※写真はイメージです(写真: bee / PIXTA)
浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。
今回は双子の妹が現役で東京大学に合格した一方で、浪人を決断。1浪で京都大学農学部に合格したトコトコさん(仮名)にお話を伺いました。
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今回お話を伺ったトコトコさん(仮名)は、「双子」の姉です。妹であるノソノソさん(仮名)とは、同じ塾、同じ学校に通った優等生同士でした。お互いライバルとして意識しあっていたようですが、ずっと仲良しだったわけではないそうです。
しかし、東大を目指した妹が現役で合格し、京大を志望した姉は不合格に。そこでトコトコさんは浪人を決意します。受験結果では明暗が分かれましたが、それでも姉は妹の合格を素直に喜ぶことができました。
なぜ、姉は自身の不合格という結果を受けても、妹の合格を喜べたのか。浪人して京大を再び志望し、合格まで辿りつくことができたのか。お話を伺いました。
トコトコさんは埼玉県のシングルマザーの家庭に生まれました。母親の実家は居酒屋で、母はそこでスタッフをしながら、3つ年上の姉と双子の姉妹を女手一つで育てました。
幼少期は静かな性格で、同級生が遊んでいると、周囲の声の大きさに耐えられずにうずくまるような子どもだったトコトコさん。ピアノ以外の習い事は続かなかったものの、テストの成績はよく、勉強をあまりせずとも100点を取っていました。一方で妹も成績はよかったそうですが、活動的なタイプで、双子の姉とは趣味も興味も異なっていました。
「私は家で手を動かしたり、ビーズを集めたりするのが好きでしたが、妹はもう少しアクティブで、習い事としてソフトボールをやったり、外に遊びに行ったりするのが好きな子でした」
その中で、2人がどちらも好きなことが自然や農業でした。中学受験をせず、そのまま公立中学校に上がった2人は、科学部に入って、学校の裏庭で畑を耕したり、山に登ったりすることに興味を抱きました。
双子で農作業(写真:トコトコさん提供)
成績に関しても、2人とも小学校時代よりさらにアップ。最初に受けた模試では偏差値が30台だったものの、中学に上がる少し前から3つ年上の姉が通っていたスパルタの塾に双子で通い、勉強の基本的な方法を学ぶことができました。
中学校の最初の定期テストではどちらも1桁代の順位でしたが、それからはずっと2人で1~2位を独占したまま、中学校の卒業を迎えます。
高校受験では姉妹で別のところを受ける予定だったそうですが、結局は同じ学校を志望し、2人とも無事に合格しました。
「県内で1番の高校より少し下の県立高校なら、安心して合格できるし、学年でも1番になれるだろうと思っていたのですが、都内の名門私立女子校を受けようとしていた妹も直前で同じ学校を受けることになって、喧嘩になりました。
当時の私はアイデンティティの問題で悩んでいたので、高校を分けようとしていたのに『なんで同じ高校に行くの!』と(笑)。結局同じ県立高校に入ったので、高校では双子であることを隠そうとしたのですが、二卵性なのにそっくりだったので初日でバレてしまいました(笑)」
学年で400人程度いる進学校にともに進学した双子の姉妹。姉であるトコトコさんの入学試験の成績は学年で5位程度。それからも学年2~3位をキープし続けましたが、学年1位はずっと妹でした。
「中学1年生のころは私のほうが少し成績はよかったのですが、その時期に『私より成績が悪いね』って言ったら、妹の闘争心に火がついてしまったようで、中学2年生で逆転されました。それからは勝てなくなって、『妹のほうが勉強の才能がある』と素直に負けを認めるようになりました」
妹への感情を自分の中でも整理した彼女は、高校2年生の後半ごろに志望校を京都大学農学部に設定します。
「もともと、大学に行こうとはそんなに思っていなかったのですが、そこそこの進学校に通っていたので、みんな大学受験するものなんだと刷り込まれました。
