黄色い涙を流す幼女を看取った母の闘病手記

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難病で娘を亡くした書き手不明の母親の手記(筆者撮影)
胆道閉鎖症という難病により、20歳で亡くなった娘を悼むT医師の日記を読み込んだ前回記事(「娘の死から最期まで22年の日記に吐露された心情」)。そのT医師の妻Sさん(故人)は「胆道閉鎖症の子どもを守る会」に入っていた。
その縁でか、Sさんは同じく胆道閉鎖症で娘を亡くした、とある母親の手記を保有していたことが、遺品整理の際にわかったという。
T医師の日記の縁により、Sさんの次女から託されたその手記は、1冊のコクヨの青いB5キャンパスノートだった。経年を感じさせる黄ばみはあるものの、丁寧に保管されていたようで、反りやページの剥がれなどはない。表紙をめくるとその裏に1枚の便せんが貼られていた。
<お久しぶりです。 茉友香が逝ってもう半年。 本当に早いものです。 今やっと茉友香の短かった生涯をまとめました。 何か役に立ちたいと思い 皆さんで読んでもらいたいです 乱筆でかなり読みづらいと思います すいません。 私がいろいろ経験したこと等 また おはなししたいと思います。>
貼られた便箋(筆者撮影)
その次のページから、茉友香(まゆか)ちゃんの誕生を記した日記が始まる。日付は「昭和62年4月16日」とある。1987年。そこから茉友香ちゃんの4年弱の命が尽きる平成3年=1991年3月まで、我が子の様子と書き手の心情を中心に丁寧な記録が綴られていた。
手記に綴られた闘病の経緯は30年以上前のもので、その間にも医療は進歩している。ただ筆者もほとんど知らなかった胆道閉鎖症という病気の恐ろしさを伝えるために、本稿を執筆しようという思いに至った。
【画像8枚】4歳を目前に亡くなった茉友香ちゃんの闘病を綴った手記
胆道閉鎖症の子どもを守る会は、1973年5月に有志が立ち上げた患者とその家族の自助団体だ。ホームページにこの病気の概要が書かれている。
<肝臓と十二指腸との間にある胆道が何らかの原因で内腔が閉塞している病気です。 肝臓は身体のなかの代謝を司る臓器ですが、同時に胆汁を造り、これを胆道を通じて十二指腸に排泄します。胆汁は赤血球が古くなって壊れたときに生じるヘモグロビンから造られるビリルビンという黄色い色素や胆汁酸を含みます。胆汁酸は脂肪の吸収に大きな働きをします。 この胆道が詰まっていれば胆汁は肝臓の中にたまってしまい肝細胞を壊し、ビリルビンが血液の中にまわって黄疸が見られるようになります。(略)放っておくとやがて肝臓が次第に冒され、おしまいには肝硬変となり命にかかわる大変な病気です。わが国では一万人産まれると一人がこの病気になっています。>
いまだ根本の原因は分からず、国の難病指定を受けている。治療しながら成人を迎える人も少なくないが、症状が重く外科手術が功を奏しない場合は生後2~3年で命を落とすこともある。
茉友香ちゃんはこの病を抱えて生まれた。母である女性――仮にAさんとしよう――が残した育児日記の書き出しにはこうある。
<昭和62年4月16日 出産 予定日は4月3日でした。 でも陣痛らしきものはまったくなく 4月16日朝医師より 入院するように言われ 点滴で陣痛誘発剤を使い 午後4時ころより少しずつお腹がはってきました。(略) 朝6時28分待望の女児がうまれました 羊水がかなり少なかったのと少々難産だったため仮死状態ですぐ保育器にいれられました。 体重2630g 身長44cm 少々小柄でした。>
最初の手記(筆者撮影)
ようやく生まれた我が子だが、ずっと保育器に入れられており、数日間は対面すら叶わなかった。胆道閉鎖症(当時は先天性胆道閉鎖症=CBAと呼ばれていた)の疑いがあると告げられたのは1週間後のこと。翌日にようやく母子対面となったが、すぐに地域の大きな病院に転院するよう勧められた。
転院したのは、出産病院と同じ岐阜県内ながら自宅からは2時間半以上かかる国立長良病院(現・長良医療センター)。間もなくして病名が確定し、胆管の代わりの胆道をつくる外科手術が行われることとなった。
