時に歯に衣着せぬ物言いや一方的に話を遮るスタイルで炎上騒ぎも起こす。4月15日に89歳の誕生日を迎える御大が、東日本大震災から12年というタイミングで反原発派の急先鋒・小泉純一郎元首相と対談映画を作った。とうに隠居していてもいい年で、なぜジャーナリストであり続けるのか?戦争体験から原発問題、岸田政権、そしてメディアのあり方を語る。◆なぜジャーナリストであり続けるのか?
タブーなしの老練なジャーナリストと聞けば、この人以外にいるまい。田原総一朗、88歳。天皇の戦争責任から原発問題、政治と宗教についても忖度ゼロで追及。安倍元首相暗殺事件後には公明党議員に「統一教会と創価学会はどこが違うんだ?」とド直球の質問をぶつけたことも波紋を呼んだ。その年で変わらぬ“田原節”を発揮し続ける原動力は何なのか? 小泉純一郎元首相との対談映画『放送不可能。』が公開中の田原氏を直撃した。
――『放送不可能。』を製作するに至ったきっかけは?
田原:僕が小泉さんと対談したいと思ったのが大きな理由。反原発は左翼が反体制運動としてやってきたが、小泉さんは違う。総理大臣経験者で保守の人。だからみんな信用するし、面白いと思うんだ。その小泉さんがね、「映画ならテレビのように発言がカットされなくていいね」と言ってくれたんですよ。
――小泉さんとはどれくらいの付き合いになるのですか?
田原:’01年に小泉さんが自民党総裁選に出馬したでしょ。このときに森(喜朗元首相)さんの側近だった中川(秀直元官房長官)さんに「田原さん、どうしたらいいですか?」と相談された。小泉さんは2回総裁選に敗れて3回目の挑戦。これで惨敗したらもう這い上がれない。それで僕は、「経世会(当時の橋本派/現・平成研究会=茂木派)と全面的に闘うというのなら支持する。ただ、それをやったら政治生命が終わるかもしれないよ」と言った。それまでは田中派、そして田中派を割って生まれた経世会か、そこに全面支持された人しか総理になれなかったからだ。そしたら、その場に小泉さんがやってきてね、「わかった。殺されてもやる」と。それも実際、総裁選に突入したら経世会じゃなく「自民党をぶっ壊す」と言いだした。彼ほどイエス・ノーがはっきりしている人はいないよね。
――その小泉さんは今でこそ反原発ですが、総理大臣のときには原発推進派でした。
田原:推進派だった彼が原発に疑問を持ったのは東日本大震災だった。その後、彼はフィンランドのオンカロという使用済み核燃料の最終処分場を視察したんだよ。そのときに「無害化されるまでに何年かかるのか?」と聞くと「10万年かかる」と言われて驚いた。しかも日本にはオンカロすらない。処分できる場所もないのに原発を推進するのは無責任だと反原発に転換したんだ。僕は小泉さんと違い、必ずしも反原発というわけではないが、やはり処分場がないのに原発を続けるというのは反対。
◆半世紀前から指摘していた原発問題
――田原さんは‘76年に『原子力戦争』を出版するなど早い時期から原発問題を取材している。
――半世紀も前から問題を指摘していたのに、震災が起こるまで原発神話が続いてしまった。
田原:その間も“朝生”では何度か取り上げたけど、他はどこも乗ってくれなかった。でも、それは関心がなかったというより原発問題がタブーになっていてテレビ局も怖くてできなかったから。けど、事故が起きて、賠償金や安全対策のための費用など含めると発電コストも高くなった。核の平和利用を謳って原発を推進し始めた中曽根内閣以降、政府は「原発は安全で、低コストで、クリーン」と主張してきたのに、全部ウソだった。
◆なぜ米英が原発推進に転換したのか?