最初は一人暮らしをしたかったので北海道大学や信州大学がいいなと思っていたのですが、うちの学校は難関大学を志望すると個別に先生方が答案の添削をしてくれる仕組みがあったので、一度、学校の行事でキャンパスを見学して魅力を感じた京都大学にしました。漠然と自然が好きだったので、受ける学部を絞っていったら農学部になった感じです」
高校2年生のときに学校で受けた模試での偏差値は70を超えており、最高学年になってから受けた京大の冠模試でもB判定が出ていたトコトコさん。
学力的には京都大学に合格してもまったくおかしくありません。しかし、彼女自身は到底合格すると思うことができず、受験を意識し始めた高2の冬ごろから受験本番まで、ずっと精神的に不安定だったそうです。
その理由は「周囲の人が自分より頭がよさそうに見えるから」でした。
「私の学校は高校3年生の秋にすべてのカリキュラムが終わる学校だったので、高校2年生で全カリキュラムを終了させる中高一貫校の人たちに対して、大きな劣等感を抱いていました。そこに浪人生も加わると思うと余計に落ち込み、焦りました。
今思えば、当時でも中高一貫校の人たちに負けないくらいの学力はあったのですが、『絶対に自分は落ちる』という謎の洗脳を自分自身にかけていましたね。センター試験もこけて、河合塾のセンターリサーチはC判定。合格発表のときも受かる気がまったくせず、番号がないのを確認して、『あ~そうだよね』と当然のこととして捉えました」
結局、現役時の京大受験は合格最低点から100点以上離れた不合格。彼女は、「こんな精神状態で受験してもうまくいくはずがなかった」と当時を振り返ります。一方で、双子の妹は現役で東京大学理科2類に合格しました。
妹との差を感じてより一層落ち込むかと思いきや、この吉報には心からうれしくて涙が出たそうです。
「悔しいという気持ちが起こらないほどずっと落ち込んだ感じで、もう自分は落ちるものだと思っていましたので、そこに飛び込んできた妹の合格のニュースは人生でもトップクラスの嬉しさでした。ずっと妹が努力していたことを知っていたので、努力って報われるのだなと感じることができました」
自身の受験結果に関しても受け入れて、気を取り直した彼女は、河合塾の新宿校に入って浪人することを決めます。浪人を決断した理由を改めて聞くと、「京大に行きたかったし、浪人する人が周囲にたくさんいたから」と答えてくれました。
こうして毎日朝6時に起きて、23時に帰ってくる生活を1年間ずっと続けました。
トコトコさんの浪人時代のスケジュール(写真:トコトコさん提供)
すると最初のクラス分けテストで一番を取ってから、受けた模試はずっとA判定でした。
ひたすら勉強を続けた1年でしたが、その中でも2つ大きなターニングポイントがあったそうです。
1つ目は、4月ごろから、妹や同級生を視界から消したことでした。
「妹が現役で東大に入ったのは、人生でもトップクラスのうれしさでしたが、やはりキラキラ大学生を近くで見るのはしんどかったです。毎日、彼女より早く家を出ることで、同じ家で生活していてもすれ違わないようにしていました。妹以外の同級生も、大学に進学してどんどん先に進んでいるのに、自分だけ時間が止まっている感覚がつらくて、連絡を一切絶っていました」
妹も姉に気を遣って、家では大学の話をあまりしていなかったそうです。それでも受験が近づいてくると、姉の大学出願に関する事務の手続きをサポートしたり、京大受験本番では京都までついてきて直前まで励まして姉を支えました。この支えにはトコトコさんも、心から感謝しているそうです。
そして2つ目は、「神のお告げ」でした。
予備校内での成績がトップクラスでも、ずっと現役時から自分は落ちるものだと思い込み、気が滅入った状態だったのは変わらなかった彼女でしたが、6月のある日、受かりそうだなと思えた「天啓」があったそうです。
「たしか、自習室に行ったものの、気分が乗らずに早めに帰ってきた日だったと思います。珍しく日中勉強をせずに、日当たりのよい床に寝っ転がっていると、何がきっかけか分かりませんが、急に自分をメタ認知できた瞬間がありました。
