「井上さん、保険証を出していただけますか?」
「えっ?さっき僕は出したんだよ!」
酷暑の朝、東京・世田谷区内にある病院の待合室で本誌記者が目撃したのは、杖を突きながら歩く80代と思しき男性、井上夏雄さん(仮名)の激怒である。
病院内では多くの人が静かに座っており、その中で怒声が響き渡った。怒りは収まる気配がなく、「僕はね、保険証は出したんだよ!」と何度も言い、受付の看護師は再度出していただく必要があると繰り返す。
近くにいた息子らしき中年男性が駆け寄り、持っていた保険証を慌てて出した後、井上さんは憤懣やるかたない面持ちで記者の隣に座った。
そして、「保険証は出したんだけどね!」と記者に話しかけてきたので、自分には落ち度がないと主張しているように思える。それを見た中年男性は申し訳なさそうに会釈した――。
いま、東京・世田谷区では、突然激怒したり理不尽な要求をする高齢者が増えている。周囲にとっては迷惑千万な彼ら、「世田谷じいさん」が頻出しているのだ。
京王線の千歳烏山駅近くを歩いていた30代男性住民はこう語る。
「もともとは『金持ち喧嘩せず』で穏やかな方が多い地域なんですが、ここ数年、キレる老人を見かける機会が増えました。
先日の昼下がりには、唐揚げにキレている60代後半の男性を見かけました。惣菜店を出て歩き始めると『ここの唐揚げはね、固いんだよ!』と周囲の人たちに聞かせるかのように、大声で怒っていました。店の評判を落としたいのかはわかりませんが、周囲の人はびっくりして視線をそらしたり、『あんなおじいさんにはなりたくないよね』と囁いていました」
下北沢や三軒茶屋などのお洒落な街、成城や上野毛などの高級住宅街を有する世田谷区の総人口は約92万人。若い世代も多く住むと思われているが、実は65歳以上の比率は20.4%と、高齢者は実に約19万人もいる。
東京都内で最も多くの高齢者が住む、「老いた街」なのである。
区民からは年老いた「世田谷じいさん」、略して「せたじい」の目撃談が数多く挙がる。
●とんかつ屋で定食を頼んだ人が、おまけとしてコロッケを一つもらえる無料券を店員が配っていると、小綺麗な身なりをした高齢者がやってきて「コロッケだけ無料で寄こせ!」という。それはできないと伝えると「なんでダメなんだ!」と暴れ出した。収拾がつかずに、警備会社の屈強な警備員を店員が呼んだところ、黙った。
●寝たきりの妻の世話をする夫が、ヘルパーを使用人と勘違いしている。オムツの交換はどれだけ上手なヘルパーでも、少しずれて漏れてしまうことがあるが、「オムツをしっかり穿かせなかったあんたたちが悪い。今すぐ仕事をやり直せ」と烈火のごとく怒る。
●昼時のファストフード店で、行列ができていた。そこへモバイルオーダーをしていた若者が商品を受け取りに来ると、「こいつ並んでないぞ!」と激怒。若者がモバイルオーダーについて冷静に説明するも、「こっちは何分並んでると思ってるんだ!
おかしいだろ!」と怒りが収まらず、店員が何とかなだめた。
そもそもなぜ、高齢者はすぐ怒るのか?
『凶暴老人』の著書がある、名古屋大学情報学研究科教授の川合伸幸氏が分析する。
「怒りの感情は脳の大脳辺縁系というところでつくられ、それを抑制するのが前頭葉です。ところが、加齢とともに前頭葉の機能が低下していきますので、若い頃は我慢できたことでも高齢者は抑えきれなくなり、言動や行動に出てしまいやすくなる。耳が遠くなるのと同じように、老化によって感情を抑制する前頭葉の働きが弱くなってきたということです」
自分の正しさを誰かに伝えたいという欲求が抑えられないことで怒るケースが多い、として川合氏がこう続ける。
「怒りには家族や会社などの縄張りを守るという働きがありますが、自分が暮らす狭い社会のルールも縄張りの一つ。そこには自分が正しいと勝手に思い込んでいるルールも含まれています」
後編記事『「高所得、高学歴だった人ほどクレーマーになりやすい」すぐ怒鳴る《世田谷おじさん》たち、怒りが原因で認知症が進むワケ』へ続く
「週刊現代」2024年8月3日号より
「高所得、高学歴だった人ほどクレーマーになりやすい」すぐ怒鳴る《世田谷おじさん》たち、怒りが原因で認知症が進むワケ