〈「吐いたら楽になるよ…」母と見知らぬ男性の“あられもない姿”を見せられ過食嘔吐に…西村ゆかがひろゆきに出会い摂食障害を克服するまで〉から続く
論破王として人気を集める西村博之の妻・西村ゆか氏の半生は想像を絶するものだった。キングオブクズな父は賭け麻雀にのめり込み借金2000万円作り、離婚。母も違法賭博場に娘を連れ出入りし、そして実の両親が建てたビルを勝手に担保に入れ借金を繰り返し…。ここではゆか氏の新著『転んで起きて 毒親 夫婦 お金 仕事 夢 の答え』(徳間書店)より一部抜粋。壮絶すぎる家庭環境を振り返る。(全3回の2回目/#1、#3を読む)
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母がどれだけおかしな人だったか。それをわかりやすく物語るエピソードがひとつある。
私が高校生になったばかりのころだ。
進学祝いかなにかで、母が横浜に遊びにいこうと誘ってきた。
そのころは、母と話すとケンカばかりしていたので、仲直りができればいいなと思って一緒に出掛けることにした。学校帰りに駅で待ち合わせをし、電車で横浜に向かった。道中も他愛のないおしゃべりをしてとても楽しかった。

横浜駅に着くとすぐ、母が言った。
「ママの友だちのお店に行こう」
言われるままについていった私は、その「友だちの店」に入った途端、後悔した。
目の前に拡がるその光景を、映画で見たことがあったからだ。
人々がコインをテーブルに積み、手にしたカードを見つめている。
そこは賭博場だった。
母の友達だという人が、高校の制服を着ている私に、2万円を渡してきた。「これで遊んでいいよ」と言われた。ここにいる大人はたぶん、全員頭がおかしい。私はそう直感した。
こんなところにいたことを学校に知られたら、私は退学になってしまう。一刻も早くそこから逃げ出したかったけれど、母は遊ぶ気満々だし、置いて逃げることはどうしてもできなかった。久しぶりの母との外出で、母の機嫌を損ねてしまうことが怖かった。
仕方なく、いちばん簡単そうなトランプのゲーム(これがバカラであったことを後に知った)を選び、私は全額を賭けた。すると、あっという間に倍の4万円になった。おかしいと思った。「ビギナーズラック」なんて言うが、たぶん、こうやってプレイヤーの気分を良くさせて、最終的にお金を巻き上げる手口なのだと推測した。
喜んだ母は続けて賭けるように私に言った。仕方なく、母の言ったとおりにまた全額賭けた。今度は半分になってしまった。
母はものすごく悔しがった。そして、ゲームを続けるようにせかしてきた。
でも、冷静に考えると、最初から2万円だった。その2万円だって、人からもらったものだし、なにも損はしていない。それなのに「減っちゃった、どうしよう」と思っている母、そして少なからず手元のお金が減ったことに焦りを感じる自分もたしかにいた。
30分ほどプレイして、最終的に手元にあるお金は5倍の10万円になった。金額が減ったり増えたりすることに、血が沸きたつのを感じた。
私が初めて知った賭け事の味だった。
これ以上はまずいと、私の中の誰かが忠告してきた。だから「ここでやめる!」と母に宣言した。
たった30分でも、ここは人を狂わせる。ただただ怖かった。
母は当然「もっとやろうよ、ここでやめたらもったいないよ」などと文句を言ってきたけれど、私は譲らなかった。
「私が勝ったお金なんだから私の言うことを聞いて。ここでやめて一緒に中華街に行くの。勝っているときにやめなきゃだめなの」
母は中華料理を食べながらもしばらく文句を言っていたが、食べ終わってから「ゆかの言うとおりだったわ」と言った。
「勝っているときにやめたから、こんなにおいしいごはんを食べられたのよね」
この話の結末は、別にいい話でもなんでもない。
その後も、母はギャンブルをやめなかった。
私は、大人になったいまでも、まったく賭け事に興味がない。パチンコもしたことがないし、旅行先でカジノに誘われても行くことはほぼない。人が狂ってしまう入り口に立ったことがあるからだと思う。そこはいったん足を踏み入れてしまったら、戻ってこられるのかわからない沼みたいな場所だったから。
小さいころは、家にお金がないことにぜんぜん気がつかなかった。
母は、私がピアノを習いたいと言えば習わせてくれたし、猫足の素敵なピアノまで買ってくれた。
犬を飼いたいと言ったときには、わざわざ青山ケンネルで、血統書付きのシェットランド・シープドッグを買ってきた。近所の子が飼っているような雑種犬がうちに来ることを想像していたから、貴婦人のように鼻筋の通った上品な犬を見たときは、正直すごく戸惑った。しかも子犬の名前は、母によってすでに「パトラ」に決められていた。ちなみに、クレオパトラの「パトラ」である。
