昭和から平成へ――1988(昭和63)年から89(平成元)年にかけて、日本中を震撼させた連続幼女誘拐殺人事件、通称「宮崎勤事件」。当初、埼玉県内で犯行を重ねていた宮崎勤死刑囚(2008年6月17日死刑執行、享年45)は、隣の東京都(警視庁)で犯行に及んだことで、警視庁捜査第一課に追われ、逮捕されることになる。昭和最後の年に起こった残忍非道な事件の結末とは……。
【全2回の第2回】
【写真を見る】昭和から平成にかけて、列島を震撼させた重大事件…宮崎死刑囚の自宅写真や現場検証の様子など
かつて、毎年6月6日に東京・深川のある飲食店で警視庁のOB・現職による、会合が開かれていた。「117会」と称する会には数十人が出席する。そして、“昭和最後の年から平成をまたいだ重要凶悪事件”の発生日時である午後6時になると、出席者全員で静かに黙とうを捧げた……。
平成元年6月6日午後6時ごろ、東京都江東区に住む保育園児Dちゃん(5)が「友達の家に遊びに行く」と言ったまま行方不明になった。家族や近所の住民で探したが見つからない。午後8時40分ごろ、母親が近くの交番に届け出た。
幼女が外出したまま、自宅に戻らない――届けを受けた所轄の深川警察署は、独身寮に住む警察官に非常呼集をかけ、誘拐事件を担当する捜査第1課特殊班から異動してきたばかりの刑事課長は、すぐにかつての同僚に連絡を入れ、Dちゃん宅に「秘匿潜入」を試みた。現場周辺には運河がある事から水上警察署の警備艇や、警察犬も動員……しかし、Dちゃんは見つからなかった。翌7日、居並ぶ幹部を前に、深川署長はこう言った。
「埼玉の事件も視野に入れて、捜査した方がよいのではないか……」
この“予感”が的中するのは、5日後のことである。「埼玉の事件」――前年8月から埼玉県西部で幼女3人が相次いで行方不明となり一人は遺体で発見、一人は遺骨を焼かれて段ボール箱に詰めて被害宅に送りつけるという、異常な事件である。 捜査第一課から殺人担当の捜査員、鑑識課員も派遣され、Dちゃんの最後の目撃情報のある現場一帯で指紋採取や、たばこの吸い殻などが押収された。捜査員はもちろん、鑑識課員も活動服ではなく、私服だった。この時点でもまだ身代金目的誘拐の可能性は捨てきれない。どこかで犯人が現場周辺を観察し、警察の動きを察知されては困るからだ。
ここで投入された捜査第一課殺人犯捜査第5係長は、小野田賢二警部。このシリーズで紹介した「深川通り魔殺人事件」で、捜査第1課特殊班員として犯人・川俣軍司を逮捕した、警視庁が誇る特殊班捜査のプロフェッショナルだが、この事件で殺人担当の係長として、後に戦後犯罪史に名を残す捜査を担当することになる。
宮崎死刑囚はDちゃんに対し、「写真を撮ってあげる」と声をかけ、車に誘い込むとその場で首を絞めて殺害。2日後の6月8日午後11時ごろ、自宅内の自室でDちゃんの遺体をノコギリで頭部、両手、両足を切断。同日午前0時ころに飯能市内の霊園にある簡易トイレのそばに胴体部分を、他の部位を五日市町(現・あきる野市)内の杉林に遺棄した。
6月11日。飯能市内の霊園に墓参りにきた会社員が、何も着ていない幼女の胴体部分の遺体を発見、飯能警察署に届け出た。同署には、Cちゃんの「誘拐殺人合同捜査本部」が設置されていた。何も着ていない幼女の遺体――Cちゃん事件との共通項もあり、すぐに遺体の司法解剖が行われ、行方不明になっていたDちゃんとの照合も行われた。翌12日、遺体はDちゃんと断定された。
一連の事件の犯人が東京へ進出した……。捜査はより大規模な展開を見せる。
〈警察庁の指導調整により、栃木、茨城、群馬、神奈川、警視庁の各警察から、事件の主要舞台となっている埼玉県警へ三次にわたり応援部隊が派遣された。警視庁と埼玉県警では、遺留品捜査、前歴者捜査、地取り捜査等を推進したが、犯人に直結する情報の入手には至らず、捜査は長期化した〉(警察庁の教養資料より)
「少女対象の誘拐、わいせつ事案は、必ず深川特捜本部との関連を追及せよ」
警視庁管内98署(当時)に刑事部長名の内部通達が出され、類似事件への捜査が徹底された。その結果、被疑者検挙が相次いだものの、本丸の被疑者逮捕には至らなかった。だが、組織として警察が総力を挙げている時、犯人が動けば必ずその網の中にかかる――宮崎死刑囚はそのセオリーを無視してしまう。
