「10歳まで生きられないかもと余命を宣告されました」生後すぐに左目を摘出した女性(32)が忘れられない、水遊びの時間に男子に言われた“一言”

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福岡県に住む北條みすづさん(32)は、目のがんのため生後すぐに左目を摘出、右目の視力も「調子がいい日で0.02」と弱視で、最も重い1級の障害者手帳を持っている。
【写真】「左目側は眼帯、右目はメガネをかけてやっと視力0.05」だった保育園時代の北條さん
幼い頃の闘病生活と、“見える子”に囲まれ孤立した経験を聞いた。(全4本の1本目/2本目を読む)
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北條みすづさん(本人提供)
──北條さんは、小児がんのため0歳で眼球を摘出したそうですね。
北條 私は「網膜芽細胞腫(もうまくがさいぼうしゅ)」という、目の網膜に悪性腫瘍を持った状態で生まれました。生後1ヶ月健診のときに病気がわかり、生後3カ月で左の眼球を摘出しました。
──右目は大丈夫だったのですか?
北條 右目にもがん細胞があったんですが、抗がん剤と放射線治療をして摘出せずに視力を残すことができました。それでも転移の心配があったので、11歳までは毎年検査入院を繰り返していました。
──物心ついたときは病院に通う生活だったんですね。病院や治療について、どんなことを覚えていますか。
北條 11歳頃までは1~2か月おきに1度、泊まりがけで検査入院していたんです。検査中は全身麻酔なので、入院前日の夜9時から絶食。翌朝苦い鎮静剤を飲まされて、目が覚めたら終わってるんですけど、麻酔が完全に切れるまではしばらく絶食なんです。だから目が覚めるとおなかすいた、ノドが渇いた、でも毎回「まだ食べちゃダメ」と言われたのがすごく記憶に残ってます。

──抗がん剤や放射線治療は、脱毛や吐き気などの症状が出やすいと聞きます。
北條 がんの治療は3歳頃で終わったので、私自身は治療の記憶が全くないんです。ただ、当時の写真は月齢に対して髪の量が少ないので、脱毛はあったのかなと思います。あと覚えているのは「暗闇でのグルグル巻き」ですね。
──グルグル巻き?
北條 大学病院の眼科に通っていたんですが、血液検査もするので必ず注射されるんです。あとは目を見るのでまぶたをめくったり、光を当てたり。でも小さい子は嫌がって、手で払ったりするじゃないですか。
だから検査の前は看護師さん2、3人に手足を押さえられて、マジックテープがついた拘束衣で、す巻きのようにグルグルの状態にされるんです。それで麻酔されるんですが、眼科の診察室は基本的に暗室なので、毎回拘束されたまま暗闇にいました。

──子どもにとっては恐怖が募りそうです。
北條 それが小学校低学年まで続きました。やがて治療の流れがわかると診察中もじっと座れるようになり、拘束はなくなりました。ただ私の中では「暗室=す巻き」というイメージがあって、今でもちょっとトラウマというか、暗所恐怖症ぎみなところがあります。
──他にはどんな記憶がありますか。
北條 私は活発なほうで、体を動かすのが好きな子でした。だから検査後「もう歩いていいよ」と言われたらすぐ走り回って、点滴の針が抜けてスリッパが血まみれになってしまい、よく怒られました。
定期的に入院していたので、病院生活も日常の一部のような感覚で。看護助手さんがタオル交換するのを手伝ってみたり、新人のスタッフさんを他の方に「この人、新しく来た〇〇さんで~」と紹介したり、勝手知ったる感じで自由にやっていましたね(笑)。

──11歳で検査入院はいったん終了?
北條 そうですね。その歳でやっと余命宣告がなくなり、親も喜んでいました。
──余命宣告を受けていたんですね。
北條 目のがんが他の部分に転移する可能性もあったので。私自身は知りませんでしたが、生まれて数年は「10歳まで生きられるかどうかわからない」と、病院から親に余命が伝えられていたらしくて。それが11歳になった頃にがん細胞の活動が止まり、ひとまず大丈夫となったみたいです。
──小さい頃の写真を見ると、メガネと眼帯をしています。
北條 今は調子がいい日で視力0.02くらいが限界ですが、子どもの頃はメガネをかければ0.05くらいあり、それでどうにか生活していました。眼球を摘出した左側には、いつも貼り付けるタイプの眼帯をしていました。
──周りの子に何か言われて嫌な思いをしたことは?
北條 私は障害者向けではなく普通の民間保育園に通ったので、水遊びの時間などに眼帯が蒸れたり、濡れてはがれることがあったんです。それを見た男子に「目なし」と言われたことがありました。

でもそういう子に限って、先生たちの前では私のフォローを頑張っているように見せるんですよ。女子からも、先生がいないところで仲間外れにされたことも。「一緒に遊ぼう」と向こうから誘ってきたのに、ついていったら「あれ、私もしかして外されてる?」と。
──子ども心に辛くなかったですか?
北條 4、5歳頃にはもう「自分には左目がない」という認識があったんです。だから何か言われても「うつる病気じゃないんだから、別にいいじゃないか」と思っていました。
──「目なし」と言われたり仲間外れにされたことを、ご両親には話しましたか。
北條 あまり言ったことはないですね。というのは、私の親は子ども同士のトラブルに干渉しないタイプで、あるとき「自分の友達の問題は自分で解決しなさい」と言われたことがあって。それからは友人関係のことは親に相談できなくなり、寂しい気持ちはありました。
それでも何か言われたら、私はその場で「片目がなくてもうつらないよ」などと言い返していました。そういうやりとりは先生が親に報告していましたが、親から何か言葉をかけられることはほぼありませんでした。
──ご両親以外に、悩みを話せる家族はいなかったですか。
北條 一人っ子だったので、身近で頼れる人は親と祖母しかいませんでした。祖母は私をとてもかわいがってくれて、だからこそ「おばあちゃんを悲しませたくない」と思っていました。
実は、家から一番近い幼稚園には「障害のあるお子さんはちょっと……」と入園を断られたらしいんです。それで民間の保育園に入る前、家族から「たぶん、意地悪を言う子もいっぱいいる。それでも行くの?」と聞かれたんですけど、私は「行きたい」と言ったんですよ。そう言った手前、弱音を吐きにくい気持ちもありました。
──そのまま小学校も普通校へ。
北條 当時の私はメガネをかければ視力が0.05あったので、たぶん大丈夫では……という流れだったんじゃないかと。なので小学校も中学校も近くの公立校に行ったんですが、年齢が上がるにつれて辛いことが増えていきました。
〈「『汚い』『うつる』とバイキン扱い」0歳で左目を摘出した女性を襲った“残酷なイジメ” それでも「親には言わない」と頑なだった切ない理由〉へ続く
(前島 環夏)

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