国内外で増す佳子さまの役割、皇室への親しみ広げる存在に…側近が明かす「頑張り屋」の一面

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昨年12月29日、東京・半蔵門。
30歳の誕生日を迎えた秋篠宮家の次女佳子さまは、天皇、皇后両陛下へのあいさつのため車で皇居に入る際、沿道の人々に笑顔で手を振った後、さらに手話でも感謝の気持ちを表現された。
滑らかに手話を使われる母・紀子さまの影響で、幼い頃から手話が身近だった。大学生の頃に公務で使い始め、卒業後の2021年、全日本ろうあ連盟(東京)に就職された。聴覚障害者団体の幹部は「コロナ禍以降、手話がスムーズになった。懸命に練習されたのだろう」と語る。
日本語の語順に合わせた「日本語対応手話」のほか、ろう者の間で受け継がれる「日本手話」も習得し、相手に合わせて使い分けられる。外国訪問前には現地の手話も学ばれる。23年11月に訪れたペルーの特別支援学校では、子供たちから「なんでペルーの手話ができるの?」と驚きの声が上がった。手話通訳士の南瑠霞(るるか)さん(63)は、「ろう者の思いや歴史を大切にし、共に歩む姿を示されている」と話す。

「誰もが安心して暮らせる社会」「誰もがより幅広い選択肢を持てる社会」。佳子さまはその実現をあいさつや文書で繰り返し訴え、行く先々で弱い立場にある人々に寄り添われている。
昨年1月、都内で開かれた聴覚障害者らの活動を顕彰する行事の後、佳子さまは能登半島地震で石川県輪島市の自宅が被災した漆芸作家・山元健司さん(61)と「お話ししたい」と関係者に申し出られた。
難聴者の山元さんは手話を使わず、人の唇の動きで言葉を読み取る。「時間のことは気にしないでください」。佳子さまはそう言い、静かに話に耳を傾けられた。「奥様は?」と家族の安否を気遣い、無事と知ってほっとした表情を浮かべられた。約10分間の懇談の最後には、笑顔で両手を差し伸べ、握手を交わされた。山元さんは「精神的につらい時期に、大きな力をいただいた」と感謝する。
障害者の雇用状況を気にかけ、宮内庁の取り組みを幹部に尋ねられたこともある。「ジェンダー平等」の実現を願い、ガールスカウトの行事では、「自分とは異なる背景や状況への理解が深まることを願っています」と述べられた。

皇室への親しみを広げる存在でもある。昨年8月、福島県で開かれた「第13回日本アグーナリー(国際障がいスカウトキャンプ大会)」。佳子さまは子供から「写真を撮っていいですか」と言われると、気さくに応じ、エプロン姿でカレーの配膳を手伝われた。障害者のダンス大会では、ポンポンを振り声援を送られた。
ペルー訪問で羽織ったパーカは、手頃な価格が話題になった。昨年10月、金沢市で工芸家らとの面会で着けられた輪島塗のイヤリングは、今も注文が続いている。商品を製造する輪島市の漆器販売業八井フク子さん(76)は「輪島塗の魅力の発信になった」と喜ぶ。
21年に結婚した姉の小室眞子さん(33)の公務も引き継がれ、昨年の単独での外出は61件となり、大学を卒業した19年(23件)の3倍近くに上った。
そばで仕えた皇室関係者は、「頑張り屋。日程が立て込み、移動中にぐったりされている時もあった」と明かす。今年は6月にブラジルを訪問の予定で、皇室が縮小し、高齢化するなか、国際親善の重要な担い手でもある。側近の一人は「役割が増すなかで、頼もしく成長された」と語った。
女性皇族の役割は憲法や皇室典範に明示されていないが、戦前から被災者支援や福祉に尽くし、皇室の活動の一翼を担ってきた。
明治天皇の后(きさき)・昭憲皇太后は日清戦争中、病院を訪問。日本赤十字社を物心両面で支え、福島・磐梯山の噴火の際は、医師の派遣を促した。これが日赤の災害救護の始まりとなった。
大正天皇の后だった貞明皇后は、差別に苦しむハンセン病患者を支援し、昭和天皇の后・香淳皇后は日中戦争時、皇族妃らに各地への慰問を命じ、統率力を発揮した。秩父宮妃は戦前から結核予防活動に携わった。
明治学院大の原武史名誉教授(日本政治思想史)は、「戦後は天皇や男性皇族もまた社会福祉施設に足を運ぶなど、女性皇族と活動を共にするケースが増えた。美智子上皇后は皇太子妃時代から、地方の懇談会で女性の悩みや苦しみを吸い上げる役割を果たした」と語る。

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