〈裸になって子ども5人を惨殺、罪をかぶせた28歳女性に首を吊らせた“真犯人”は…「龍野6人殺し事件」恐るべき犯行の一部始終〉から続く
大正から昭和に年号が変わる1926年に事件は起きた。「醤油の街」兵庫県龍野町(現たつの市)の麹製造業で財を成した高見家で、当主の妻・つねと2~12歳の孫5人が殺された。遺体には五寸釘が打ち込まれ、次男の妻・菊枝は死んだ次女を背負ったまま首をつっていたという、すさまじい事件だった。
【画像】「龍野一家6人殺し」の相関図
当初は「嫁姑の争い」の果てに菊枝がつねと子どもたちを殺害して自殺したとされ、報道はセンセーショナルにエスカレート。ところが、菊枝が残した遺書の不審点、実家の兄に送った手紙などから、全ては菊枝の夫・次夫の犯行で、妻に罪を被せようとしたことが判明。次夫の言動や法廷での態度などからは、事件の“異様さ”が浮かび上がる。そして、最後の謎は――。
文中、現在では使われない「差別語」「不快用語」が登場する。文語体の記事などは、見出しのみ原文のまま、本文は適宜、現代文に直して整理。敬称は省略する。(全3回の3回目/はじめから読む)

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一家6人を殺した犯人は、惨劇の日にただ1人生き残っていた次夫だった。すべての罪を被って自殺するよう次夫に説得された菊枝は、遺書を書き残し、娘の亡骸を背負って首をつった――。
大阪時事に掲載された高見家の写真

事件の全容が判明してから、次夫に関する新聞の表現は一変した。
「何(な)んといふ兇悪さか 犯罪轉(転)嫁の用意周到」「鬼畜の如き兇悪漢次夫」といった見出しが登場する。労農党(当時)国会議員で生物学者の山本宣治は「現代の両性問題」(『山本宣治全集第5巻』所収、1929年)で、この事件の報道について「興味本位で書き立てると、大阪あたりで同じように興奮した女が夫を斬るわ、嫁いじめした姑もそろそろ怖くなってくるころに事件は急転。それと同時に新聞は鳴りを潜めた」と皮肉っぽく書いている。
対して時事新報主幹を務めた内海了三の『新聞の「嘘」』(1932年)は、次夫の犯行と判明した時、「新聞はよくもあんなにうそを書いたものだ」と読者が嘆いただろうとしたうえで、「しかしながら、この事件については、新聞がうそを吐いたというのは酷である。なんとなれば、警察も検事局もこれを嫁の姑殺しと信じていたらしく、世人も一点の疑いも挟まないほど、それに合理性を認めたからである」と弁明。こう付け加えた。
「もしこの事件で誤報の責任を問われるならば、それはこの事件だけに関するものでなくて、一般に警察記事取り扱いの態度について負うべき責任であると言わねばならぬ」。
5月25日付(24日発行)大阪毎日(大毎)夕刊は、菊枝の遺書は基一郎と妙子の将来を依頼するだけだったのを、次夫は2人を殺害し、菊枝が自殺した後、冒頭に「母をころしました」と書き足したと伝えた。

25日付神戸又新日報(又新)朝刊は、殺人罪で予審に付されたことを報じた記事の冒頭、囲みでこんなことを書いた。
「6人殺し事件がかよわき婦(おんな)菊枝の犯行でなく、夫次夫の仕業だったことはいち早く報じた通りだが、他紙が全て菊枝一人の事件と断じ去っていた時、本紙のみは次夫の身辺に疑いを抱き、連日にわたって事件の推移とその犯罪の科学的演繹(一般的な前提から個別的な結論を得る方法)を試みていたが、果たして鋭敏な当局の目とここに一致したのをいささか誇りとする」。
なかなかの自負心だが、又新は同年10月の予審決定書で2歳の妙子は菊枝が絞殺したとされると、またしても「当時本紙が『次夫1人ではできなかったろう』と予断的に報道したことは、実に世の女性のためには遺憾ながら、全く的中した」と、結果的に誤りとなる事実について自賛している。
その5月25日、次夫は拘置監収容のため姫路に移送されたが、龍野署の前に数百人の群衆が集まり、大騒ぎになった。警察・検察はほかに共犯がいないかどうか、かなり入念に捜査を続行。高見家の複数の雇い人が何度も調べを受け、新聞で共犯説を書き立てられたが、結局はシロに。事件から約5カ月後、予審判事は殺人で有罪として公判に付く決定をした。

