【城戸 譲】「無言の帰宅」の意味を誤解してしまう人が増えたのは何故か…SNSでコミュニケーションが崩壊した”本当の理由”と馬鹿にされないために”必須な能力”

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文字ベースのSNSサービス「Threads(スレッズ)」を発端に、とある論争が勃発している。死の暗喩である「無言の帰宅」との表現に対して、文字どおりに「元気に帰ってきたが黙っている」と受け取ったユーザーが相次ぎ、議論が巻き起こっているのだ。
スレッズは、FacebookやInstagramを運営するMetaによるサービスだ。競合となるツイッター(現在のX)が、イーロン・マスク氏により買収され、不安を覚えたユーザーが他サービスへ移行しつつあったことなどを背景に、2023年7月に開始された。
そんなThreadsで2025年9月下旬、「無言の帰宅」という表現が話題になった。一連の投稿をさらすのはしのびないため、その詳細については伏せる。概略としては、とあるユーザーによる「無言の帰宅」報告に対して、「健在だが黙っている」と勘違いして、結果的に無礼になってしまう返信を行うユーザーが相次いだのだ。
これらのコメントに対しては、スレッズ内でも「言葉の意味を理解していない」といった批判が相次いだ。またXといった他サービスにも飛び火し、「言葉をそのまま受け取るのは純粋すぎる」といった声が出ている。
一方で擁護の声もある。ただ、中には「回りくどい表現をする方にも非があるのでは」といった形で、悲しみのなかにあるはずの元の投稿者の思いを、あまりくめていないように感じられるものもあり、どちらかと言えば少数派だ。
日本語はそもそも「直接的に言わない奥ゆかしさ」を避けた表現が多い。たとえば「死」であれば、「無言の帰宅」だけでなく、「荼毘(だび)に付す」「黄泉(よみ)の国へ行く」「虹の橋を渡る」「二階級特進」などの慣用句が思いつく。
筆者は言語学や文化学の専門家ではなく、あくまでネットメディアの記者・編集者でしかない。ただ、その“実地でのコミュニケーション”を見ていると、日本語とは文脈・コンテクストを重んじる言語なのだろうと感じる。そのため「文字どおり受け取り、真の意味を推察しない」ことが批判されることには、一定の理解ができる。
ただ、SNSまわりを長年ウォッチしてきた私からすると、そのコミュニケーションの形は、年々変化しているように思える。その背景には、「AI・アルゴリズムによるコンテンツの自動選別」や「第三者によるニュースの取捨選択」による、“文脈の断絶”も無関係ではないだろう。
まず前者だが、SNSやネットニュースを使っていると、よく「あなたに合ったオススメ」を見かけるはずだ。これは個人の趣味趣向を機械的に読み取り、分析し、相性が良さそうな投稿や記事をレコメンド(推薦)する機能で成り立っている。
「すでに知っているジャンル」が表示されやすいため、前提知識としては身に付いている場合もあるが、体系立って、もしくは時系列順に情報が並べられているわけではない。結果として、この記事・投稿に至るまでに「どのような経緯があったのか」を知るには、自力で調べる必要がある。
後者の「第三者による取捨選択」も、文脈を断ち切る要素として大きい。いまや多くの人が、ポータルサイトのように、各社からニュース配信を受けているサービスを利用している。しばしば「Yahoo!ニュースに載りました」と報告する芸能人が見られるが、その多くは「Yahoo!ニュースに配信している別会社の記事」である。
しかし、この芸能人のように、両者を混同しているケースは少なくない。相対的に「どの媒体(スタンス・論調など)から発信されているのか」の背景情報が薄められてしまい、細切れになったコンテンツを消費する結果となってしまうのだ。
加えて、新興SNSであるスレッズの「独自カルチャー」も、Xでからかわれる要素のひとつと考えられる。先ほども紹介したように、スレッズはFacebookやInstagramの姉妹サービスである。両者とのアカウント連携もできるため、Xよりも「匿名性」の面では弱いのが特徴だ。
筆者の経験則でしかないが、Meta系のSNSでは、リアルなコミュニケーションの延長線上で、投稿が行われているように映る場面がある。つまり「本音のX」に対して、「建前のスレッズ」とでも言えばいいだろうか。するとおのずと、情報そのものよりも、「エモさ」や共感が重んじられ、そこが判断基準とされる傾向が出てくる。
このように、SNSごとの特色を見てみると、条件反射的に「これだからスレッズ民は」とバカにするのは、あまりに短絡的な考えに思える。むしろ本件は、これからの情報化社会を、いかに人類として生き抜くか、といった大きなテーマなのではないか。
情報が、AIや第三者の重み付けにより、文脈を問わずに出し分けられるようになった。そこで重要なのは、「自力でコンテンツ間を連携させる能力」だ。それは言い換えれば、「背景を読み取る力」でもある。
世の中の利便性が高まる一方、そこに身を委ねるリスクもある。「無言の帰宅」論争は、いわば情報化社会における、“人間としての存在意義”を問うモデルケースである――などと言うと、少し大げさかもしれないが、それほどまでに考えさせられる一件であった。
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