世界でただ1人「希少種ゴキブリ研究者」の実態

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知られざる「ゴキブリ研究者」の日常とは(写真:den-sen/PIXTA)
ゴキはゴキでも、その辺にいるゴキではない。沖縄のやんばるに生息する「クチキゴキブリ」に魅せられ、世界でただ1人その研究をしている人がいます。行動生態学を専門とする大崎遥花さんです。
大崎さんの初の著書『ゴキブリ・マイウェイ この生物に秘められし謎を追う』では、ゴキブリ愛にあふれた研究生活がさまざまなエピソードとともに紹介されています。
同書から抜粋し、3回にわたってお届けします。
第1回は、「クチキゴキブリ」との出会いについてです。
毎年4月頃、那覇空港で重たそうに巨大なスーツケースとリュックを抱えて早足で歩く人間がいる。ハイキング帰りのような格好で、搭乗時刻ギリギリであるためとても急いでいる。一見ありふれた光景と思われるかもしれないが、そんな人間を見たら本稿の著者である私の可能性が高いので近づかないほうがいい。
なぜって?
巨大スーツケースもリュックも、ゴキブリでいっぱいだから。
ゴキブリといっても、そのへんにいるゴキブリを想像してもらっては困る。私が研究しているのはクチキゴキブリという、森林の奥でひっそりと暮らす害虫ではないゴキブリなのだ。
リュウキュウクチキゴキブリ(イラスト:筆者画)
特に生物に興味のない人が、ある日山に登りたいと思い立ち、登山の道すがらで目に留まった朽木(くちき)を突発的にボコボコに割り出したりすることなく生涯を終えるのであれば、およそ人生に登場することのない昆虫である。もっとも、著者のように朽木を割りまくる人生を選んでしまった場合はその限りではない。
一度、機内持ち込みしたリュックを抱えて離さなかった私を見かねたキャビンアテンダントの方に「中身は何ですか?」と聞かれたことがある。私は咄嗟に、
「……土です」
と言ってしまった。
しかし、弁明させてほしい。ここで正直に「ゴキブリです☆」などと元気よく答えてしまったら、キャビンアテンダントの方の精神が耐えられる保証がない。むしろ耐えられない可能性を積極的に考えたほうがよい。
もし、仮に、万が一、キャビンアテンダントの方が屈強な精神の持ち主で持ちこたえられたとしても、私の隣に座った乗客のメンタルが無事ではあるまい。その後約1時間のフライトをバイオハザードな恐怖に震えて過ごさせてしまうのは忍びないではないか。
もちろん、ゴキブリを入れている容器はすべて確実にロックできる構造のものを使用しているし、リュックをひっくり返したところで、1頭たりとも逃げ出すことはない。音も臭いもない。当然、機内持ち込み禁止物でもない。しかしそんな現実的な話は関係ないのが人間の感情というものだ。
そして、土が入っているというのはではない。ゴキブリは土を入れた容器に入っていたのだから。土の中にゴキブリがたまたますべての容器に混入していただけである……という詭弁をこねくり回したくなるが、当時、咄嗟に遠回しにをついてしまったことは反省している。
機内持ち込みせずとも、預け入れ荷物でクチキゴキブリたちが元気に手元に返って来ることがわかってからは、なるべく預けるようになった。
クチキゴキブリは読んで字のごとく、朽木の中に棲み、朽木を食べて生きているゴキブリである。彼らは、ふだん読者の方が遭遇しているであろう「屋内に出没する黒い影」とは違い、速く走れないゴキブリだ。
私は九州大学理学部に入学し、大学4年生で卒業研究を始めたときから、この本を執筆している現在に至るまでの約7年間、クチキゴキブリを研究してきた。日本には、九州・屋久島にエサキクチキゴキブリ、奄美以南にタイワンクチキゴキブリの合わせて2種のクチキゴキブリが生息する。
沖縄本島で採集できるのはリュウキュウクチキゴキブリ(タイワンクチキゴキブリの琉球亜種)であり、調査地のある沖縄本島北部に広がる豊かな森林「やんばる」まで毎年調査・採集に行くのである。
やんばるは、クロイワトカゲモドキやテナガコガネ、ヤンバルクイナなど沖縄固有の生物にあふれた生き物屋垂涎の場所だ(生き物好きの中でもある一線を越えてしまった人種を「生き物屋」と呼ぶ)。
クチキゴキブリは朽木を食べながらトンネルを作り、そこで家族生活を営んでいる。父親と母親は生涯つがいを形成し、一切浮気しないと考えられている、もしかすると人間よりも一途な生き物である。一生浮気せずに同じ個体と、という生き物は非常に稀であり、これだけでも研究する価値がある。
しかも、彼らは「卵胎生」という、卵が母親の体内で孵化(ふか)して子が直接お母さんのお腹から出てくる繁殖形態をとる。卵胎生はサメやダンゴムシ、マムシ、タニシなど、実は分類群を越えてぽつぽつ存在するが比較的珍しい。クチキゴキブリは交尾後約2カ月で子が生まれると、両親ともに口移しでエサを与えて子育てを行う。
両親揃って子育てを行う生態は鳥類などでは多く見られるが、昆虫ではこれまた非常に珍しい。成虫になった子は5~6月に実家の朽木から飛び立つ。私はこの成虫になる前の子を狙って、4月にやんばるへ毎年やってくるのである。
ゴキブリ目線で語るとなんとも恐ろしい存在だ。
しかし、安心していただきたい。何も親を殺して子を奪い取ろうというのではない。彼らは両親と子で構成されたコロニーで生活している、いわば核家族世帯である。私はその仲睦まじい家族を血も涙もなく引き裂いたりはせず、一家まるごと採集する。これで、まだ小さな子も親がいて安心だ。私もゴキブリがたくさん採れてうれしい。Win-Winである。
しかしうれしいことばかりではない。なんと私はゴキブリアレルギーになってしまったため、クチキゴキブリを素手で触ると無数の水ぶくれができてしまうのである。クチキゴキブリの脚には無数の棘があり、それが皮膚を貫通するのだ。脚の棘は刺さると血が出るくらい鋭い。薄手ゴム手袋もなんのその。
毎年ゴキブリシーズンになると、ゴキブリのハンドリングに一番よく使われる私の右手人さし指先端は鮮血がにじむ。こうして棘表面に付いたゴキブリ由来の怪しい物質(おそらく体表炭化水素など)が体内に入ってしまうと、翌日には立派な水ぶくれが皮膚の奥底からこちらをのぞいているので、こちらものぞき返す。たまに潰す。