<何時間 泣き続けたか やっと手術がおわり もどってきました小さなからだに お腹に大きなガーゼがはられ もう痛々しくて、また左胸にIVH(※筆者注:静脈に栄養を輸液を流し込む治療法。そのチューブを指すと思われる) 手に点滴 鼻からチューブ モニターもつけられ 酸素ボックスにいれられてましたそばにいるだけで何もしてやれず 見ているのもつらく また泣くだけでした。でもこれからが大変なんだもしかしたら これでよくなるかもしれないんだあと何年生きられるのだろう。とにかく茉友香のために精一杯やってやろう茉友香は頑張っているのだ私がメソメソしていてはいけない がんばろう茉友香といっしょにCBAと戦おうと思いました>(1987年6月9日)
術後、一度は快方に向かい退院の話が出たものの、血中のビリルビンの数値が再び上がっていき、8月末に再手術が決定する。生後4カ月。母子ともに、転院したとき以外に外の空気を吸っていない。
<また点滴だめになり 手術まで点滴なし。 再手術することになったけど今度だめだったら・・・ 小さな身体で茉友香がんばっているのに 再手術しても完治するわけでもない。 それを思うともう今にでも茉友香と一緒に死にたいと考えた。何度も。 でも何もわからない あどけない茉友香をみていると 一生けん命 茉友香はがんばっているのに・・・ やるだけのことは やってもらう。>(1987年8月23日)
再手術の後も劇的な状態の改善はなかった。肝臓と脾臓が大きくなり、胆汁による黄疸で、全身の皮膚が黄色い。何も知らない人から「どうして?」と尋ねられたりした。いまだ退院の話もない。それでも年末年始を自宅で過ごすようにと、初めて5日間の外出許可が出た。
ようやく正式退院となったのは、それから半年後の1988年6月だ。茉友香ちゃんは生後14カ月。早い子ならよちよち歩きをしているほどの月日が流れていた。
<健常児とくらべるとかなり発育のおくれは目立ちます やっとおすわりができるくらいで はいはいも つかまり立ちももちろんできません。 毎日 病院のせまいベッドの中で育ってきたのだから健常児とくらべるのは問題外です。 でもやっぱり心の中では はやくたてるようになって 手をつないで いっしょに歩きたいと思っていました でも今は こんな状態だけど何よりも無事退院でき 元気な茉友香だけで十分です。>(1988年6月13日)
肝臓や脾臓は大きいものの、食欲はあり、テレビを見たり一人遊びをしたりするなど、普通の乳幼児のように振る舞う。義実家と実家の支えもあり、親子で花火大会に出かけたり、ハイキングに出かけたりもできた。ようやく穏やかな日常が訪れた。
<親子3人で新穂高ロープウェイへあそびに行く。 ロープウェイにのったり クマ牧場へ行った。 本当に今こうして茉友香と外出していることが夢のようである。>(1988年8月27、28日)
しかし、夏が終わって肌寒い季節に変わる頃から徐々に食欲が落ちていった。便が白っぽい日も続いており、胆汁がうまく排出されていない様子でもある。あまり深刻には捉えなかったが、体調を整える意図もあって再入院を決める。
<今回の入院は全身状態はそれほどわるくなく ただ食事がとれないために入院したので また食べられるようになったらすぐ退院できるというすごく軽い気もちでいた>(1988年12月11日)
この引用文からもわかるように、Aさんはしばしば振り返りの視点で記述している。「平成元年1月1日」との記述もあるので、元の日記帳があり、そこから要点を抜粋しつつ、後から清書した時に感想を書き加えたのかもしれない。あるいは、元の日記の空白に後から書き加えた可能性もある。いずれにしろ、このノートには2つの時間が流れていることになる。
元の日記帳から抜粋して書き加えた可能性も(筆者撮影)
入院は短期では済まず、約半年間に及ぶことになった。食欲が戻らないばかりか、鼻からの出血と下血が度々あり、命の危機となる血管の破裂すら疑うほど体調が悪化してしまう。
<ねつが下がらないため点滴をつける 夜下血する。 とうとう食道静脈瘤のための出血か。 はじめてのことでおそろしくて・・・>(1989年4月10日)
胆道閉鎖症では肝臓に血液が流れ込みにくくなることで食道静脈瘤ができることがある。また、ビタミンKの不足や血小板の減少によって出血が起こりやすくもなる。脳出血で命を落とすケースもあり、深刻な状態に向かう不安感が少しずつ高まっていることがノートから伝わってくる。