また、年に何度かはフランス料理を食べに連れていってくれたことも覚えている。小さなお皿で順番に運ばれてくるきれいな料理を見て、お姫様になったような気持ちでいた。
シングルマザーの母は、たぶん私に引け目を感じさせたくなかったのだろう。
私立の中高一貫校に私を入学させたのも、片親であることが理由で、不憫な思いをさせたくなかったのかもしれない。
でも、成長するにしたがって、母がそういう生活を維持するために、いろんな人に借金をしていることを知って、いたたまれない気持ちになった。
経済的に追い詰められた母は、あるときから私の前でも取り繕うのをやめてしまい、いつもお金がないとこぼし、お金を貸してくれと私にまで言うようになった。
そのときの私が貸せるお金なんて、2000円とか3000円くらいだったけど、そのお金すら約束どおりに返してくれることはほとんどなかった。
小さいときから貯金していたお年玉も、ほとんど母が使ってしまった。
母はすごくきれいな人だった。友達から「ゆかのお母さんきれいだね」と言われるのが私は誇らしかった。
お料理や裁縫も得意だった。幼稚園で使うスモックに、すごく凝った装飾をしてくれたときは目立ちすぎて恥ずかしかったほどだ。
遠足や運動会などの行事では、いつも凝った手作りのお弁当を持たせてくれたし、誕生日会には、素敵な料理やケーキを作ってくれた。
私にとっては、それで十分だった。
自慢の母で、大好きな母だった。
そのままの母でいられなかったのはどうしてなんだろう。
母は当時では珍しい自由な考えの人だったと思う。
子育ても、自由放任(すぎる)だった。
でも、母が「女の子らしくしなさい」とか「勉強しなさい」とか言わなかったことを、私は少し感謝している。
モノトーンの服を好んで着ていた私に「ゆかにはそういう服がよく似合うのね」と褒めてくれたこともよく覚えている。
もしかしたら、自分が親に言われて嫌だったことは、私に言わないようにしていたのかなとも思う。
自由でさっぱりしていて、遊ぶのが好き。だから、家族以外の人からは不思議と好かれる人だった。私ももし、自分の母親じゃなかったら、一緒に遊ぶと楽しいなと思っていたかもしれない。
母の実家は長年、米屋という堅実な商売をやってきたことも影響していたのか、古風な考えの人が多かったように思う。祖母や伯母は、突然子連れで戻った母のことを受け入れられなかった。
祖母も伯母も唯一の孫であり、姪である私には優しかったが、母に同じように優しい言葉をかけているのを見たことがなかった。
子どものころから母は容姿が良く周りの人にかわいがられていたというようなことは、時折、祖母や伯母から聞かされた。
でも、子どものころに母が好きだったことや、よくしていた遊び、つまり、母の個性や人となりについて、家族が話題にしているのをほとんど聞いたことがなかった。
母の理解者は、家族の中にはいなかったのかなと思う。
母は、もしかしたら家族の中で孤独を抱えていたのかもしれない。

私が中学2年生のとき、母は事件を起こす。
祖父母の建てたビルを担保に勝手に借金をし、それを返せなくて裁判を起こされたのだ。そのとき法廷に立ったのは、年老いて足を引きずった祖母だった。ちなみに父親である祖父はショックで倒れた。
祖父は、そのときまで母がお金のトラブルを抱えていることをまったく知らなかったと言った。そんなバカな、という話である。だって、毎日のように祖母や伯母がそのことで怒っていたのだ。
この祖父の発言を聞いて、祖父は、都合が悪いことからずっと逃げてきた人なんだろうなと、中学生の私はひそかに思ったのだった。
私は優しい祖父のことが大好きだったけれど、母にとっては頼りになる父親ではなかったのかもしれない。
この事件があって、みんなが怒って母と縁を切った。
母は家族の中でますます孤立した。そのころ、母のストレスは限界だったのだろう。なにも言わずに家を空け、私が連絡しても電話にもでないということが増えた。
ある日、同じように帰ってこない日が続いた3日目の明け方、まだ私が寝ているときに戻ってきた母は、私の部屋に入ってくると突然枕を蹴とばしてきた。
びっくりして私が飛び起き「どうして帰ってこなかったの?」と聞くと、母はひと言「あんたの顔を見たくなかったからよ」と吐き捨てた。
もう母と一緒に暮らすのは無理なのかもしれないと思いはじめたのもこのころだった。
母から逃れるために、早く大人になりたかった。
高校2年生のとき、私は母と暮らしていた田端の家を離れ、父と暮らすことになった。いよいよ母の経済状況が悪化し、学費を払えないと言われたためである。
当時、私は中高一貫の私立高校に通っていた。「公立に転校してほしい」と、ある日突然、母が言った。驚いて言葉を失っている私に、母は畳みかけた。「お金ができたらまた私立に戻してあげるから、ね」
