の総務会長になった1980年代半ばに対応し始める)。
実際、家族も宮澤の泥酔ぶりには呆れていた。「酒乱」であることを認め、「あまりに普段とは違う姿勢が出る」と振り返っている。
千鳥足と呼べるほどカワイイ酔態ぶりでないため、帰宅時のあまりのひどい姿に娘が怒って水をぶっかけたこともあるということからも家族の苦悩のほどが伺える。
宮澤は典型的な官僚で「頭が切れ、アイデアを思いつくが決断できない」タイプだったとの指摘は多い。例えば公的資金注入による不良債権処理も思いついていたが、それを実行したのは宮澤退陣から8年後に首相になる小泉純一郎氏だ。宮澤は1993年の衆院選挙で敗北、自民党長期支配38年、及び55年体制の最後の首相となった。
衆議院議長や通商産業大臣を歴任した田村元はじめの宮澤評には頷かされる。
「酒を飲んだ時の宮澤なら10年早く政権を取れていた」。頭が良すぎるが故に人を見下し人望がなかったわけだから、何も気にせず、ナベチャンナベチャンといいながら、ぐでんぐでんになりながらも夜回りを受けていたら、人生は変わったのかもしれない。
ちなみに、宮澤は文学にも造詣が深く、酔うと文学論も出た。同じく酒飲みの小林秀雄に師事していたが小林からは「君の文章は何を言いたいのかよくわからない」と指摘されたという。一般人には難解な小林の文章の方がよほどわからない気もするが、権威主義の宮澤は小林に心酔していたと娘は語っている。
意外な武勇伝もあわせもつ。ニューリーダーと呼ばれ、首相候補として名前が挙がり始めた1984年、宮澤は暴漢に襲われる。当時の新聞によると「立正佼成会の庭野日敬会長が会見するとのウソで、宮沢氏を千代田区紀尾井町のホテルニューオータニ本館三八六号室に呼び出した。犯人は宮沢氏が部屋に入るとナイフを首筋に突き付け脅迫メモを示し、「これを読め。おとなしくすれば殺さない」と脅したが、ナイフを取り払われ格闘になった」(「東京地裁で宮沢氏襲撃事件初公判」日本経済新聞1984年5月30日夕刊一五面)。
宮澤は後ろからはがいじめにされ、さらに逃げようとしたところ、頭を灰皿で殴られ、全治3週間の傷を負う。犯人は裁判で「先生の力が強くて(格闘が)優勢になることはなかった」と振り返っているが、展開によっては死んでいてもおかしくない。
宮澤は総理になれるか、なれないかは「なりたくてなれるものではない。電車に乗っているときに目の前の席が空けば座るようなもの」と後年語っているが、強運の持ち主でもあったのだろう。
《ロシアの黒歴史》酔い潰れた仲間の背中に“ペニスの絵を描いた紙”を貼ったことも…そこらへんの大学生よりもヒドかった「独裁者スターリンの酒癖」 へ続く
(栗下 直也/Webオリジナル(外部転載))

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