それに先立って、次夫は父・太蔵と約5分間接見。「父いはず、子語らず 相黙して唯涙ぐむ」=10月22日付(21日発行)神戸新聞(神戸)夕刊見出し=という対面だった。
この年12月に大正天皇が逝去。初公判は年号が変わったもののまだ諒闇(服喪の期間)の1927年2月2日。各紙の報道をまとめると、大勢の傍聴人が詰め掛けた姫路支部裁判所の法廷で次夫は、「菊枝が6人全員殺した」と犯行を否認した。
それまでも次夫は「めいの2人は自分が殺したが、母と子ども3人は菊枝が殺害した」「母だけは殺していない」などと供述を二転三転させたが、公判で「自分は薬で眠らされていた」と全面否定に転じた。
次夫は菊枝の残した遺書を書き足したことも否定。裁判長は「死人に口なしだね」と皮肉を述べた。遺書を平然と読み上げ、わが子の遺体写真を眺めても、一瞬動揺したものの、すぐ水のような態度に返り、裁判長に「おまえには涙というものがないのか」と言われた。又新は2月4日付朝刊社会面トップの記事に「悪虐のすべてを菊枝に捺(なす)りつけた憎々しさ」と見出しを付けた。
その後、次夫は証人喚問を却下されて裁判長を忌避。公判は混乱し、仕切り直ししたすえ、事件からほぼ1年後の同年5月17日、求刑通り死刑の判決が言い渡された。判決前には「6人殺の次夫が獄中で書いた悲歎(嘆)感想録」が神戸で連載され、次夫は「あれほど幸福だった親子5人が 何の因果でこんなに悲惨な 地獄に堕ちてしまつたのか」と嘆いた。

判決を聞いた次夫の表情を又新は「顔面神経をピリッと動かせて少し狼狽気味だったが、すぐ気を取り直し、黙々と退廷した」と書き、大毎は「さすがに獰猛(どうもう)な被告も、死を恐れたものか、見る見るうちに顔面蒼白となり、一言も発せず、悄然(しょうぜん)として看守に守られながら獄に下った」とした。
その後、同年8月の控訴審でも死刑判決。12月、大審院で上告を棄却され、死刑が確定した。公判の過程でも供述を変え、母と長女は菊枝が殺害したとか、母・つねだけは自分ではないなどと主張した。

12月9日付朝刊では、大朝には菊枝の母の「不憫だが当たり前のこと」という談話が載り、大毎には中島上席検事の「次夫の心に野獣的なものがあったとしても、家庭の罪がその大部分を負わねばならぬ」という述懐が載った。
各紙によれば、上告棄却を聞いた次夫は「涙を落とした」とも「目をうるませた」ともいう。死刑執行は翌1928(昭和3)年2月3日。4日付(3日発行)大阪時事夕刊によれば、死ぬまで犯行を否認。懺悔録も遺言もなかった。ただ、4日付神戸朝刊は辞世の歌を伝えている。「うるはしき彌陀(みだ)の浄土の桜花親子手をとりともに眺めん」。
予審が始まった直後の1926年5月25日付神戸朝刊の連載「次夫といふ男」第3回は「首を擡(もた)げた殘(残)忍性」の見出しで次夫の性向を書いている。「猫を樫(カシ)の棒で撲殺したり、蛇を寸断したりしても平気だったことが素行調査の結果、判明したのは事実。酒を飲めば必ず狂暴性を発揮したことも周囲の人は認めている」。
病理学者・作家の田中香涯は『猟奇医話』(1935年)で次夫の性格について、「犯行が発覚して獄中にあっても頑として罪状を認めず、あくまでしらを切り、凶行を妻菊枝に転嫁して少しも悔い改める様子がない。予審判事がじゅんじゅんと聖人・賢人の教えを説き、因果応報の理を説いて暗に自白を勧めても、どこ吹く風というように聞き流し、凶行現場の惨状の写真を見せても一滴の涙も流さず、その冷血、酷薄は実にあきれるほかなかったという」と指摘。