――ただ、岸田政権は原発推進の姿勢を見せています。
田原:安倍(晋三元首相)さんだって慎重だったのに、岸田さんは昨年から急に積極的になった。経産省出身の嶋田隆首相秘書官が説得したんだと思う。彼にも直接話を聞いたが、カーボンニュートラルを実現するうえで、日本では再生エネルギー推進には限界があるということだった。それともう一つはウクライナ危機以降、アメリカやイギリスが原発新増設へと転換したこと。これも大きい。それがなぜなのかは今度現地に行って取材してこようと思っています。
――再エネといえば、朝生常連だった三浦瑠麗氏の夫が太陽光発電事業で逮捕されました。
田原:家宅捜索が入ったあとに話したけど、彼女は何も知らなかった。夫も容疑を否認しているようだし、今、彼女を責めることはできないんじゃないか。
◆「戦争を知っている世代が政治をやっている間は戦争しない」
――安全保障や政治と宗教の問題についても切り込んできた。88歳の身でなお、取材への情熱が衰えないのはなぜですか?
田原:それは戦争を知っている最後の世代だからですよ。
――どういうことでしょう?
田原:小学5年生になると、軍事訓練が始まった。先生たちは「世界の侵略国であるアメリカ、イギリスが世界中を植民地にしている。この戦争はアジアの国々を解放させる正義の戦争だ」と言っていた。僕も早く大人になって戦争に行って、天皇陛下のために命を捨てようと思っていたんだ。ところが夏休みに玉音放送を聴いた。2学期になり、米軍がどんどん進駐してくるようになると新聞やラジオの報道は「あの戦争は絶対にやってはいけない間違った戦争だった。正しいのはアメリカ、イギリスだ」と変わった。1学期と2学期で180度報道が変わった。それで偉い人もマスコミも信用できないなと思った。
――その原体験がジャーナリストとしての基本姿勢に?
田原:それだけじゃない。戦後、「戦争はダメだ。平和のために頑張れ」と言っていたのに、高校1年のときに朝鮮戦争が始まった。在日米軍が朝鮮半島に行った。そのときに僕が「戦争反対」と言うと教師から「馬鹿野郎! いつの間に共産党になったんだ」と言われた。また世の中が変わった。このときにやっぱり伝聞の情報ではダメで、一次情報を確認しないといけない、という思いが強くなった。
――ただ、戦争を知っている世代も近い将来いなくなる。
田原:昔、田中角栄さんによく言われたんだよ。「田原くん、戦争を知っている世代が政治をやっている間は絶対に戦争しない」と。今は世の中では「新しい戦前」という言葉も出ているくらいだ。政治家だけでなく、マスコミも戦争を知らない世代になった。戦争をさせないためにもジャーナリストを育てないといけない。報道がしっかりしていることが一番大きいんだ。なんだかんだ総理大臣はマスメディアの反応を見ているから、みんな反対だったらできない。
◆88歳が世のタブーを破壊する
――では報道する側の課題は?
――今後取材したいテーマは?
田原:まだまだ会っておきたい人はたくさんいますからね。映画『放送不可能。』の第2弾は堀江貴文さんとの討論でもう撮影を終えてます。それ以外にも、4つのことに取り組んでいる。ジェンダーギャップの解消に、日本経済の再生、教育改革と安全保障問題。与野党関係なくいろんな政治家や専門家を巻き込んで取り組んでいきたい。
――88歳で働きすぎでは……?
田原:仕事があるというのはありがたいですね。でも、やるからには信念を持ってやらないと。僕の場合は「体を張って言論を守る」「絶対に日本を戦争させない」、それから「野党を強くする」。そのためにもこうやってタブーなき発信を続けていく。
誰にも忖度なしで切り込む田原氏だが、最後に「怖いと思った相手はいないのか?」と問うと、3月3日に亡くなった作家・大江健三郎氏の名が。「実存主義を見事に小説に昇華させた彼の文才に僕は打ちのめされて作家の道を諦めた。それ以来、大江さんのことが怖かった」と話し、タブーなきジャーナリストはそっと目を伏せた。
Soichiro Tahara’34年、滋賀県生まれ。早稲田大学第一文学部史学科卒業後、岩波映画製作所に入社。東京12チャンネル(現・テレビ東京)を経て’77年に独立。以降、政治関係の執筆活動を精力的に行うほか、『朝まで生テレビ!』など看板番組でタブーなき言論活動を続けている
取材・文/小川匡則 構成/池垣 完 撮影/初沢亜利