不妊治療の末、授かったわが子を死産した志賀志穂さん。子どもを亡くした圧倒的な喪失感を抱え、産めなかった自分を責め続けるつらい日々を過ごします。(全4回中の2回)
【写真】死産したわが子を向けたアルバムや火葬した日の様子など(全12枚)
── 42歳のとき、お腹の中で子どもが亡くなってしまったと聞いています。死産としてお子さんを出産されましたが、お子さんと対面されたときの状況について伺ってもよろしいでしょうか?
志賀さん:赤ちゃんの顔を見ると、ちゃんと笑顔だったんですよ。妊娠中、お腹の中で亡くなる前も、私よりも赤ちゃんのほうが痛くてつらい思いをしているんじゃないかと考えてすごく苦しかったのですが、対面したら笑顔の夫にとてもよく似ていました。死産した赤ちゃんは、亡くなった赤ちゃんが保管される部屋に入ります。翌日には火葬が決まっていたため、看護師さんにお願いして赤ちゃんを何度も抱っこさせてもらいました。
── 出産される前に、仕事は退職していたそうですね。
志賀さん:そこまで夫婦で望んでいた赤ちゃんなので、3歳くらいまでは子どもとのかけがえのない日々をていねいに重ねて暮らしていきたいと考えて、妊娠したときに退職しました。
── 出産後、赤ちゃんの火葬が終わり、病院を退院されます。そこからはどのような日々を過ごされていましたか。
志賀さん:自宅に戻りましたが、夫が出勤してしまうと日中はひとりぼっちでした。友人に会うと死産について説明しなきゃいけないことがつらいので、SNSもすべてやめてしまい、電話にも出ないから、心配した友人からハガキが届きました。さらに死産後、明るく振舞えない自分が許せなくて、親にすら会えなくなってしまいました。正直、当時の生活の記憶があまりないほど、憔悴しきっていました。
── 退院されてから、グリーフケアのためのグループに通っていたとか。
志賀さん:子を失った絶望で、生きる気力をすっかりなくしていました。死産は高齢な自分の身体のせいだとずっと責め続けて…。それでも、ずっと家にひきこもっていてはダメだと自分を奮い立たせ、死産の母親の自助グループに参加してみようと思ったんです。しかし、久しぶりに電車に乗ると小さな男の子がお母さんに鼻を拭いてもらっている姿を見て、つらさが一気に押し寄せてきました。同時にめまいと吐き気に襲われて、そのまま電車に乗っていられる状態じゃなくなってしまったんです。ひと駅乗っては次の駅で降りて、また乗ってと何度も繰り返しましたが、結局その日は時間に間に合いませんでした。その後も自助グループに参加しましたが、電車を途中で降りてしまうことが何度もありました。
不育症の検査も受けて異常なしと言われましたが、不妊治療の病院には、もう怖くてとてもじゃないけど近づけなくなってしまいました。
当時は自分が生きていることが許せなかったんです。子どもをちゃんと産めなかった母親の自分だけが生きていていいのか。泣きすぎて体中が裂かれるように痛くなって。でもそんな自分に対して、私よりも赤ちゃんのほうがつらい思いをしたんだと、涙を流す自分がずるい気がして、大嫌いだと思っていました。
── 志賀さんの亡くなったお子さんは、18トリソミー(18番染色体が余分にあることで引き起こされる染色体異常の一種)でしたが、13トリソミーのお子さんの写真展に足を運ばれたとか。
志賀さん:これからどうしていいかもわからず、救いを求めるように、同じく染色体の障がいがある13トリソミーの子どもたちの写真展を見に行ったんです。会場には、車椅子に乗って医療機器をつけた13トリソミーの女の子とそのお母さんが迎え入れてくれました。しかし、「なんでうちの子は産まれてこられなかったのでしょうか?あなたのお嬢さんはこんなにもかわいいのに!」と私は泣き崩れてしまったんです。
女の子は私の手を握って笑いかけてくれて。死産したお腹の子と同じ、優しい笑顔でした。ふと我にかえり、お母さんに謝ると「うちの娘を本気でかわいいと言ってくださる方がいるなんて、本当にありがとうございます!娘は今までかわいそうと言われても、羨ましがられることは一度もなかった」と怒るどころか喜んでくれました。
その帰り道。やり取りを見守っていた夫が突然、ひと目もはばからず「ぼくだって子どもを失った父親なんだ!子どもを失ったのは君だけじゃない」と言って、子どもみたいに泣きじゃくったんです。私はあまりの衝撃に涙も引っ込み、どうして私は、今までひとりぼっちで絶望のなかに閉じこもっていたのだろうと。帰宅後、「ちゃんと生きるって決めたよ。これからは亡くなったわが子にも誇れるような生き方をしていきたい」と夫に伝えることができました。
── その後、志賀さんご夫婦は里親になる決断をされます。写真展での親子との出会いから、どのような思いで、里親や特別養子縁組を選択されたのですか?
志賀さん:私が亡くなったお腹の子に誇れる生き方をしたいと言うと、夫が里親になろうと提案してくれたことが最初のきっかけとなりました。
でも、当時の私は、街で赤ちゃんを見ると死産がフラッシュバックし、とてもつらい時期でした。こんなに情緒不安定な私がちゃんとした親になれるのかと悩みましたが、夫が「ぼくたちのもとにくる、親と別れを経験した里子たちは、行き場のない悲しみや怒りを抱えている。死産を経験して、親子の別れがどれだけ人生を根こそぎ奪っていくものか心と身体で感じた君こそが、いちばん子どもたちに寄り添うことができる存在だよ」と。
私が抱えるつらい気持ちこそが、困っている子どもたちの助けになるのかと思えたらと、里親として一歩を踏み出してみようと思えるようになりました。そして私自身も、「死産を喪失体験としてだけではなく、未来につながっていく希望への兆し」と、徐々に捉え直すことができるようになって、心の内が変化していきました。
…
世の中には親と暮らせない子どもがいるなかで、自分たち夫婦を必要としてくれる子がいるなら育てたい。小さな命のバトンをつなぎたいと、志賀さんご夫婦は児童相談所で里親登録をし、新たな一歩を踏み出しました。
取材・文/松永怜 写真提供/志賀志穂