埼玉県浦和市中心街(写真:1987年09月28日、高橋孫一郎撮影)
【写真30枚】本当にダサかった?80年代の大宮・浦和・川越はこんな感じだった
1980年代は埼玉にとって受難の時代だった。当時、深夜放送「オールナイトニッポン」のパーソナリティとして人気者になりだしたタモリが、漫談のネタの一つにしていたのが、埼玉をダサいと揶揄する「ダサいたま」ネタだった。
2019年に映画化されて大ヒットした魔夜峰央のマンガ「翔んで埼玉」が、少女漫画誌「花とゆめ」に発表されたのは1982年。こうして埼玉=ダサいたまのイメージは日本全国に広がっていった。
東京に隣接している埼玉県民は、出身地を聞かれると「東京のほう」と答えるという話がまことしやかに伝わってきたのも、この頃だ。
JR大宮駅西口再開発・ソニックシティ(写真:1988年04月25日、高橋孫一郎撮影)
【写真30枚】1980年代の大宮・浦和・川越はこんな感じだった
大宮駅西口(写真:1989年02月06日、東洋経済写真部撮影)
大宮駅西口(撮影:1989年02月06日、高橋孫一郎撮影)
大宮西口共同ビル・DOM(地権者の店)(写真:1984年09月、東洋経済写真部撮影)
大宮西口共同ビル・DOM(地権者の店)(写真:1984年09月、東洋経済写真部撮影)
大宮西口共同ビル・DOM(地権者の店)(写真:1984年09月、東洋経済写真部撮影)
大宮西口共同ビル・DOM(地権者の店)(写真:1984年09月、東洋経済写真部撮影)
大宮西口共同ビル・DOM(地権者の店)。Daieiのロゴが懐かしい(写真:1984年09月、東洋経済写真部撮影)
その埼玉県の主要都市・大宮では、1980年代に西口駅前の開発が一気に進んだ。1987年にはそごう大宮店が開店、1988年には当時の埼玉県内で最高層だった31階建ての大宮ソニックシティが竣工。オフィス、ホテル、商業施設、ホールなどが入る駅西口のランドマークとなった。
これら開発の起爆剤となったのは、1982年の東北・上越新幹線の大宮駅開業だった。
しかし、東北・上越新幹線の大宮-上野間の線路建設は、沿線住民の激烈な反対があり、当初の計画通りには完成に至らず。1982年には大宮-盛岡間が開業したが、この時点では、新幹線の乗客は、大宮-上野間を、在来線「新幹線リレー号」に乗り換えて移動する必要があった。その後85年に、ようやく新幹線の上野-大宮間が開通。
その国鉄時代を知る、のちのJR東日本幹部に聞いた話では、地権者の強固な反対があったこの区間に新幹線線路を建設するのは困難を極めたプロジェクトで、その妥協案として、新幹線用に予定されていた用地を使って、通勤線である埼京線が開通した経緯があったという。
その苦難が実を結んだということだろうか、東北・上越新幹線駅として利便性が向上した大宮の存在感は年々増し、また、東京都心とダイレクトにつながるようになった埼京線により、大宮、与野、浦和、戸田など、沿線各地の開発は徐々に進んでいった。
その後1986年には埼京線は新宿に、さらに96年には恵比寿に直通。そして2002年には大崎まで延伸して東京港湾岸部の臨海副都心まで行くりんかい線にも直通するようになった。
大宮は鉄道の街だ。近代化以降、東京・上野から大宮を経て高崎方面に鉄道が開業し、のちに東北本線が建設される際、大宮付近で東北方面への線路が分岐することになり、ここが鉄道の結節点として発展することになった。
明治中期には日本鉄道の工場が創設され、それはのちに国鉄の大宮工場に、そして現在はJR東日本の大宮総合車両センターとなっている。
JRへの民営化後、2007年には、JR東日本の企業博物館でもある鉄道博物館も大宮に開館。それ以降、大宮の“鉄道の街”としての認知度は一層高まってきた。
大宮より大宮操車場をのぞむ(写真:1989年02月14日、高橋孫一郎撮影)
1989年の大宮駅付近の空撮写真を見ると、画面中央に続いている新幹線の高架線路の上方に広がっているのは、国鉄時代の操車場。
1987年の国鉄分割民営化後、この場所では「さいたま新都心」の再開発が始まり、京浜東北線のさいたま新都心駅や“さいたまスーパーアリーナ”、国の機関や広場などが整備された。
大宮駅より北にのびる新幹線(写真:1989年02月14日、高橋孫一郎撮影)
一方、こちらは大宮駅から北方向に伸びる線路を捉えた1989年の空撮写真。駅付近のビル街の先の、線路下方の大きな屋根の建物は、現在の大宮総合車両センターだ。
大宮と隣りあう浦和の街は、埼玉県の県庁所在地。その浦和の中心街の1988年の写真を見ると、通り沿いには銀行、信託銀行、証券会社、生保、損保の支店がずらりと並んでいる。中山道の宿場町である浦和では、江戸時代以来、駅前よりも、この旧中山道沿いが街の中心として栄えてきた。
浦和駅西口(写真:1989年02月14日、高橋孫一郎撮影)
埼玉県浦和市中心街(写真:1987年09月28日、高橋孫一郎撮影)
埼玉県浦和市中心街(写真:1987年09月28日、高橋孫一郎撮影)
埼玉県浦和市中心街(写真:1987年09月28日、高橋孫一郎撮影)
埼玉県浦和市中心街(写真:1987年09月28日、高橋孫一郎撮影)
埼玉県浦和市中心街より駅方向を見る(写真:1987年09月28日、高橋孫一郎撮影)