この間、Aさんは2人目の出産のために別の病院への転院も経験した。時間的な猶予がないこともあり、帝王切開での出産。2人目の我が子をゆっくり愛でる余裕もなく、茉友香ちゃんと、自分の代わりに付き添っている母が待つ長良病院に戻った。
誕生日を越えた頃、茉友香ちゃんの出血は次第に落ち着くようになり、つかまり立ちも覚えた。体重は9キロを上回り、身長も70センチを超えている。2歳児としては小柄だが、確実に育っている。急変の怖さはあったが、2度目の退院を決めた。
<いろいろ考えました。 でも○○先生(※筆者注:主治医)は帰れる時に帰った方がよい 病院にいても出血するときはする。 だめな時はだめだと言われました。 それでも親の私からみると病院にいれば何らかの手当はしてもらえるという考えがあるからまよいました 血液検査の結果はそれほどわるくはないけど 肝臓も状態は前回の退院時とみるとわるくなっていることはたしか。 食道静脈瘤がいつ破れつするのだろうとおびえながら それを覚悟しても退院。 茉友香には少しでも家庭ですごさせてやりたい。>(1989年6月16日)
義実家に帰ると、2人目の子がずいぶん大きく育っていた。Aさんがだっこしても泣き、義母に甘える姿を見てショックを受けもした。しかし、ようやく家族全員が揃った生活を始めることができたのは確かだ。
<茉友香のやきもちにはまったくこまった。 私が少しでも○○(※筆者注:2人目の子)をかまうとおこるし おもちゃでも茉友香のものをかしてやると とりあげたり たたいたりでもう大変。>(1989年6月23日)
しかし、今度の退院は5カ月で終わる。11月6日、恐れていた大量出血が起きたのだ。
<昼間は本当に元気であそぶ。 夜中突然ねていてせきこんだため だっこして背中を少したたいてやったら吐血した。 はじめてのことで びっくりしてもう自分でどうしたのかはっきりおぼえていない。 この日は実家の方にとまっていて 実母のところへあわててつれて行き 服が血だらけになっていたため着がえさせた。>(1989年11月6日)
吐血時の記述(筆者撮影)
朝方にも大量の下血。2時間半かかる道を「1分1秒でも早く」と願いながら、長良病院に向かう。
病院にたどり着いて一命を取り留めたものの、茉友香ちゃんは吐血と下血を繰り返している。数日後にはAさんの弟の結婚式に親子4人で出席する予定だったが、もはや望むべくもない。主治医からは「覚悟しておくように」とも言われた。
それでも今回もなんとか峠を越えることができた。ちょうどその頃、世間では胆道閉鎖症を患った1歳児・杉本裕弥ちゃんへの生体肝移植が話題になっていた。日本初であり、世界でも4例目の生体肝移植だ。ノートにも言及がある。
<このころ杉本裕弥ちゃん生体肝移植 生体肝移植について私は それで100%完治するのならすぐにでもやりたい。 でもまだ医学はそこまでいってない また傷つけて えらく痛い思いさせるのはあまりにも茉友香がかわいそう。 それよりも もっとよい薬ができることを願う。>(1989年11月22日)
手術は無事成功したものの、杉本裕弥ちゃんは9カ月後に急変して亡くなっている。そのことを踏まえて書いたものなのか、日付けのタイミングで書いたものなのかはわからない。
Aさんは血液検査のたびにビリルビンの値をメモしているが、体重も頻繁に記録している。ノートに残る茉友香ちゃんの最高体重は1万0815グラム(約10.8キロ)。1989年11月22日の記録だ。ここから少しずつ下降線を描くようになり、体調も悪化していった。
<体重 9660g 超音波検査で あきらかに腹水がたまっているとのこと>(1989年12月4日)
<電解質のバランスがくずれ カリウム不足で補正する。 少量の鼻出血。 このころはもうほとんどおすわりもできずねたきりのようになっていた せっかく ついこの間まではつたい歩きまでしていたのに>(1989年12月17日)
<とにかくぐったりしている 「まゆちゃん がんばって! えらいね」というと「うん」とうなずくだけで あとはまったくしゃべらない。>(1989年12月18日)
