管理欲が強い母親は「もう死ぬ!」と取り乱し父親はDV…毒親少女が「性行為とドラッグに溺れた」顛末

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世間に「親ガチャ」という言葉が広まって久しい。親からの虐待、親の依存症、ヤングケアラーなど、親子の劣悪な関係は様々だ。
現在、様々な支援機関がこうした子供たちを保護する取り組みを行っている。もちろん、子供の救出は急務だ。しかし、そうした家庭で育った子供たちが、親から離れた後も、その呪縛と後遺症に何年、何十年と精神的に苦しみつづけている実態はあまり報じられることはない。
家を失った若者たちを追うシリーズ「ヤング・ホームレス」。今回は、親による精神的な支配を受けながら生き続けなければならなかった女性の人生を追いたい。
新潟県の閑静な住宅街で、’85年に青田絵美香(仮名)は生まれ育った。父親は民間企業の経理、母親は専業主婦だった。
父親は愛想が良く、母親はしっかりものとして、世間から知られていた。だが、実際の家族関係は、そんなイメージとは程遠いものだった。
まず、母親が一人娘である絵美香を溺愛し、自分の肉体の一部のように徹底的に管理しようとした。何をして遊ぶのか、どれくらい勉強するのか、どのように食べるのか。あらゆることに細かく口出しし、少しでも自分の思い通りにならないと、こう言った。
「そんなことをする絵美香ちゃんは私の子じゃない! 私の絵美香ちゃんはそんなことしない!」
たとえば、子供なら誰しも、眠いからうがいをしたくないとか、疲れているから外出したくないといった時があるだろう。だが、母親はそんな些細なことすら許さず、理詰めで追い込んで反抗できないようにさせ、最終的には自分の思い通りに動かそうとするのだ。
絵美香は母のことを次のように振り返る。
「母は子供時代に祖母から自由に振舞うことを許されなかったようです。その分、娘の私にはうまくいってほしいと思っていた。だからこそ、そうなるようにという理屈で、祖母同様にとあらゆることに口出ししてきたんです。
母にとって私は『分身』だったのだと思います。だから、いつも決まって『私の絵美香ちゃんだから』と言ってきました。私を呼ぶ際に必ず『私の』が入るのです。母親にとって私は自分の手足みたいなもので、思うように動かさずにはいられなかったのです」
母親は頭が良かった分、暴力ではなく、言葉によって絵美香を精神的に支配しようとした。四六時中、絵美香の行動を細かくチェックして口出ししてくる。時に言葉で説得できないと思うと、声を上げて泣きはじめて「絵美香ちゃんは私の子でしょ。お願いだからわかって」と訴えてきたり、「もう死ぬしかない。私はもう死ぬ!」と取り乱したりするのだ。
絵美香は親の愛情を受けるには、母親の望む通りに動くしかなかった。何もかも母親の言う通りにすれば「さすが私の絵美香ちゃん」「やっぱり私の絵美香ちゃんだね」と褒めてもらえる。だから、何事にも母親の思いをくみ取り、気に入られることをしていた。いつしか、絵美香も自分から母親の分身になっていたのである。
こうした家族関係をさらに複雑なものにしていたのが、父親だった。
父親は恐ろしいほど神経質な性格だった上に、妻のことを偏愛していた。そして妻が娘の絵美香のことばかり考えていることに嫉妬し、逆恨みしていたのである。
毎日一分の狂いなく同じ時刻に帰宅すると、父親は決まったルーティーンを厳格にこなす。そこで少しでも絵美香が気に入らないことをすれば、激怒して手を上げた。
あまりに神経質だったため、いつ何が父親の怒りに火をつけるのかわからないほどだった。たとえば、母親に言われて机で勉強していたのに、いきなり「スタンドの電気がまぶしい!」と言われてスタンドを投げつけられたり、父親の毎日のルーティーンの一つである会社で起きた出来事をしゃべっている間に、少しでも絵美香が音を立てると「うるさい!」と殴ったりするのだ。
絵美香は言う。
「毎日かならず同じ電車で父は帰ってきました。煙草を絶対に同じ長さまで吸って、同じことをくり返す。家に父親がいると、いつ何が理由で怒られるのかわからないので、私は緊張で頭がおかしくなりそうでした。