埼玉県浦和市中心街(写真:1987年09月28日、高橋孫一郎撮影)
それにしてもこの金融街としての集積は、やはり県庁所在地ならではのものだろう。しかし、この写真撮影時から40年近くを経た現在、同じ場所に行ってみると、大手銀行の合併時代を経て、通りに並ぶ金融機関の数はかなり減っている。
浦和は、鉄道駅、商業地、繁華街の規模において大宮より劣るが、明治時代からの県庁所在地であり、公立の伝統校である高砂小学校や、県立浦和高校など古くからの名門校のある文教都市としても認識されている。
一方で、大宮は、同じ中山道の宿場町であり、明治以降は鉄道の要衝として存在感を増し、商業地として栄えてきた歴史もあり、この浦和と大宮のライバル関係は県外の人にも広く認識されているようだ。
その両者の対立が最も激烈になったのは、2001年のさいたま市の合併前だった。当時は、平成の大合併と言われた時代。埼玉県では、浦和、大宮、隣接する与野市が合併し、さいたま市が誕生。その目的は、自治体としての規模を拡大し、政令指定都市となることだった。
合併した新しい自治体の名称は何になるかの選定は難航し、旧大宮市は、新たな合併市の名称を「大宮市」とすることを主張。結局は公募による選定になり、1位は「埼玉市」だったが、ひらがなの「さいたま市」に落ち着き、県庁所在地は以前のまま浦和となった。
よそ者から見ると、こうして旧浦和市民は、さいたま市となってからもプライドを保ったように思えるが、浦和住民には、新幹線に乗るときに大宮駅を利用することに抵抗を感じている人もいるというから、さいたま市内には依然として深くて暗い溝が存在しているようにも思える。
浦和駅西口(写真:1989月02月14日、高橋孫一郎撮影)
これは1989年の浦和駅西口だが、確かに大宮駅西口よりも寂しい。しかし、この写真には写っていないが浦和駅西口には1981年に伊勢丹が進出。
この店舗は伊勢丹全店舗の中で新宿本店に次ぐ2位の売り上げで、その額は、大宮最大のデパート「そごう」よりも多いのだそうだ。どうも浦和にはお金持ちが住んでいるようで大宮と浦和の対抗関係も一筋縄ではいかないようだ。
川越市の街並み(写真:1988年05月、吉野純治撮影)
一方で、川越は、秩父と並ぶ埼玉の観光地。蔵造りの街並みや伝統ある寺社、和菓子、さつま芋、うなぎなどの名物で国内外の観光客を呼び込んでいる。
江戸時代から、江戸の北方を守り、物資供給源ともなった川越は商都としても栄え、蔵造りの街が成立した。
川越駅東口再開発(手前)(写真:1989月02月13日、高橋孫一郎撮影)
川越駅から続く住宅街(写真:1989月02月13日、高橋孫一郎撮影)
川越駅東口再開発(手前)(写真:1989月02月13日、高橋孫一郎撮影)
川越駅と西口(写真:1989月02月13日、高橋孫一郎撮影)
川越駅西口(写真:1989月02月13日、高橋孫一郎撮影)
川越市の商店街(写真:1989月02月13日、高橋孫一郎撮影
川越市町並(蔵の街)(写真:1988年05月、吉野純治撮影)
川越市町並(蔵の街)(写真:1988年05月、吉野純治撮影)
1980年代後半の川越の写真を見ても蔵造りの街並みは残っているが、その後電線の地中化や、歴史的建築の保存活用なども進み、1999年には、国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定。それ以後も、蔵造りのレプリカ建築などが造られ、ますます歴史的要素がショーアップされるなどで、観光都市としてますますの盛り上がりを見せている。
川越市の商店街(写真:1989月02月13日、高橋孫一郎撮影)
川越市町並(蔵の街)(写真:1988年05月、吉野純治撮影)
川越では、東武東上線とJR川越線の川越駅、そして西武新宿線の本川越駅と3路線もの鉄道駅が都心とをつないでいる。1989年の写真を見てもJR、東武の川越駅前では再開発が進み、商店街はにぎわっている。
商業都市としての歴史がある一方、近代には工業都市としても、観光地としても発展。
埼玉県内の政令指定都市はさいたま市のみだが、川越市は、越谷市、川口市と並んで中核市となっている。歴史があり、観光地でもあることから、他県人から「翔んで埼玉」的なツッコミやイジりは入れられにくい、県内では稀有な土地柄だ。
埼玉と言っても、東京都と接している県東南部と、川越、秩父、そのほかにも熊谷、行田、本庄、加須などでは、地域性も個性も大きく異なる。
県東南部内だけでも、浦和と大宮、川口や、JR各線、西武線、東武線と沿線別に対立の構図が発生しがちで、無用な衝突を避けたい埼玉県民が自虐に走るというテクニックを駆使する例もよく見られる。
他県民から見て、誠に興味深い地域と県民性に満ちているのだが、そんなことも映画「翔んで埼玉」の大ヒットにつながったのだろう。
【もっと読む】60年前の「アジアっぽい東京」が今の姿になるまで 当時の写真から読み解く「街が変化した」必然 では、路面電車だらけで、今見るとアジアの異国のようだった1960年代の東京の様子を、文筆家の鈴木伸子さんが詳細に解説している。
画像をクリックすると本連載の過去記事にジャンプします
(鈴木 伸子 : 文筆家)