2歳の誕生日もクリスマスもケーキで祝うことは叶わなかった。鼻から入れたチューブからわずかなミルクを摂取する我が子。平成元年から平成2年に移るこの年は、年末年始の外泊もできなかった。家族や2人目の子のことも心配だが、身体はひとつしかなく、茉友香ちゃんに付き添う仕事は自分にしかできないと自分に言い聞かせる。
そして、1990年春の3歳の誕生日もケーキで祝うことはできなかった。絶食と吐血。発熱を繰り返し、身体中にチューブが差し込まれた状態が長く続いている。
ストレスのせいか夏頃には髪が抜けるようにもなった。絶食が続く日々。それでも食欲があることは、日々の記述から読み取れる。
<茉友香はNGチューブからミルクをいれるだけで 口からはまったくのんだりたべたりできなかった 大部屋では皆それぞれにごはんやおかしをたべたりしている 私はできる限り茉友香にみせないよう努力した。 しかし本人は自分はたべられないのに人がたべているのをみたがった。 親の私からみれば何とも残酷だった でもとにかく「みたい」といって 茉友香はきかずじっと人がたべているのをみていた。>(1990年8月14日)
入院中は病室の空き具合や茉友香ちゃんの体調の具合によって、複数のベッドが並ぶ大部屋と個室を行き来した。大部屋では同病と闘う子と付き添いの家族がいて励ましてくれたが、見舞い客を含めて人と接することも増える。あるとき、事情を知らない人が茉友香ちゃんを見て「生後何カ月ですか?」と聞いてきた。この頃、体重は7キロを切っていた。
茉友香ちゃんの状態は日に日に厳しいものになっていく。この頃のノートには血液検査の結果を淡々と記す日記が連続しているが、基準値が0.2~1.2mb/dLとされるビリルビンの項目には「28.4」や「30以上」といった桁違いの数字が記されている。意識が朦朧とするなかで茉友香ちゃんが流した涙は黄色かったとも書かれていた。
数値が並ぶ日記(筆者撮影)
<同じCBAの子があと2人入院していた 一人は1才半くらいで黄胆が強いという もう一人は8才くらいで ねつと黄胆。 2人ともみるからに元気そうでうらやましかった。 この2人の母親は茉友香を見て いずれ自分たちの子も茉友香のようになるのかとものすごく心配し おそれていた 私は何も言ってやることができず ただ「まだ元気そうだからだいじょうぶですよ」というのが精一杯だった。>(1990年12月19日)
平成2年の年末も一時外泊の選択肢はなかった。状態は厳しい。それでもまた回復して、退院できることを願った。
急変は平成3年=1991年の2月末に訪れる。身体中からの出血が見られ、茉友香ちゃんの呼吸が明らかに普通でなくなった。緊急で酸素テントに入れ、輸血する。少し長めだが、この日の日記をすべて引用したい。
<下血 9回 輸血 約1000cc 呼吸が一段とわるくなり メイロン、カルチコールを点滴からいれても効果ない。 ○○先生に今度こそ本当に覚悟するように言われた 人工呼吸器をつけても数時間もてばよいと言うことだった でも母親の私にはたとえ数時間でももつのなら 心臓の動いているうちは反応がなくてもそばにいたかったため 夜呼吸器をつけてもらった。 意識がまったくなくなる30分くらい前に 茉友香は「おうちへ帰りたい」と一言いった。 それ以後は一言もしゃべらず挿管して10分くらいで自発呼吸もなくなり 瞳孔も開き 目もとじなくなり 本当にただ心臓だけが動いていた 挿管すれば呼吸が楽になりもとにもどるとばかり思っていたのに この時ほどショックは大きかった。 もうしゃべることもわらうこと、泣くこと、動くこと 何もしてくれない。 そばにいて「まゆちゃん」と呼んでも何も反応してくれない。 それでもまだ茉友香は生きている 心臓は動いている。 まけてはだめ 茉友香がんばって。 一生けん命 手足をさすったり頭をなでたりしました>(1991年2月28日)
「おうちへ帰りたい」
そう話した茉友香ちゃんはそれから意識を戻すことなく、1週間後の3月6日に亡くなった。
茉友香ちゃんが亡くなった日の日記のページをめくると、日付のない長文が書かれている。それがこのノートの最後の記述だ。