『あれ、こんないい成績を取れているのに、もしかして、ずっと自分、落ちると思ってた?』と。思えば去年も、成績自体は悪くなかったのに、このネガティブ思考が不合格の原因になったのだと気づきました。それからは成績の裏付けもあって、ポジティブシンキングで過ごそうと思うことができました」
この日から、最初の1問が解けたら「私、すごい!」と自分を褒めちぎり、模試が終了した後は「これは絶対に京大に受かるわ」と本気で思えるようになった彼女は、浪人生活がだんだん楽しくなりはじめたことで、さらに成績が上がり、秋の京都大学の冠模試で1位を獲得することができました。
こうして臨んだ2度目の京都大学農学部の受験。しかし、残念ながら本番では実力を発揮できず、合格発表の日までは何も手につかなかったそうです。
「センター試験では前年度と同じくらいの点数でこけてしまったのですが、『ここで落ち込んだら去年と同じだ』と気持ちを奮い立たせて臨みました。でも京大2次試験でも手応えがなくて絶対に落ちたと思って、もう併願で合格した私立大学に進もうと思っていましたね。
合格発表の時間になってもすぐに結果を見なかったのですが、母親が『番号あったよ!』って教えてくれて信じられない気持ちでした。前の年に妹が合格したときは、私が落ちたので家族もみんな複雑だったと思いますが、このときは妹も母も祖母も、家族みんなで祝ってもらえたのでよかったです」
合格最低点からわずかにプラス3点というギリギリの合格だったそうで、「数学の問題で1行だけ消すか悩んで、ここで消していたら合格はなかった」と彼女は振り返ります。
「神様がくれた3点でしたね」
こうして、トコトコさんの浪人生活は終わりました。
京都大学農学部に入った彼女は、山仕事サークルの代表をしながら外部のNPOに出入りしたり、森林組合の現場作業員をしたりと、精力的な活動に励み、1年の休学を経て食品メーカーに就職しました。
学生時代に材木市場を巡るトコトコさん(写真:トコトコさん提供)
浪人してよかったことを聞くと、「とにかく楽しかった」、頑張れた理由については「勉強はするものだという選択肢しか見えていなかった」と答えてくれました。
「浪人生活は『楽しい』と『苦しい』が混ざっていましたが、比率的には『楽しい』が圧倒的でした。予備校の講師陣のお話はとても面白かったですし、勉強に集中できる環境が幸せだったと思います。4回生のはじめは院進も、就職もしたくない状態でしたが、すでに浪人をして普通のルートじゃなくなっているのでまぁいいか、と開き直って休学することができました」
食品メーカーを1年で退職した後はWebマーケターや海外放浪、経営コンサルタントなどを経て、昨年2月からはフリーランスに。現在は博士課程にいる妹と2人で、親が高卒の家庭から東大と京大に合格したファーストジェネレーションとしての葛藤や浪人の経験、キャリアの変遷などをnote「ノソノソとトコトコ|東大&京大卒の双子」で発信しています。
フリーランスとして文学フリマに出店(写真:トコトコさん提供)
「人生のレールから外れても自分らしくいればいいと思えているのも、浪人の経験のおかげかなと思います。現在はフリーランスとして執筆、AI開発、古物商などをしていますが、かつての私と同じようにキャリアに悩みながら、会社員というレールから外れられない人たちはたくさんいるはずなので、そうした悩みを抱える人たちを救えるような発信をnoteでしていきたいです。
もっと多くの方に私たちの発信を見てもらえるように、商業出版をしたいと思っていますので、今後は物書きとしての活動をより頑張っていきたいです。私たちの経験をシェアすることで、人生が好転したり、精神的に解放されたりする人が増えたらいいなと思って活動していきます」
双子の妹と比較してアイデンティティに苦み、精神的に悩んだ日々もあった彼女。
しかし現在では自ら進んで会社員というレールを外れ、同じ悩みを抱く人々に力強いメッセージを送ることができている彼女の強さは、間違いなく、ネガティブ思考からポジティブ思考に好転できた浪人の日々が作り上げたものなのだと思いました。
トコトコさんの浪人生活の教訓:自分なら大丈夫という、ポジティブシンキングが実力発揮のカギ
(濱井 正吾 : 教育系ライター)