「ルフィ」や「キム」などと名乗る指示役のグループによる広域強盗事件で、実行犯の一人とされる加藤臣吾被告人(26)が強盗致死などの罪に問われた裁判が12月4日、東京地裁立川支部(岡田健彦裁判長)で結審した。
東京・狛江市の住宅で高齢女性が死亡した事件について、検察側は「被害者に拷問とも言える残虐な犯行をおこなった」などとして、加藤被告人に無期懲役を求刑した。判決は12月16日に言い渡される。
前日にあった被告人質問で「被害者を地下に運んだ」と述べ、これまでの証言を覆した加藤被告人。子どものころに虐待されて育った過去や、人間関係に苦しんだことも明らかにしていた。(ライター・渋井哲也)
起訴状などによると、加藤被告人は、2022年12月に広島市の高級時計店から現金などが奪われた事件(広島事件)、2023年1月に東京・狛江市の住宅で高級腕時計が奪われて90歳女性が殴られて死亡した事件(狛江事件)を起こした。
また、狛江事件の翌日に共犯者同士で相談して、東京・足立区の住宅に侵入しようとした事件(足立事件)にも関わったとして、強盗致死や強盗傷害、強盗予備、住居侵入の罪に問われている。
検察側は、闇バイトによる連続の広域強盗事件であり、日本中の誰もが被害にあう可能性があったと指摘。広島事件では男性被害者に重傷を負わせ、狛江事件では女性被害者が死亡したことを重く見た。
さらに匿名性が高く、指示役とサポート役と実行役の役割分担がされて計画性があったことや、各事件で積極的に関与し、他の共犯者と責任の差がないことを踏まえ、他に前例のない事件でもあることから、無期懲役を求刑した。
一方、弁護側は、狛江事件で被害者を地下に運ぶなどしていたが、現場リーダーではなく、共犯者に指示をしていた部分もあるが、現場リーダーからの指示を伝達しただけであると反論。
また、一部で積極的に犯行に関与していたものの、指示役である「キム」に脅されるなど、全体としては積極的な関与ではなかったなどとして、有期懲役が相当であるとした。
加藤被告人は12月3日の被告人質問で、犯行の一部始終を語った。広島事件では「キム」から、テレグラムで「明日、案件がある」と告げられ、内容としては「タタキ」であり「時計と現金を強奪する」とだけ知らされていた。
参加したのは「お金がなかった」から。東京から広島まで新幹線で移動して、JR広島駅前でハイエースに乗り込み、そこで現場リーダーが、永田隆人被告人=1審無期懲役・控訴中=であることを知った。
役割分担が決められて、住居侵入の際の「宅配業者」役となった。もう一人の「業者」役の男がインターフォンを押して、玄関を開けた女性を押し倒した。加藤被告人は、その男から女性を押さえつける役割を代わった。
侵入から逃走まで、ずっと女性を押さえていた。その間、「金庫の番号は?」と聞いたが、女性はパニックになっていたため、十分な答えを引き出せなかった。ただ、女性が「苦しい」と言ったので、手の力を緩めたという。
闇バイトたちが解散したあと、広島事件で一人が意識不明の重体というニュースを見た加藤被告人は、現場リーダーの永田被告人に「ヤバイことになった」とメッセージを送っている。
車内で強奪品の中抜きを知っていたために、二人の関係は親密になっていた。加藤被告人がこの事件で得た報酬は60万円。しかし、怖くなったために、次の千葉県での強盗事件の誘いはスルーして参加していない。
ただ「やめたいとは言えなかった」という。
千葉事件のあと「キム」から「人数が足りない。行ってくれるか?」という狛江事件の誘いがきた。加藤被告人がしぶっていると、「足りない場合、(加藤被告人や家族を)中国人を使ってさらう」などと脅されたという。
そして「水曜日ババア案件」というグループトークが作られた。断れなかった加藤被告人は「地下の通路の段取りはできましたか?」「本当に現金があるんですか?」「カメラはつけるんですか?」などのメッセージを送った。
このことについて、加藤被告人は「このときは、共犯者の一人と一緒にいて、二人で話したことを確認するために送信しただけだ」と述べている。
狛江事件前日、永田被告人とホテルに泊まり、当日は一緒に共犯者二人が待つ集合場所に行った。
加藤被告人は、結束バンドを手首に巻く事前準備について、共犯者たちにレクチャー。侵入の段取りは、現場リーダーの永田被告人が説明した。