通っていたのはまずまず知られた進学校だった。美大を受験しようという目標もあった。いま転校してしまったら、きっと受験勉強についていけなくなる。
母の支離滅裂な提案をのんでしまったら、進学もできず、仕事のあてもなく、私の人生お先真っ暗だと考えた。そこで私が意を決して頼ったのが、父だった。
それまで父とはほとんど話をしたことも会ったこともなかった。
私が赤ちゃんのころに家族で箱根に遊びに行ったときの写真をアルバムの中に見つけたけれど、なにも覚えていなかった。
中学生のころに一度、ファミレスで父と会ったこともあったが、どんな会話をしたのか思い出せない。母からこの人が自分の父親だと言われても、ぜんぜんピンと来なかったことだけは覚えている。
そして、母の話では、父から養育費はもらっていないということだった。
父親らしいことをいままでなにもしてこなかったのだから、この人に責任を取らせよう。私はそう考えた。
「ママに学費が払えないと言われている。大学にも行けそうにない」と電話口で話す私に、父は二つ返事で「高校の学費も払うし、大学に行きたいなら、その費用も払う」と言ってくれた。
当時、父の職場は千葉にあった。父の仕事先もそこまで離れておらず、私が通っていた都内の高校にも通学できる松戸に、父が部屋を借りてくれた。そこで一緒に暮らすことに決まった。
田端の家を出ていく日、迎えにきた父の前で、母が泣きわめいて暴れた。
私が父親に連れ去られると騒いで、警察まで呼んでしまった。
取り乱す母を見て、自分がとてもひどいことをしているような罪悪感に襲われた。でもほかに方法がなにもない。母を置いていくしかないのだ。
ちなみに私は、その日に突然「ママさようなら」と告げたわけではない。
高校の学費と大学受験の費用を出してもらうために父と暮らすということはすでに伝えていたし、引っ越しの日取りも母と相談して決めたのである。母も納得してその日を迎えたはずだった。なのに、この騒ぎだ。
暴れる母の姿を見たくなかった私は、さっさと父の車に乗り込んだ。そして「警察と勝手に話をさせておけばいいから、もう車出して」と父に言った。
車のエンジンをかけながら、父が「あ!」と発した。
「なに? どうしたの?」と私が聞くと、「時計見て。3時33分だよ。なんかドラマみたいだね」と返ってきた。
「え、なに浸ってんのこいつ、クソが」と思った。けれど、今後の生活に支障が出ないように、その言葉をぐっとこらえたあのときの私を褒めてやりたい。

父との暮らしは大きなトラブルもなかったし、久々に一緒に暮らすことを父が喜んでいるのもわかった。でも、私の心は休まらなかった。
端的に言って、この人をまったく信用していなかったからである。
なにか良からぬことが起きそうで、いつも気が抜けなかった。
そして、私の嫌な予感は的中した。
高校卒業間近のある日、父方の祖母、つまり父の母が脳梗塞で倒れた。そして、植物状態になってしまったのだ。祖父はそのときすでに他界していたから、父が祖母を引き取ることになったという。そして、私にこう言った。
「もう、ここでは一緒に暮らせない。学費も払えない。おばあちゃんのほうが大切だから」
読者のみなさんに聞きたい。最初の二文はなんとか理解できると思う。ここでは暮らせない。学費も払えない。
でも、最後の一文いる? いらないよね?
なんなの? バカなの?
かつて、賭け麻雀で2000万円の借金を負い、それを親に返してもらうようなダメ息子であり、幼い私と母をあっさり捨てたこの男は、やっぱりなにも変わっていなかったのだと思った。
かくして私は、また父に捨てられたのである。
さすがの父も、高校卒業まではその松戸のマンションに住めるようにしてくれた。でも、やっぱり段取りが悪いというか、詰めが甘いというか……腹立たしいことに、卒業式より10日ほど早くガスを止め、さらに洗濯機を持っていきやがった。
だから私は、卒業式までの数日、コンビニ弁当を食べ、風呂場で下着や靴下を洗い、銭湯へ通うはめになった。
当時、私には、ひとつ年上の彼氏がいた。
実家暮らしで、心おきなく親にわがままを言え、2人の姉からも可愛がられていた彼は、千葉の私の家まで食事を持ってきてくれたりして、ずいぶん助けてくれた。そして彼は、風呂場で下着を洗う女子高生の私を眺めて、まるでドラマみたいにこう言った。
「神様は、ゆかに冷たすぎるよ」
このときの彼の泣きそうな顔を、いまでも思い出すことができる。
そして、誰に向けてでもなく、やはり「クソが」と思ったことも。
〈《ひろゆき妻の壮絶半生》「おカネを返さないとヤクザにボコボコにされてしまうんだ…」妻子を捨て事業に失敗した西村ゆかの父が見せた“深すぎる闇”〉へ続く
(西村 ゆか/Webオリジナル(外部転載))