〈「懐に拳銃を忍び込ませ、車で銀座に向かった」“伝説のヤクザ”が力道山の殺害を計画…安藤組組長・安藤昇が起こした「力道山事件」の顛末〉から続く
昭和のヤクザ史に名を刻んだ“カリスマヤクザ”安藤昇。「安藤組」を立ち上げて昭和の裏社会と表社会を自由に行き来し、数々の伝説を残した。安藤組解散後は俳優に転身し、映画スターとして活躍。そんな安藤昇の一生を記した作家・大下英治氏の著書『安藤昇 侠気と弾丸の全生涯』(宝島SUGOI文庫)より一部を抜粋し、安藤昇と女優・瑳峨三智子が男女の関係になった経緯を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
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昭和のヤクザ史に名を刻んだ“カリスマヤクザ”安藤昇 文藝春秋
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映画俳優安藤昇の女性のモテ方は、やはり尋常ではなかった。
無数の艶聞(えんぶん)のなかでも、女優瑳峨三智子(さがみちこ)との恋愛は大きな話題を世間に提供した。
この時期、瑳峨は安藤昇主演作品に出演することになる。
もちろん、当時の瑳峨三智子は、名女優山田五十鈴(やまだいすず)を母に持つ類い希な美貌と将来性を持った女優であったが、重要でない役への配役も多かった。かならずしも瑳峨本来の精彩を放っていたわけではなかった。
安藤との接点は、瑳峨が太平洋テレビの所属女優だったことに始まる。当時の瑳峨は、三十路超えの女盛りであった。
2人の出会いをセットしたのは、太平洋テレビの清水昭(しみずあきら)社長であった。清水は、2人が同じ太平洋テレビ所属俳優ということで、一度は顔を合わせておいてもいいだろうという軽い気持ちであった。
瑳峨は、初めいやがった。が、安藤のほうは、瑳峨を女優として尊敬していたので、「ぜひに」と言ったという。
しかし、安藤と会うことに乗り気でなかった瑳峨は、いざ安藤と対面するや、その考えを一変させる。つまり、瑳峨のほうが安藤に惚れてしまったのである。
当の安藤にとっては、瑳峨は5、6人いる愛人の1人、つまり「ワン・オブ・ゼム」にすぎなかったのだが……。
そもそも安藤からすれば、瑳峨タイプの女性に熱をあげることはなかった。とはいえ、安藤は、現在にいたるまで、どんな女性に対しても自分から惚れて、追い回したことがないというのだから、瑳峨三智子への評価がかならずしも低いわけではない。
どんな男でも、あの妖艶な瑳峨三智子に迫られて、断る者はまずいまい。安藤ならではの、山の手の江戸っ子特有のストイシズムとハニカミから「嫌ではなかった」というわけであろう。
昭和42年(1967年)当時、瑳峨は、渋谷区松濤(しょうとう)に200坪の敷地を持つ、大使館級の2階建の豪邸を借りて住んでいた。部屋は洋式で、2階の寝室は20畳ほどあった。2階にはそれ以外に2部屋ほどあった。女中もいた。瑳峨の愛車は、流線型で近未来を思わせるフランスの高級車シトロエンDSだった。
安藤はいまでも、車体が上下する様子を印象的に覚えている。しかし、そのシトロエンも瑳峨が運転するわけではなく、専用運転手がいた。そのころ瑳峨は、仕事量も減っていたはずだが、不思議なほど優雅な暮らしぶりであった。
付き合い始めた当初、安藤は、瑳峨に経済的な援助をすることはなく、なにからなにまで至れり尽くせりの厚遇を受けていた。
じつは、その松濤の豪邸の賃料は、十数万であったといわれる。いまの80万円ほどであろうか。
そのほかにも瑳峨の金遣いは荒く、青山の某美容室に約10万、京都・都ホテル数十万、ハイヤー会社40万、宝石店85万、呉服店数十万など、すべて太平洋テレビに請求書が回されていたともいわれる。皮肉なことに、瑳峨のとびっきりの優雅さは、のちに泥仕合を演じる清水昭社長が支えていたわけである。
それはそれとして、安藤と瑳峨は、特別な信頼関係を深めていった。ある日、安藤は、瑳峨に薬物乱用の噂について、率直に訊いてみた。
「なんで、薬をやるんだい?」
瑳峨は、噂をきっぱり否定した。
「いいえ、麻薬なんかやってないわ。ただ、子供の時に乗馬をして、足を折ったの。足の痛みがあんまりひどいから、痛み止めの薬を飲んでいたら、それが癖になっちゃったのよ」
不思議と安藤が瑳峨の家にいるときに、瑳峨が薬を飲んで酩酊している姿や、うずくまるところを見たことがない。松濤の家では、静かに寝ていることも多かった。
むしろ、甲斐甲斐しく尽くす瑳峨の姿が、安藤の目を惹いた。朝になれば、安藤に新聞を持ってきた。料理も、当時としては珍しいアスパラガスを調理して出した。瑳峨は、安藤に尽くすのが、楽しくて仕方ないという感じだった。
しかし、安藤と嵯峨には、波乱が待ちかまえていた……。
昭和42年6月17日、工藤栄一(くどうえいいち)監督『日本暗黒史血の抗争』が公開される。安藤昇と瑳峨三智子が共演した映画である。
『日本暗黒史血の抗争』は、安藤が瑳峨の出演を製作者側に要請した結果、久々に瑳峨がスクリーンにカムバックできたのである。安藤は、斜陽になりつつあった瑳峨三智子になんとか復帰してもらいたかった。
『日本暗黒史血の抗争』撮影中の昭和42年5月24日は、安藤41歳の誕生日だった。その夜、瑳峨は、京都の安藤の独り暮らしのマンションに、バラの花とジョニ黒と、肉や野菜を買い込んでやってきた。
マンションの狭い台所に立って、瑳峨は自分で料理を始めた。安藤は、瑳峨がトントンと野菜を刻んでいるその後ろ姿を見てあらためて思った。
〈やはり、とかく噂がある女優とは程遠いなあ……〉
瑳峨は、安藤がタバコを吸いたいなと思うと、以心伝心でスッとタバコをもってきて火を点けた。安藤は、瑳峨の女性らしい細やかな情感にあらためて惹かれた。その夜も2人は、激しく愛し合った。安藤は、少女かと思うような細い、セクシーな瑳峨の華奢(きゃしゃ)な身体を抱きしめた。すると、そのまま骨が折れてしまうのではないかと不安になるほどだった。一見クールな瑳峨だが、ベッドの中ではとにかく激しかった。
昭和42年6月17日公開の『日本暗黒史血の抗争』の撮影が終わったころ、瑳峨は、それまで住んでいた渋谷松濤から東京都武蔵野市の吉祥寺に住まいを移していた。
そのころ、瑳峨の身体は、ますます病魔に犯されていた。それもあり、仕事に穴を空けることが増えた。
〈「京都の芸者とも関係を持っていた」“伝説のヤクザ”がセレブ女優と交際→浮気発覚…安藤昇と瑳峨三智子が“大恋愛”の末に破局したワケ〉へ続く
(大下 英治/Webオリジナル(外部転載))