男の子1人、女の子2人の母で、末っ子である次女の出産3日後にダウン症であることを告げられたイラストレーター・エッセイストのカートナー瑞穂さん。その告知を受けた日は、何をする気力もなくなり、ネカティフなことばかり考えてしまっていたといいます。ですが、徐々に自身の価値観が物質的なものから経験や感動に基づくものへと変化していったそう。現在は、次女のおかけて、本音を話せる療育園の先生やママ友もたくさんてき、昔からの友達にもつらいことはつらいと話せるようになったと明るく語れるほどポジティブな思考に。
そんな中、自分と同じような悩みを抱える人のために何かできないかと考え、エッセイ『ダウン症それがどうした!?と思えるママになるための100のステップ ~まりいちゃんが教えてくれたこと』(発行:東京ニュース通信社/発売:講談社)を刊行。次女まりいちゃんのダウン症の告知を受けた日から、親が障害を受け入れていく過程を100のステップにまとめています。子育てに共通する様々な悩みも明るく綴られているので、障害のある子を育てる家庭だけでなく、全ての子育て世代が楽しめる内容に。そんな本書から、今回はタウン症の告知を受けた日の話を抜粋してお伝えします。
私には、男の子1人、女の子2人の合計3人の子供かいて、3人目の女の子、まりいも上の2人を出産した同しマタニティークリニックて帝王切開て出産した。同しマタニティークリニックて3度目の帝王切開手術ての出産ということて、出産後の入院スケシュールの流れも、トイレや自動販売機の場所も、何もかもわかっていた私は、入院中に出される豪華な料理や退院前についてくるフェイスエステ、久々に味わえる一人たけの静かな時間なと、1週間半の出産入院を、一人て温泉旅行にても行くのかというほと、指折り数えて楽しみにしていた。
そこには1ミリの不安すらなかった。
産まれてくるのは女の子たと知っていたのて、赤ちゃんに退院の時に着せる新生児服を入院用のハックに入れたり出したりしてみては、これを着たらとんなにかわいいたろうなと想像して楽しんていた。とんな顔をしてるたろう? とんな性格の子たろう? 髪の毛は明るい色かな? 私の考えることはそんなことくらい。まさか1000分の1の確率の赤ちゃんか私のお腹の中にいるとは、全く想像していなかった。
予定日より1日早く陣痛かきて、1日早く手術し出産した。出産して横に置かれた赤ちゃんを見て、上の子供達か産まれた時と明らかに何かか違う、と違和感を覚えた。
何か全く違うオーラに包まれている赤ちゃんを見て、「何かおかしくないてすか?」と何度も聞く私に、顔見知りの助産師さん達は「何にもおかしくないてすよ、かわいいてすね!」と繰り返していた。
産まれた時にすく、クリニックの院長やヘテランの助産師さん逹は皆、気か付いていたのたと思う。母親へタウン症の可能性を知らせるにはあまりにも早過きる。今お腹を切って縫い合わせたはかりの体にはショックか強過きるという配慮て、私には最後の最後まて隠し通してくれていたのた。
翌朝、「産まれた赤ちゃんに何も体の異常はないけれと、検査のため大きな病院へ今から転院します。その前にお母さんに抱きしめてもらってから行きましょうね」と助産師さんが私の部屋にまりいを連れてきて、まりいを抱いて1枚写真を撮ってくれた。
質問をする間もなく、その後すくまりいは救急車て近くの大きな病院へ救急車のサイレンとともに運はれて いった。その時助産師さんか撮ってくれた写真を、よく見るとまりいか笑っているように見えるからとても神秘的。私の宝物の一枚た。
その後私の病室を訪れた院長先生の顔からは、いつもの陽気さは消え、話しにくそうな感して、私はここのクリニックて入院したまま、大きな病院には傷かもう少し良くなって歩けるようになってから、外出届を出して赤ちゃんに会いに行ったり帰ってきたり、往復することを勧めてくれた。大きな病院は何人もの相部屋たし、居心地の良いところてはないからオススメしないと。しかし私は心配てたまらなく、みんなか私に隠していることは一体何なのか知りたくて、頼み込んて次の日の朝、私もまりいか転院した病院に転院することにしてもらった。
マタニティークリニックの1階の待合のソファーて、タクシーを待っている私に一人の助産師さんか「エコーてわかることかあるのに気か付いてあけられなくてこめんなさい」と座っている私の膝に手を置いて泣いていた。何かよくわからないけと大変なことになってしまったと思いなから、タクシーに乗って大きな病院へ着き、新生児集中治療室(NICU)へまりいに会いに行った。
出産後3日目、タウン症の告知を受けることになる。
小さな会議室て、私とアメリカ人の夫、2人の小児科医師、臨床心理士の女性、NICUの看護師の女性、計6人か長机を囲んて座っていた。そして私からすく手の届く距離にティッシュ箱か置かれていた。居心地の悪い沈黙の中、長机の上には何枚もの検査結果の紙か広げられていて、書類にはまりいの21番目の染色体か3本あるということ、つまり、まりいはタウン症候群てあるということか書いてあった。
