なぜ世の中の母親たちは出産を決断できたのか…30代既婚の私が列挙した「子供を産まない理由」

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ふと、「私って、どうして子供が欲しくないんだろう」と思い、Google スプレッドシートに「子供を産まない理由」を列挙してみたら、40個あった。
いつも、なぜ子供を産まないのかを人に聞かれたときには、「いろいろ理由はあるんですが、“なしの方向”で楽しくやっていけそうなので」といったふうにざっくり説明していたんだけれど、「いろいろ」の内訳が40個もあるとは――。そりゃあ一口に説明しにくいはずである。
理由のほとんどすべてはこの本の中で語られている内容で、「出産そのものに対する疑問・不安」「子育てというタスクへの不安」「母になることによるアイデンティティ喪失の不安」「子供を育てるうえでの社会への不安」「子供を持たないことで叶えたい生活」の5種類に分類できた。
スプレッドシートを眺めていると、もうどの角度から見ても産みたいと思えないじゃん……と、改めて気が遠くなる。
逆に、産んでいる人ってどうして産もうと思えるんだろう。これらの産まない理由をすべて解決できているから産んでいるのか? といえば、たぶん違うのではないか。
子供を育てている女友達何人かに「どうして産もうと思ったの?」と聞いた結果、共通していたのは「ツキちゃんが挙げているような『産まない理由』も全然分かるけど、そういうのと自分が『子供が欲しい』と思う気持ちは、つなげて考えてない」というものだった。
これが私にとっては衝撃的だった。
つなげて考えてない。
つなげて考えないということが可能なのか。
聞けば、「さまざまなネガティブ要素よりも、自分の子供に会いたい、母になりたい気持ちが勝った」結果であり、要は「なんとかなるほうに賭けた」ということだ。
さまざまな産まない理由を並べてみて、「やっぱり産むのはやめよう」となる私と、「そうは言っても子供を産みたい」となる人の違いは、一体どこにあるのだろう。
リスクよりも自分の気持ちを優先して動き、新しい人間をこの世界に生み出すという行為は、なんと輝かしいエゴだろう。「自分の子供に会いたい」という気持ちの、引力の強さに圧倒されて、眩しい。
彼女たちは、世界と自分と子供を信じているから、賭けに出られるのだろうか。
それとも、世界も自分も子供も信じられないまま、問題が解決しないまま、グレーゾーンのままで、それでも飛び込む勇気があるのか。
はたまた、そんな悩みをそもそも抱えないくらい、楽観的に生きられるのか。
子供を産んでも引き続き私と仲良くしてくれる女友達は、みんな「ツキちゃんは子供を産むことについて、すごくよく考えていて偉い」と言ってくれる。「私はそんなに深く考えずに産んじゃったから、ある種、無責任だと思う」とも。
彼女たちが自分の選択を後悔しているようには見えないし、私に対して謙遜してくれている面も少なからずあると思う。
でも、本当は深く考えずに産んじゃっても普通に幸せに暮らせる世界のほうが正しいのに、深く考えずに産んじゃうことに「無責任」のレッテルが貼られるのは、一体どういうことだろう。
以前出演した少子化に関するTV番組で、「子育てに関するネガティブな話題のほうがSNSなどでは拡散されやすい。子供を持つことで得られるいいこともたくさんある。そちらをもっと大きな声で言っていったほうがいい」と話す人がいた。
たしかに、SNS(特にX)を開けば、子供を産み育てることがいかにつらく苦しいのかという情報ばかり目につく。中には「外出中に何者かから抱っこ紐のバックルを外されて、子供を地面に落とすところだった」といった声もあり、明らかに悪意を持って子供と女性に加害しようとする者が残念ながら世間には存在していると分かる。
他にも、SNSでは家庭や職場などさまざまな場所で起こる子育ての苦悩が、具体的かつ熱量を持ってレポートされている。子供を産んだら全員が街でベビーカーを蹴られ、夫は育児に非協力的で、義父母とのあいだに軋轢が生じ、職場ではマミートラックに陥って肩身の狭い思いをするようになるのか? と思わされる勢いである。
これはもうSNSというものの特性で、ネガティブなことのほうが拡散されやすいようにできているのだから仕方がない。
人は、本当に嬉しいことや幸せなことはSNSには書かないものである。「SNSは愚痴の捌け口にしているけれど、実際は全然幸せ」という人や、そもそもSNSをやっていない人もたくさんいる。
しかし、「子供を持つことで得られるいいこと」を積極的に喧伝していくことは、果たして本当に効果があるのか? というと、少し疑問だ。
SNSに吐き出されている「子育てに関するネガティブなこと」は、何もSNSができたから発生したわけではなく、以前からあった声が可視化されるようになっただけなのではないか。
