〈「死のう!」と叫ぶ男たちが「皇居前」「国会議事堂」でいきなり割腹を始め、慌てた特高警察は…昭和の衝撃テロ「死のう団事件」の黒幕〉から続く
平和の国、日本。しかし、昭和の日本は戦前・戦後を問わず世間を揺るがすテロ事件が数多く起きていた。例えば1969年には、新年参賀でにぎわう皇居で「元殺人犯」が昭和天皇を襲う事件が発生している。『日本を震撼させた昭和のテロ事件』(宝島SUGOI文庫)より一部抜粋し、お届けする。(全3回の2回目/前回を読む/続きを読む)
【画像】「皇族ポルノ写真」をばらまいた“元殺人犯”の顔
祝賀ムードが漂う皇居で、昭和天皇を狙ったテロが発生した w.mart1964/イメージマート
◆◆◆
1969(昭和44)年1月2日、新年参賀の日。皇居前には約1万5000人の群衆が集まっていた。皇居前皇居長和殿バルコニーに姿を見せた昭和天皇に向け、その群衆のなかからパチンコ玉が発射された。
「ヤマザキ、天皇を撃て」と叫んでパチンコを発射した中年男は、バッテリー商・奥崎謙三。ヤマザキとは奥崎の戦友の名前である。
パチンコ玉は当たらず、天皇は無事だった。奥崎は暴行の現行犯で逮捕。過酷な戦争体験を背景に、特異な思想を持つに至った奥崎は、のちに「ゆきゆきて、神軍」「神様の愛い奴」といったドキュメンタリー映画で一躍有名になった。
先の大戦におけるニューギニア戦線に従軍した奥崎謙三は、幾多の生命の危機を乗り越えた。敵兵ばかりか、飢えとマラリアが迫り来る状況下で、続々と戦友たちの命は奪われていく。奥崎自身も右手の小指を失った。そうしたなか、奥崎は奇跡的に生き延びたのである。
銃殺される覚悟で敵軍の捕虜となったが、その扱いは予想外に穏当なものだった。「貧しい家に生まれ育った私にとって、捕虜の病院での生活が27年間の人生で物質的に最も多く恵まれ、豊かな心で毎日を送れた」(奥崎謙三著『ヤマザキ、天皇を撃て!』より)という。そうしたこともあり、天皇および日本の戦争に対する疑念と怒りが奥崎のなかに定着していく。
復員後、神戸にバッテリー商を開業した奥崎は、トラブルから不動産業者をナイフで殺害し10年の懲役に服することになる(1957~66年)。その独居房で昭和天皇の戦争責任に対する考えを先鋭化させていき、出所後、パチンコ事件を起こしたのである。
暴行罪が適用されたパチンコ事件の裁判において、奥崎サイドは被害者としての昭和天皇の証人出廷を請求したが、認められなかった。判決は1年6カ月だった。
この満期出所後は、天皇一家のポルノ写真をばらまいてわいせつ図画頒布の罪で懲役1年2カ月(1976~78年)。
そして原一男監督によるドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』のクランクインとなる(1982)。奥崎は戦地での人肉事件を追及の結果、元中隊長を殺そうと訪れるが不在で、代わりに息子を手製ピストルで撃ち負傷させる。ここまで映画の結末として収められ、殺人未遂などで懲役12年の判決。

映画を見れば一目瞭然だが、奥崎は確かに、奇々怪々な「電波」発信者だ。しかし、かつて大戦そのものが奥崎とは違う意味での「電波」が引き起こしたものではなかったか。
いま、八紘一宇が正しいと確信を持って断言したら、おそらく大多数の人がそこに「電波」を感じるのは必至。毒には毒を、電波には電波を……という奥崎の狂気じみた行動を、嘲笑したり見下したりして一蹴したくなる心理は、右翼と左翼の区別さえつかない平和下で弛緩した感性そのものである。
1997年に満期出所後はドキュメンタリー第2作目『神様の愛い奴』(監督・藤原章、大宮イチ)が撮影される。ニューギニア戦線の地獄を背負ったガチガチの奥崎を、ゆるゆるの時代に取り込もうとする意図が見えるのが『神様の愛い奴』の演出・構成である。

それは「時代への媚態」と言い換えてもいいだろう。思弁的で生硬な時代に逆行させることが正統だとは到底言えないが、少なくとも日本における「いま」を全肯定できるほど、世界の現状は甘くない。
昭和天皇にパチンコを発射した奥崎の怒りは、思想的立場はまったく逆でも、みずからの命を賭した潔癖な右翼の真剣さと間違いなく通底している。それは奥崎がニューギニアで、ゆるゆるな人生体験では得ることのできない痛みを身につけ生き残ったという、稀有な偶然がもたらした真剣さである。そんな真剣さは得てして滑稽に見えるものだが、一片の真実さえないと言い切れるものだろうか。
〈「危ないからお逃げなさい」河野一郎宅を焼き討ち、経団連を襲撃した末に朝日新聞社内で“拳銃自殺”…いくつものテロ事件を起こした「大物右翼」が見せていた“優しい顔”〉へ続く
(別冊宝島編集部/Webオリジナル(外部転載))