Dちゃんの遺体発見から1か月半後の7月23日、八王子市内で幼女に対する強制わいせつ事件の被疑者として一人の男が逮捕された。午後4時35分ごろ、9歳と6歳の姉妹が遊んでいた公園に男が現れ「写真を撮らせて」と近づいた。不審に思った姉が父親に連絡するためにその場を逃げたが、男は妹を連れ出し、約10メートル離れた沢辺で「水着に着替えて」などといって、何も着ていない妹の写真を撮影した。姉からの通報を受けた父親が現場に駆け付け、逃げる男を追跡し、車に乗って逃げようとしたところを捕まえた。この男こそ、宮崎勤死刑囚だった。犯行現場は、AちゃんとBちゃんを殺害した現場の近くだった。
幼女が関連する事件はどんな些細な事案でも深川特捜へ連絡――八王子署から検挙報が届いたのは翌24日、その翌日には特捜本部から捜査第一課員が八王子署に出向いている。しかし、捜査員の最初の感想は「どちらかというと、違うのではないか」だったという。
まず、宮崎死刑囚の乗っていた車が日産ラングレーだったこと。【第1回】でも紹介したが、埼玉県警はカローラII、警視庁は黒のプレリュードを犯人が使用した車と見て、集中捜査していた。また、宮崎死刑囚の自宅と、Dちゃん事件の現場は、同じ東京都といっても距離がある。さらに、現場周辺の駐車車両約2100台、そして付近を走る高速道路のNシステムの解析から車両捜査を展開しているが、宮崎死刑囚の車はヒットしない(後の捜査で、同死刑囚は高速代でビデオを買いたかったので、一般道を走って現場に向かったと供述)。
〈手口・生活環境等の検討から、一連の幼女誘拐殺人事件との関連性を重視し、警視庁捜査第一課員の応援を受けて、自宅等の捜索を実施した。その結果、被疑者(注・宮崎死刑囚)が使用していた車両のトランク内でルミノール反応があったため、より慎重な取り調べを継続した〉(前出・資料)
8月10日。西多摩郡で飲食店を経営していた男性は、朝から異様な光景を目の当たりにする。吉野街道わきの杉林に十数人の男たちが現れた。警視庁捜査第一課員だった。同街道から1.5メートルほど入った山を越え、うっそうとした木が生い茂る山林の大木のそばに、頭髪をむしられたDちゃんの頭部があった。宮崎死刑囚の自供通り、未発見のDちゃんの遺体の一部を発見した瞬間だった。
昭和最後の年、埼玉県入間市のAちゃんが姿を消した63年8月22日からおよそ1年後の平成元年8月11日、宮崎死刑囚はDちゃん事件の容疑者として警視庁によって逮捕された。その後、Aちゃん、Bちゃん、Cちゃん事件も全て自供。「今田勇子」名で犯行声明を送ったことも認めた。9月1日、警察庁は一連の事件を、特別捜査を行う広域重要事件として「警察庁指定第117号事件」に指定した。
最初に遺体で発見されたCちゃんの服を脱がせ、後ろ手に縛って遺棄したことについて、宮崎死刑囚はこんな供述をしている。
「生き返られると困るので遺体を縛り、化けて出ては困るので衣類を四方にすてた」
後の法廷でも「ネズミ人間が出てきた」などと意味不明の供述を行い、本人とは別人格が犯行を重ねたとする「多重人格」が争点になることもあった。だが、捜査段階での調べでは聞かれたことに素直に応じ、終始、落ち着いていたという。だが、
「トイレや入浴時に、他人に自分の下腹部を絶対に見せないなど、羞恥心が強い一方で、女性の下腹部などに対する関心は人一倍強い。幼女を誘拐した主目的が、わいせつ目的であることを本人の口から語らせるのに時間はかかった」(当時の警視庁捜査員)
女性は好きで興味はある。でも成人女性は接しにくい。幼女なら言う事を聞く。さらに殺してしまえば(死体は)完全に自由になる――詳細は省くが、宮崎死刑囚の犯行態様は異常という言葉だけでは片づけられない内容だった。この事件の余波で「オタク」「ロリコン」「(死体解体などの)ホラービデオ」が社会問題化した。
昭和から平成へ、時代が変わる時期に起きた凶悪事件……最後に、当初から一貫して捜査に従事した埼玉県警捜査員の述懐を紹介したい。
「いくつもの死体を見慣れている捜査一課の捜査員が、被害者の遺体写真を見て長時間、号泣した姿を忘れることはない。あの酷暑の中、被害者の遺体を一刻も早く見つけ出し、遺族のもとへ帰そうと捜査に従事した埼玉県警、警視庁の捜査員の努力は凄まじいものがあった」
【第1回は「『女の子がひとりでいるのを見た瞬間、今なら“盗める”と思った』 幼女4人の命を奪った『宮崎勤』が被害者宅に送りつけた『遺骨入りの段ボール箱』」埼玉県で相次いで幼女が行方不明に。そして被害者宅に……】
デイリー新潮編集部