子供を産み育てにくい・女性や子供やマイノリティに冷たい社会であることはずっと変わらず、問題とみなされてこなかったり、声を上げにくかったりしたものが、SNSによって噴出しているのにすぎない。
「子育てっていいものですよ」と触れ回ったところで、実情が変わらなければ産んでから苦労する親が増えるだけである。それが「無責任」と糾弾されてしまうのが今の社会の空気で、やっぱり風当たりは強い。
ところで、子育て支援や少子化対策でなんとなく私たちが「お手本」と思っている北欧の国でも、なんと少子化が進んでいるらしい。フィンランドの合計特殊出生率は、2023年の速報統計で1.26。日本の2022年と同じ数値である。
ジェンダー平等が世界的に見ても進んでいて、男性の家事育児参加率が高く、子育て支援政策が充実している国でも、子供を産もうと思う人は減っている。
これに対して、「ジェンダー平等とか子育て支援とか意味ないじゃん」と言ってしまうのは乱暴だし、これらには絶対に力を入れるべきだ。
しかし、この結果を見て私は次のように考えた。
「ジェンダー平等が進むほど、女性が子供を産まない選択も尊重されるようになり、やっぱり少子化になるのではないか?」
どんなに医療が発達しても、妊娠・出産に伴う体の変化や苦痛を全く経験せずに子供を誕生させることは、今のところ不可能だ。どうしたって人間の女性の胎内で新しい人間を育てて、外に出す必要がある。
その一連の流れは、普段保証されている体や心の自由を制限する要素を含んでいる。
「妊娠・出産は人間の尊厳が失われるようなことの連続だ」と子供を産んだ女友達が言っいた。子供を産むという行為は、どうしても女の人権を制限し、女の生命を危険に晒(さら)すことから逃れられないのだ。
この点に疑問を抱き、立ち止まるということは、高い人権意識やジェンダー平等意識の表れとも言えるのではないか。
そう考えると、少子化は本当に悪いことなのか? と疑問に思えてくる。
子供を産み育てている人たちが無責任だとか、人権やジェンダー平等への意識が低いとか思っているわけでは決してない。子供が少なくなれば、将来の生産人口が減って社会を維持できなくなり、困るのは老後の自分たちでもあるということも分かっている。
しかし、私の「子供を産まない理由」がなかったことにされて、女に生まれたのだから子供を産まなければならないのだ、と妊娠・出産を押し付けられる社会と、少子化によってさまざまなインフラが維持できなくなる社会と、どちらかしか選べないと言われたら、正直後者を選びたい。
それが利己的かと言われたらそうなのかもしれないが、そもそも、集団を維持するために自己を犠牲にすることと人権は、相性が悪い。
本当に、少子化は解決すべき課題なのか。
社会学者の赤川学(著)『子どもが減って何が悪いか!』(ちくま新書)では、本来それ自体に価値があるはずの「男女共同参画施策」を、少子化対策の「手段」として用いることの危うさについて論じられている。
ジェンダー平等は少子化になろうがなるまいが達成されるべきであり、子供が増えないことを前提とし、産む選択にも産まない選択にも中立な社会制度設計(=負担の分配)をするべきではないか、と。
「子どもの数は、減ってもかまわない。そのかわり、ライフスタイルの多様性が真の意味で確保される『選択の自由』と『負担の分配』に基づいた制度が設計されていれば、それでよいのだ。GDPで測られるような経済成長や豊かさが仮に減少したとしても、画一的なライフスタイルをほとんど強要され、不公平な制度を続けるよりは、少子化がもたらす負担を共有しながら、誰もが自ら望む生と性を謳歌できる社会のほうが、はるかにましだ」
女の人権を損なわずに妊娠・出産や子育てができる世の中を作ることと、少ない人口でも社会を維持できるような技術を生み出すことと、どちらが実現可能なのだろう。
産まない理由が並んだスプレッドシートは、これから行が増えるのか、減っていくのか――。たぶん増えていくんだろうなという気がしてならない。
———-月岡 ツキ(つきおか・つき)ライター・コラムニスト1993年生まれ。大学卒業後、webメディア編集やネット番組企画制作に従事。現在はライター・コラムニストとしてエッセイやインタビュー執筆などを行う。働き方、地方移住などのテーマのほか、既婚・DINKs(仮)として子供を持たない選択について発信している。既婚子育て中の同僚と、Podcast番組『となりの芝生はソーブルー』を配信中。マイナビウーマンにて「母にならない私たち」を連載。創作大賞2024にてエッセイ入選。———-
(ライター・コラムニスト 月岡 ツキ)

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