<今こうしてたった3年10ヶ月と17日の短かった茉友香の一生涯をまとめてみました 本当に毎日毎日がCBAとの壮絶な戦いでした 思いだすのは ただただ苦しんでいる茉友香の顔だけです 楽しかった日の思い出なんてほとんどありません CBAと宣告をうけた時は大変な病気だとは知らされてましたが はなしに聞くのと現実はまったくちがいます(略) 本当に最後は医師と看護婦にかこまれ 私はただ部屋の片すみで泣いているだけでした。 今思うと茉友香の死に対して にげていたのかもしれません 心の中でぜったい助かると思い願いつづけながらも 死というものをみとめたくなかった。 もっとそばにいて最後まで手をにぎっていてやればよかった。 後悔しています。(略) 現実とは本当にきびしいものです。 でもにげることはできません 何事も正面からぶつかっていくのです。 何に対しても一生けん命やる。 すべて茉友香からおしえられました。 今私は この現実、茉友香の死から一日も早く立ちなおるようがんばっています。>
最後の見開き(筆者撮影)
50枚綴じのB5ノートはあと10枚ほど残されているが、すべて白紙だ。そこまでに書き込まれた40枚、80ページに3年10カ月と17日の闘いが凝縮している。
このノートの記事を書くにあたってAさんに連絡をとりたいと思った。日記にはAさんの氏名はなく、ノートから情報を得ようにも、病院や実家の記述から岐阜県の南方で暮らしていることくらいしかわからない。しかも30年以上も前の記述だ。ノートを託してくれたSさんの次女も、ノート以上のことは何も知らないという。
それでもこの魂のこもった日記を「何か役に立ちたい」「皆さんで読んでもらいたい」と書き上げたAさんは、おそらく今もどこかで生活している。
長良病院が母体のひとつである長良医療センターに尋ねると、さすがに30年以上前のカルテは辿れないという。当時の主治医も姓しか記載がなかったこともあり、その後を調べることはできなかった。新聞記事や雑誌などで、当時のこの病気のエピソードを調べてもAさんや茉友香ちゃんに繋がりそうな情報は得られなかった。
残る頼りは「胆道閉鎖症の子どもを守る会」だ。ノートを手にした経緯とともに茉友香ちゃんの名前と病院名、生没年を伝えたところ、多忙な合間を縫って過去の名簿を調べてくれると言ってもらえた。
そして数日後、Aさんと電話で話すことができたと連絡をもらった。Aさんはすでに守る会から離れていたが、会員当時の携帯電話を今も使っており、何度か発信したところついに通話ができたという。住まいも当時と変わっていなかった。当時の電話を解約していて、引っ越ししていたら、連絡を取れる手段は完全に失われていた。
後日、筆者もAさんと電話で話すことができた。
Aさんはノートを「胆道閉鎖症の子どもを守る会」に託したことも忘れていたという。書いた記憶はあり、どこかで紛失、もしくは処分してしまったと思っていたそうだ。
Aさんは病院での生活が続くなか、同病で苦しむ子どもたちの親と一緒に同会に入会。茉友香ちゃんが亡くなった後は精神的なショックと身体の負担が重なって、半年ほど入院したという。入院中の日記をノートにまとめたのはその後のことのようだ。
「ずっと茉友香の後を追うことを考えていました。茉友香のところに行きたいというのはずっとあって。退院して、やっと立ち直りかけたのだと思います」
完成したノートは、同じ苦しみを抱える人たちに読んでもらうために「胆道閉鎖症の子どもを守る会」に託した。そのノートが巡り巡って、T医師の妻であり、胆道閉鎖症の娘を持つSさんの手元に渡ったということらしい。AさんとSさんとの面識はなかったのだ。
いまAさんは日記をつけていない。綴っていたのはあの3年10カ月と17日間だけだ。30余年の時を経てそのときのことを記したノートが現存していることを知ったAさんは、手元に置きたいと強く思ったという。
この記事のプリントアウトとともに、ノートをAさんにお返しする手筈は整えてある。社会に託された闘いのノートは、再び持ち主のプライベートな所有物へと戻っていく。その前に全文を読ませてもらえたこと、記事を書かせてもらえたことを感謝したい。
書き手の元に戻る闘いのノート
(古田 雄介 : フリーランスライター)

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