犯行時の言動と動物への虐待なども合わせて「彼が生来道徳観念の欠乏した先天犯人、いわゆる悖(背)徳狂(症)の人間であることは一点の疑いもない」と断言した。
昭和42年版「犯罪白書」によれば、19世紀初頭には感情・気分・性向・習慣・道徳的努力及び衝動の病的な抑制欠如を特徴とする精神障害を「背徳狂」と呼んだが、それは「犯罪性精神病質」の中核をなすものであるとはいえ、こんにちはもう使われていないという。一方、中野信子『サイコパス』(2016年)によると、1891年にドイツの精神科医が「背徳狂(症)」と重なる良心の欠落した反社会的人格を初めて「サイコパス的障害」と名づけたとしている。
死刑確定後の大毎で中島上席検事は「事件には2つの疑問がある」と述べている。「1つは、次夫が母を殺し、妻を死に至らしめ、さらに3人の愛児まで殺して、自分1人が生と財産に執着し、生を享楽しようとした点、いま1つは、妻菊枝の死に際しての心理状態。この2つはどんな宗教家でも心理学者でも、おそらく神以外の者は解き難い謎としなければならないだろう」。
その通りだと思う。特に、凶器で脅されたとはいえ、義母とめい2人、さらにわが子まで殺した夫から、「身代わりに罪を被って死んでくれ」と迫られ、遺書まで書いて縊死した菊枝の心情はどんなものだったのかと考える。
『三十九件の真相』は「夫を天とし、夫の頼みとあらば、命でも喜んで捨てよと教育されて嫁いできた」と指摘。菊枝が次夫の殺意を知った時、「兄も父も、断固として正しき道を指示すべきであったのに、彼らはただ女大学の抜け殻を並べて、婦徳をもって夫を翻意させよ、妻としてひたすら夫をいさめよ、と無理なことを言ってやっただけであった」として「まさに女大学の悲劇であろう」と結論づけた。
「女大学」は江戸時代に広く普及した女子教育の指導書のことで、封建的で女性に隷従を強いる道徳を推奨していた。そのことも全否定はできないが、さらに強い思いがあったのではないか。
結婚した家庭は姑の「圧制」に虐げられた忍従の日々、頼りにしたかった夫は家庭に目を向けず、共に生きている感覚がない男。未来に夢も希望も持てない生活の中で、生きがいは子どもたちの成長ぐらいだった。
その1人が殺され、加害者が夫という事態に直面した時、女に「これ以上、生きていても仕方がない」という絶望感しか残らなかったとしても不思議はない。生き残るはずの2人の子どもの行く末だけが心残りだったから、それだけ遺書に書いた――。
想像すると、女権拡張などという、当時の風潮から遠く懸け離れた世界に生きなければならなかった、暗く物悲しい女の人生の哀れと不条理を思わずにいられない。
この事件は『兵庫県警察史』でも『龍野市史』でも触れられていない。街のイメージにそぐわない陰惨な出来事とみられたからだろうか。一方、当時は仏教関係者によく取り上げられた。赤沼智善『佛教生活の理想』(1928年)は「実に極悪非道と言おうか、悪鬼羅刹と言おうか、言おうようなき人非人(にんぴにん)というのが今日世間一般の定評だと思います」と書いている。次夫の中に「悪の典型」を見ただけでなく、寒々とした暗黒の犯罪にも、どこかに救いを求めたかったのだろう。
死刑執行後の神戸の紙面には、執行を聞かされた菊枝の両親の言葉がある。「次夫さんは全くかわいそうな男ですね。自分の犯した罪も懺悔せず、仏の道にも仕えず死んでいくとは本当に哀れなものです」「せめて遺体だけでも菊枝のものと一緒に葬ってやりたいと思います」。これがこの事件でのささやかな救いのように思える。
【参考文献】▽小泉輝三朗『三十九件の真相』(読売新聞社、1970年)▽山本宣治「現代の両性問題」=『山本宣治全集第5巻』所収=(1929年)▽内海了三『新聞の「嘘」』(銀行問題研究会、1932年)▽田中香涯『猟奇医話』(不二屋書房、1935年)▽赤沼智善『佛教生活の理想』(法蔵館、1928年)▽『警察研究資料第14輯』(内務省警保局、1927年)▽石原元吉編『写真集明治大正昭和龍野:ふるさとの想い出176』(国書刊行会、1980年)▽河合四郎監修『目で見る龍野、揖保、宍粟の100年』(郷土出版社、2002年)▽法務省法務総合研究所編「犯罪白書(昭和42年版)」(1967年)▽中野信子『サイコパス』(文春新書、2016年)
(小池 新)