その後、狛江市の住宅で、他の二人が玄関で女性を制圧すると、加藤被告人が住居に入り、金品を物色。途中で女性を制圧する役割をした。
このとき「お金があるのはわかっている。どこや」と聞き、その後、女性を蹴ったりした。女性は「なんでこんなことするの?」と言ったという。
そして、女性を二人で地下に運んだ。その際、加藤被告人は足首を持っていた。被害者弁護人から「重かったのか?」と聞かれて、加藤被告人は「軽かった」と答えた。
実は、公判前まで、加藤被告には「(狛江事件の)被害者には触っていない」と供述していたが、証言を変更したのだ。その理由についてこう述べた。
「自分は、被害者をバールで殴ったわけではないので、他の共犯者と一緒にされなくなかったから。弁護人にも言えなかったのは、ウソをついていた手前、言えずにいた。正直に話すことが、被害者への償いの一歩になると思った」
地下には、持ち込んだバールがあった。このあと共犯者が被害者をバールで殴るのだが、加藤被告人はそこまでは見ていないという。いったん撤収をするが、永田被告人は「再突入」を考えた。
しかし、加藤被告人が共犯者とともに「通行人がいる」などとウソを言ったために、中止となった。逃走中、被害者が死亡したニュースを知った。「僕が知らないところでこんなことになってしまった」と思ったという。
狛江事件後、永田被告人が「今日がダメだったから、明日も行くよな」などと話して、翌日に自分たちで案件の募集をX(旧Twitter)で投稿した。しかし、新たな実行役は簡単には見つからない。
そのため、永田被告人と加藤被告人、もう一人の共犯者と三人で実行した。このとき、宅配業者役だった加藤被告人は怖くなっていたため、インターフォンを押せなかった。
「永田被告人が強盗にこだわっていたため、中止になると思っていた」という。案の定、いったん中止になるものの、再度実行。空き巣に入ったが、何も見つけられず、撤収した。
最終弁論で、弁護人は、加藤被告人について「他者の痛みを想像する能力の欠如」「人間不信であり、お金は裏切らないと証言していた」と述べた。これは、彼の生い立ちに関連しているとの指摘をしたものだ。
加藤被告人は、自身の生い立ちについて、次のように述べた。
「中学2年のころ、両親は離婚しました。父親に引き取られましたが、自分の意見に合わないと機嫌が悪くなっていました。『お前は、自分の考えに従え』と言われていました。
「幼少期のころは、お風呂に沈められたり、体を傷つけられたり、立たされていたため、父親の顔色を見て過ごしていました。
中1のとき、初めて家出をしましたが、(別居していた)母親の家に行ったりしました。家出のたびに、父親が取り戻しにきていました」
一人暮らしをするようになったあと、女性と知り合い、結婚して、子どももできた。
「18歳のとき独り立ちしました。配信をきっかけに女性と知り合い、子どもが生まれました。お金はきつかったのですが、とても幸せでした。しかし、その女性とケンカして、家を追い出されました。
その後、よりを戻したり、離婚したりを繰り返しました。女性への暴力で警察沙汰になったこともあります。家庭は、一時期、居場所だったのですが、続きませんでした」
加藤被告人は、職も転々としていた。人間関係に苦しんだ様子がうかがえる。
「仕事も頻繁に変わっていました。人間関係の問題で長続きしませんでした。コミュ障のところがあります。その場からいなくなりたいと思ったりしてしまいました。26年間、お金に苦労しました。居場所がありませんでした」
闇バイトで仕事を探すことに抵抗はなかったのだろうか。
「初めは抵抗がありました。しかし、キムさんに『安全だ。安心だ』と説明されるうちに、安全だと思うようになりました。結果として、強盗致死になったことは、その責任を逃れられないと思っています」
闇バイトの前は、月5万円ほどの収入があったという。
「チートの販売、ゲームのアカウントなどを売っていました。昼夜逆転していたのですが、起きている時間はほとんどパソコンの前にいました。普通のアルバイトをしたこともあったのですが、長続きしませんでした」
最終陳述では、用意したノートに書いた思いを読み上げた。
「結果として、強盗致死になったことを深く受け止め、深く反省をしております。土壇場で証言を覆したことも申し訳ないと思っております。被害者や遺族のために何ができるのかを考えて、社会貢献をしていきたい」