たぶん、そのせいだったんでしょう。小学校の時に急に声が出なくなってしゃべれなくなったり、足が動かなくなったりしました。病院で検査をしても原因がわからなかったので、ストレス性のものだったんだと思います。よく過呼吸も起こしていました」
母親から自分の分身であることを求められ、父親からは不条理な理由で暴力をふるわれる。
そんな状況の中で、彼女はなんとか両親の逆鱗に触れないようにと「良い子」を演じつづけるしかなかった。勉強はもちろん、そろばん教室、水泳、吹奏楽などあらゆることを必死にこなした。それが彼女にとって生き延びる道だった。
思い返すと、たった一度だけ絵美香は父親に反抗しようとしたことがある。それまで父親に暴力を振るわれたことは数えられないほどあったが、抵抗しようと思ったことは一度もなかった。だが、ある日、父親が勢いで母親に手を上げたことがあった。
この時、母親はこう叫んだ。
「私の絵美香ちゃん、助けて!」
母親のその声を聞いた時、絵美香は包丁を手に取り、父親を刺そうとした。なぜ、そんなことをしたのだろう。母親から支配されていたことが原因だったと気づいたのは、大人になってからだった。
絵美香は言う。
「あの頃の私は、母が死んだら、本当に私まで死ぬんだと思い込んでいました。それだけ同一化していたのです」
絵美香の人生が変わりはじめたのは、中学2年になってからだった。
思春期に入ったことで、絵美香はだんだんと自我が芽生えはじめ、親に対して反抗するようになったのだ。
とはいえ、中学2年生ができる反抗など限られている。彼女がしたのは非行だった。学校で不良と呼ばれる友達と付き合って深夜徘徊したり、男性の先輩の家に泊まらせてもらったりといったことをしたのだ。リストカットをしたこともあった。
父親は妻と娘の関係に嫉妬していたので、絵美香が道を外れたことについてはほとんど何も言わなかった。ようやく妻を独占できると思い、せいせいしていたようだ。
だが、母親の方はパニックに陥った。絵美香の行動に激怒したり泣きわめいたりし、リストカットを見つけた時は、「今度やったら、お母さん首をつって死ぬから!」と叫んだ。家事が全く手につかなくなり、遠方に暮らす祖父母が泊まりがけでやってきて、家事を代わりにやっていたというから、よほどだったのだろう。
絵美香は言う。
「あの頃は、家に近づくことさえ嫌でした。家にいれば、お父さんやお母さんから何されるかわからない。だから、家出することが自分を守る方法だったんです。
もちろん、家出の最中に知り合う人たちは悪い人が多いので、いろんなことがありました。セックスを求められることも、ドラッグを勧められることも普通です。それでも、家にいるよりはマシだという気持ちがあったんです」
中学卒業後、絵美香は高校へ進むものの、わずか1ヵ月で中退。それからは家にほとんど帰らなかった。
地元の暴力団組員は、そんな少女を放ってはおかなかった。上手に言いくるめ、違法薬物やコピーブランドの売買を手伝わせた。風俗のスカウトのようなことをやらされたこともあった。
絵美香はそれを進んでやった。そうすることでしか、実家と距離を置くことができなかったのだ。
だが、娘がそんな荒れた生活をしていても、母親は彼女を支配しようとしていた。これまで通りのやり方が通じないのなら、別のやり方で娘を取り戻そう。なぜならば、娘は自分の分身なのだから――。
そして母親は驚くべき方法で娘を奪い返そうとするのである。詳しくは【後編:「毒親からの手紙やお守り」を大切に保管した理由】で述べたい。
取材・文・撮影:石井光太’77年、東京都生まれ。ノンフィクション作家。国内外の文化、歴史、医療などをテーマに取材、執筆活動を行っている。著書に『絶対貧困』『遺体』『「鬼畜」の家』『43回の殺意』『本当の貧困の話をしよう』『格差と分断の社会地図』『ルポ 誰が国語力を殺すのか』などがある。

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