ゴキブリアレルギーだったとしてもこんな人生を歩んでいなければ困りはしなかっただろうに、よりによってクチキゴキブリ研究者などという道を選んでしまったため、採集、実験シーズンは指がかゆくて仕方がない。
これは運命のいたずらか……と運命に責任転嫁したいところだが、こんなケッタイな病になったのは、これまで7年間クチキゴキブリをいじくりまわした自身のせいであることは明白で、ぐうの音も出ない。……ぐう。
私が初めてクチキゴキブリを知ったのは大学生の頃だ。昆虫採集に行った初めての南西諸島は2月の石垣島だったと思う。
石垣島にはタイワンクチキゴキブリ(原名亜種)が生息している。沖縄では馴染みのホームセンター「メイクマン」で今でも愛用している手鍬(てぐわ)を購入し、その新品の手鍬を朽木に向かってぽすっと一振り。そうしたら、ぽろぽろとクチキゴキブリが出てきたのだ。
このとき、コロニーにいる両親の翅(はね)がなくなっているのを初めて目の当たりにしたのである。どうして翅がないのだろう、と調べるうちに、クチキゴキブリの記載論文(新種発見を報告する、その種の特徴を記した論文)に「成虫の翅は欠損していることが多い」と書かれているのを読み、その断面の形状から「翅が齧(かじ)られているのでは?」と思うようになり、のちにこれはオスメスで食べ合うらしいと知った。
この「クチキゴキブリの雌雄が互いに行う翅の食い合い」こそ、私が2021年に初めて論文で報告し、卒業研究から現在まで続けている私の研究テーマである。ちなみに、クチキゴキブリ研究を現在遂行しているのは全世界で著者ただ一人だ。その意味では、私もやんばるの生物と同じく希少種である。
(大崎 遥花 : クチキゴキブリ研究者)

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