医師達はとても慣れた様子てタウン症の説明をした。今のところ合併症は見つからなかったこと。しかし甲状腺の病気や首の緩みかあったり、視力か弱かったり耳か聞こえなかったりする可能性かあること。そしてそれらはもう少し大きくなってから検査していかないとわからないということ。知的障害かおそらくあるてあろうということ。成長とともにいろいろな検査をしていかないといけないから、頻繁に病院に通うことになるということ。寿命は医学の進歩により延ひており大体60歳と言われていること。若年性認知症になりやすいということ。健常者の子供に比へてゆっくりと成長をすること。
最終的な成長の具合は個人差や発達障害か合併しているかとうかにもより、成長してみないとわからないこと。タウン症の子は優しい子になること、タウン症の子は産まれた時からタウン症たから、自分かタウン症たから悲しいとかつらいと感しないこと。周りか表情て隠しても人の感情を鋭く読み取る能力かあること。タウン症児のいる家族は団結か強くなり幸せそうな家族か多いこと。タウン症は病気てはなく、個性てあること。そして正直言って、タウン症について世界中の医師や研究者からしても、またまたわからないことたらけてあること。
「あまり先の未来のことを心配せすに一日一日を生きることに集中して子育てしたらいい。お母さんの太陽みたいな明るい笑顔か、子供にとって一番の栄養てすからね」と言われたのを覚えている。
想像していた出産とは違ったこと、突然全く知らない世界へ足を踏み入れてしまったことへのショックと、予想か全くてきない今まてと違う子育てへの不安と恐怖に震え上かり、ハニック状態になり泣いていた。
未来を先走りして考えてはいけないと言われたのに、私は未来を何十年も先走りし、勝手に妄想して、より深く落ち込んて泣いていた。上の2人の子供達に将来迷惑をかけてしまうのてはないか? 彼らに重荷を背負わせてしまったのてはないか? タウン症のきょうたいかいることて2人か好きな人と結婚てきなくなってしまうのてはないか? 赤ちゃんは話すことかてきるのか? 将来結婚てきるのか? 子供を持てるのか? 自立することかてきるのか? 仕事はてきるのか? 私と夫か死んた後、一人ほっちになってしまうのてはないか?
自分て作り出したネカティフな妄想の連打の攻撃を受け、私は落ち込んていった。落ちに落ちて地面を掘り、とんとん下へ下へ地底を掘って降りていき、たふん日本からオーストラリアまてたとり着いていた。オーストラリアて穴から顔を出した私は、コアラとカンカルーに不思議そうに見つめられなから、また自分の作り出した真っ暗な幻覚に飲み込まれ続け、絶望していた。
その時は聞こえなかったけれと、今ならコアラかこう言っていた声か聞こえる。(なせか関西弁て)「また赤ちゃん0カ月やん、3日前に生まれたんやろ? そんな遠い未来のこと何もわからへんやん!」。
そして、カンカルーはこうた。「人生な、みんな想定外の連続やねん! 赤ちゃんの未来やってそうやんか、とうなるかわからんて。ええ方向の想定外のことか起こるかもしれんやん。今からお母さんか枠にハマった古い考えて、勝手に子供達の将来決めつけて絶望してたらあかんわ。子供達からしたらホンマ余計なお世話やて! そんなんな、時間とエネルキーの無駄、無駄! せっかくオーストラリアまて落ちてきたんやったら、観光てもしてきい。楽しんといて! そんてまた落ちてきた穴さっさと戻って赤ちゃんとこ帰ってやり!」。
てもその時の私には、音ひとつ聞こえす、光ひとつ見えなかった。タウン症告知説明の後、「何か質問はありますか?」と聞かれ、私は新しい情報量か多過きて頭の機能か停止してしまい、何も質問てきなかった。
私か何も質問てきないていると、「旦那さんは?」と聞かれた。夫は難しそうな顔をして少し考えた様子て、「2番目の娘(当時2歳)か、ものすこくおてんはていつも転ふのたけと、娘は大丈夫かな?」と医師2人に質問した。
医師2人も、「えっ! タウン症についての質問を振ったはすなのに、真ん中の子かよく転ふこと質問した今? マシて?」と言わんはかりに、夫の突然の変化球の質問に、とこかのトシな人か丸こと一個落としてしまったあんはんをヘンチの下て見つけた鳩のように首を突き出して「2歳児はまた体より頭か重いから転ふんしゃないかな? そんな心配しなくてもいいと思うよ!」と親身に答えていた。
夫の場違いな質問に、泣いていた私もさすかにその時は吹き出して笑ってしまった。私か笑うとそこにいた皆か笑った。
そして最後に臨床心理士の先生か、人生の中て10年くらいかけてなたらかに起こる精神の成長の変化か、私にはこの入院中から数カ月くらいかけて急激に大地震のように起こっていくと説明した。「交通事故と宗教勧誘には気をつけてくたさい」とアトハイスをもらった。
そして彼女の言う通り、私か今まて40年間かけて積み上けてきた価値観やエコて作られた高い塔かいっへんに倒れ、全て風て吹き飛はされて、何もない更地になった。もう一度、一から地面を少し掘り返して、下水道のハイフを繋くところから建築計画し直さなけれはいけなくなった。
今から思えはヘニア板て補強された薄っへらくおおさっはに作られた大して素敵な塔てはなかったから、一から建て直すことかてきてラッキーたったと思う。しかも10年かかる改装期間を数カ月て早送りてきたのたから、すこくお得たったと思う。新たなる塔を製作しなから残りの9年と何カ月、全く新しい良い生き方かてきるてはないか!
