俳優 大東駿介さん(38)
俳優の大東駿介さんは、小学生の時に両親が離婚。
中学生になると母親が家を出てしまい、1年間ほど、一人で貧しい生活を送りました。親に捨てられたことで自分の価値を見失いかけましたが、俳優という夢を抱き続け、「広い世界のどこかに居場所がある」と信じることで乗り越えました。「外の世界にはあなたの気持ちを理解してくれる人がいっぱいいる。誰かに助けを求めてみて。乗り越えた先の人生は楽しいですよ」とエールを送ります。
小学校3年生の時に両親が離婚しました。母が近所のケーキ店のおばちゃんに、離婚の報告をしている会話を耳にして知りました。父親はタクシー運転手で、もともと家を空けることが多かったため、それほどダメージはありませんでした。
母は、大阪・堺市の自宅1階でクリーニング店を営み、一人で切り盛りしていました。いつも買い物などでちょっと店を空ける時、シャッターを半分開けた状態で出かけます。中2の頃、学校から帰るとシャッターが半開きの状態でした。母の帰りを待ちましたが、朝になっても帰ってきません。母が帰宅しない日が増えていき、その間隔は2日、1週間と広がり、最終的に全く帰ってこなくなりました。
最初は、買ってきた牛丼や、家に残っていたスパゲティにポン酢だけをかけて食べ、しのぎました。間もなくお金が底をつきました。レジに残っていた1円玉をかき集めて、10円で買える駄菓子を主食にしました。でも、1円玉を何十枚も出して払うのがみっともなくて、近所中のコンビニを巡って駄菓子を一つずつ買っていました。「自分は恥ずかしい人間や」と惨めになりました。
中学校は弁当が必要でしたが、母がいなくなってから持っていけなくなりました。昼食の時間を家に帰ってきて過ごしたり、先生から菓子パンをもらったりしました。先生の気持ちは本当にありがたかったのですが、気を使わせるのがしんどくなって、中2の途中から学校にも行かなくなりました。
第三者的には「つらいだろう」と同情するでしょうが、当事者としては生きるのに必死で、落ち込む余裕もありません。そんなことより、「両親に必要とされていない自分を、誰が求めてくれるのだろう」と自分の価値を見失ったことが一番苦しかったです。
学校に行かず、家でも一人。そんな日々が続くと、普通の生活に戻るのが怖くなりました。風呂に入れず、服も汚い。異物として扱われるのではないかという不安にさいなまれました。1階の店には窓がなく、昼間でも完全な闇でした。入り口には壁一面の大きな鏡があって、出入りする時には必ず鏡の前を通ります。嫌でも鏡の中の自分と目が合うんです。
話し相手もいなくて、誰にも自分の気持ちを受け止めてもらえない状況が苦しくなりました。鏡に向かって、「お前、何で生きてんねん」「お前のせいで、こうなったんちゃうんけ」と自己否定の言葉を投げつけるようになりました。怒りも悲しみも、ぶつける相手もいなくて鏡の中の自分に言うしかなかった。
昼間、感情が爆発して、鏡に向かって喉がちぎれるくらいの大声で「殺すぞ」と叫んだこともあります。驚いた近所のおっちゃんが見に来て、すぐに帰っていきました。助けに来てくれたというより、「バレた」という焦りのほうが大きかったです。自分が一人取り残された状況が恥ずかしく、誰にも知られたくありませんでした。
「死」が頭をよぎったこともあります。でも、ふと冷静になり、怖くなって震えました。
その時、親が帰ってこないという悲しみが、怒りに変わりました。「ここで死んだらほんまに全部を奪われるってことやん。親が認めてくれへんなら、他の多くの人に認めてもらえるように生きよう」。生きて見返してやろうと決意しました。
昔から映画が好きで、色々な人生を演じられる俳優という仕事に憧れていました。当時は、「自分の人生を生きなくて済む仕事」という感覚でしたが、その夢は僕を前向きにさせました。しんどい経験も、演技の役に立つと考えることができました。布団に横になっている時も、部屋の天井にカメラがあるような感覚で自分を客観的に見て、「ベッドから出られない」「不条理に怒り狂っている」といった時の感情や行動を演技で再現できるようにして、自分の武器にしようと思ったのです。振り返ると、芝居のレッスンで習うようなことに一人で取り組んでいました。今の苦しさが経験値になると思えて、救われました。
もともと、勉強は苦手でしたが、社会科の学習で外の世界のことを知るのは好きでした。10歳くらい年上のいとこから東京の話を聞いたり、外国人の英語の先生や近所の中国人留学生から海外のことを聞いたりすると、ワクワクしました。「俺が知っている世界は、本当に小さな小さな一部にすぎない」という意識が常にありました。広い世界のどこかに自分のいるべき場所があると期待していました。「自分の居場所を見つけるんだ」という思いが心の支えになっていました。
孤独な生活が1年間ほど続き、中3の時に近所に住む伯母が訪ねて来て、引き取られることになりました。学校に復帰し、高校にも進学しました。
高校卒業後は、東京に住むいとこの家に居候しながら雑誌モデルを始めました。19歳で俳優デビュー。それから、たくさんの人と出会いました。今では北海道、青森、福井、沖縄……全国に友達がいます。日本中に「お帰り」と迎えてくれる場所がある。海外にも友達がいます。こんな景色は想像もしていなかった。本当に生きていてよかったと思っています。
笑われるかもしれないのですが、しんどかった中学生の頃、大好きな漫画「ワンピース」の最終回を見届けずに死ねるかという気持ちもありました。「誰かのせいで、読まれへんなんて考えられへん。意地でも生きてやる」と大まじめに思っていました。好きなことの支えは非常に大きいです。趣味でも夢でも何でもいいので、自分の目標に近づくためにはどうしたらいいかを考えてみてください。
死にたいくらい、つらくても、人には可能性が満ちあふれていると思います。どんどん新しい世界に出て、自分の居心地のいい場所を見つけてほしい。
人に助けを求める大変さもよく分かります。中学生の僕も声を上げられませんでした。
でも、大人は「助けて」という声を待っています。僕もそうですが、つらい状況にいる子を助けられるなら助けてあげたい。気持ちを打ち明けてもらえたら、「言ってくれてありがとう」と感じる人がいます。僕もこれまで、人に助けられながら生きてきました。その恩返しをしたい。たまたま周りの大人があなたを理解してくれない人ばかりで、身近な人に相談しにくい時は、僕でよければSNSのダイレクトメッセージを送ってください。話を聞きます。外の世界には、あなたの気持ちを理解してくれる人がいっぱいいます。誰かに助けを求めてみたらどうでしょうか。乗り越えた先の人生、楽しいですよ。
◇だいとう・しゅんすけ 大阪府堺市出身。2005年、日本テレビのドラマ「野ブタ。をプロデュース」で俳優デビュー。9月10日から東京・世田谷パブリックシアターで上演する舞台「What If If Only―もしも もしせめて」に出演。