その女性は離れて暮らす母親について、「正直、電話で1分話すだけでもつらいです」と話した。現在、富山大学へ通う儚さん(https://x.com/hkni_n)、23歳だ。現役のナイトワーカーであり、他方で『賃金と社会保障』(旬報社、2024年12月下旬号)への寄稿なども行う。日本の貧困問題について声をあげている若手のひとりだ。
自身の家庭は生活保護を受給しており、「大学へ進学した親戚がいない」環境から国立大学へ進んだ儚さんが断ち切りたかった貧困の連鎖と過去のトラウマに迫る。
儚さんは京都府に生まれた。地元の高校へ進学して高卒で働き、また同じ場所で家庭を築く――そんなループを「嫌だ」と感じたのには理由がある。
「そのループのなかにいれば、母が私を虐待したように、私も子どもを虐待して、その連鎖から抜け出せなくなってしまうと思ったんです」
そう語る儚さんの暴力の記憶は古い。彼女を日常的に虐待したという母親も、かつては被害者だった。
「私が覚えている父の姿は、酒に酔っていて、いつも母を殴っているんです。顔などは思い出せないのに、その姿は目に焼きついています。また、母は祖母から虐待されていたこともあって、虐待を躾だと信じているような節もありました」
儚さんが4歳くらいのころ、父親が寝た隙をついて母親と弟とともに夜逃げ同然で新たな生活を始めた。そのころから、被害者だったはずの母親から儚さんへの虐待が始まったという。
「殴る蹴る、包丁を突き詰める、熱湯をかけるなどの行為は割と頻繁にあって、『あんたなんか産まへんかったらよかった』などの言葉の暴力もありました。真冬に裸で外へ出される、夜中に突然冷水をかけられるなど、母の行動は常軌を逸していたと思います。母は何かの拍子に発狂すると、いつも『私ばっかり!』『私が一番しんどい!』と言っていました。今にして思えば、精神的に追い込まれていたのだと思います。
もっとも困ったのは、すべての生活が停滞していることでした。ガスや電気、水道などのライフラインが止まることもあって、お風呂どころではありません。料理はしないので調理器具も食器具もなく、いつもスーパーの半額のお弁当が夕食でした。母からは『風呂に入れないから学校へ行くな』と言われて不登校なったこともあります」
父親の怒号と凄惨なDV現場、そこから逃れた先で待ち受けた母親による虐待。そんな儚さんにとって唯一の逃避先は、紙とペンで描く絵の世界だった。
「はじめは、私が3歳くらいのころ、酔って荒れ狂う父から避難した別室で紙とペンを渡されたのだと思います。どんなに現実がつらくても、絵の中では自由です。私が描く父と母は、仲良しでした」
だがせっかく芽生えた「好き」の萌芽さえ、母親は捻り潰そうとした。
「絵を描くことが好きでしたが、母はいつも否定的でした。絵が学校のコンクールで選ばれて、表彰状を持ち帰ったときなどは、母はそれを見るなり破り捨てたのです。常に母は『公務員になりなさい』と言っていて、私が何に関心を持っているかは意に介さないようでした」
ややもすると自分の親は問題があるのではないか。そうした疑念を認めるのは誰にとっても難しい。だが儚さんは、すでに中学校3年生の時点で母親を客観視し、育った環境からの離脱を決意するほど見限っていたという。
「私の中高時代、母は働いていませんでしたので、生活保護を受けていました。周囲にもそうした環境の子がいて、結局だいたいの子が早いうちに妊娠して結婚して地元で子育てをして……というように貧困を再生産していくのがわかりました。
そこから抜け出すためには学歴をつけようと私は思いました。高校は特待生として学費免除で私立の女子校に入学し、経済的負担の少ない国公立大を目指しました。高校で茶道をやっていたことから、漆器などに関心を持ち、そうした分野の学部に進むことを考えて、富山大学を選びました」
後編記事『生活保護世帯からの大学進学は贅沢? 「貧困家庭」から大学進学した23歳女子大生の「切実な訴え」と「ナイトワーク」を従事する「納得の理由」』へ続く。
【つづきを読む】生活保護世帯からの大学進学は贅沢? 「貧困家庭」から大学進学した23歳女子大生の「切実な訴え」と「ナイトワーク」を従事する「納得の理由」