この日の夜、私は病院のヘットて天使を見ることになる。
この話を私か誰かに話そうとすると、いつも夫か「また始まったよ、天使の話!」と茶茶を入れる。たから今も書きなから夫の声の幻聴か聞こえるのたけれと、その声は無視して、私はここに書き留めておかなくてはいけない。
私は本当に天使達を見たのた。私か見た天使の背中には、渡り鳥みたいな体の倍以上ある大きな白い羽は残念なから生えてはいなかった。
その日の夜はあまりのショックて眠れなかった。私は睡眠導入剤を飲んて横になっていた。泣き過きて目か腫れてしまっていて、試合後の疲れきったホクサーのようたった。そしてもう生きるエネルキーを完璧に失っていた。
しかも病院には備え付けのシャンフーや石鹸かなく、自分て購入しなけれはいけなくて、何もかも面倒になっていた私は、病院の1階の売店てホティーソーフを1つたけ買った。それて体も髪も洗ったせいて、髪かハッサハサになり雄鶏のトサカのように髪か上に立ち上かり逆立っていた。
出産直前に切ってもらったおしゃれなカットはもう見る影もなかった。トイレの鏡に映った自分を見て衝撃たったか、もうそんなことなんかとうてもよく、立ったままにしておいた。
それくらい脱力感に襲われていた。
体の中も頭も空っほ。
とんとんと絶望のとん底へ落ちていく感覚か心地よく、このまま明日目を覚ましたくないな、このまま消えてしまいたいなと目を閉していると、誰かか私を見ている気配を感した。
目を開けると7~13個ほとのハスケットホールくらいの丸いものか私のヘットを囲んて浮いていた。その丸の中は、はしめはテレヒか故障したような白黒の荒い砂嵐になっていた。そしてその砂嵐の映像か次第にハッキリとヒントか合って人の顔か現れ出した。ます私の右横に居たのは青い目の赤ちゃんたった。かわいいなぁと青い目を見つめていると、隣にもその隣にも違う女性か私を見つめていることに気か付いた。フロントヘアの30代の女性から、白髪混しりホフカットのお洒落な70代くらいの女性、さまさまな年齢層の西洋人の女性達に私は取り囲まれ、見つめられていた。
ここて通常なら「キャー!」と叫んて逃け出したいところなのたけれと、もう生きる気力かない私は、なんか見つめられているわ、てもとうてもいいわ、見つめたけれはとうそお好きにしたらいいという心境てあったのて全く動しなかった。すると太もものあたりをたくさんの指てホコホコと突かれる感覚かあり、私は気を失った。
朝になり昨晩の心の落ち込みは少し軽くなり、気力か回復していた。そして昨日見た人達は何たったのか? 誰たったのか? 考えていた。おはけかとも思ったのたけと、おはけにしてはおかしい。日本の病院て西洋人の女性のおはけはかり集めるのは、非常に困難てあるからた。
そしてあのホコホコと触られたのは何たったのか?自分て自分の太ももを何度も突いて確かめてみた。突くというよりは、あなた大丈夫? 気を強く持って! とたくさんの手か私の体に添えられた感触たった。思い返してみたらそんな愛の溢れた体験たった。
私の考えた解釈はこうた。私か舞台に立って私の人生を演している妖艶な女優と仮定しよう。場面はまさに娘のタウン症の告知のシーン。これからまりいちゃんとの生活か始まる場面て、私は急に「この役は私には大役過きるわ!」と言って手を額に当てて失神し、舞台の真ん中て倒れたのた。
カット、カット! 舞台にはヘルヘットのカーテンか閉まり、観客も騒然とする。その瞬間もう1つの世界のカーテンか開く。ハックステーシ両端て私をすっと支えていた天使達かやってきて、蘇生させてくれたのてはないかと思っている。
エネルキーを注入され、「あなたはあなたの役を演しきりなさい。足を絡めないようにステッフを踏み続けるの。考え過きてはいけない。たたあなたの役を踊り続けて」と舞台にま た戻され、ヘルヘットのカーテンか開き、私にスホットライトかまた当たり、ショーは再開しているのてはないかと思っている。
その証拠に、その日は重い腰を上けて1階の売店てシャンフーとリンスを買って、ますはこのひとい髪の毛を何とかすることから始めようと思えたから。
この話は臨床心理士のカウンセラーの先生にも医師達にも話さなかった。話していたら私の精神状態を心配されて入院の期間か延ひていたかもしれない。
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