原発の問題を考えるときに、決して忘れてはならないのが、13年前の東日本大震災で甚大な被害を受けた福島県・双葉町です。
【写真を見る】【原発事故から13年】「えー、家がない…」朽ち果てた我が家に唖然…いまだ8割以上が帰還困難区域「双葉町」はいま【報道特集】
ひとたび、原発事故が起きるとどうなるのか。双葉町では13年経った今でも極めて厳しい現実が続いていました。
原発がひとたび事故を起こすとどうなるのか。その恐ろしさに直面している町がある。福島県・双葉町だ。
日下部 正樹キャスター「線量計モニタリングポストが見えてきました。0.634マイクロシーベルト。相当数値は下がったんですけど、東京に比べるとかなり高い。特にここ数年はですね、数値が下げ止まっているという印象を強く持ちます」
最大15メートルもの巨大津波に襲われ、水素爆発を起こした福島第一原発。大量に放出された放射性物質により、町は全町避難を余儀なくされた。
4年前、駅周辺など町の一部で避難指示が解除され、おととし、ようやく人が住めるようになったが、今も町の8割以上が帰還困難区域のままだ。
日下部キャスター「川の向こうは既に除染が済んでいます。一方、こちらの方はですね、除染がまだ終わっていない場所でススキが生え放題になってるんですね。実は、ほとんどの場所、田畑も含めてですね、除染もされておらず、13年間放置されている。これが双葉町の現実です」
原発事故後、双葉町の住民は川俣町の体育館、さいたまスーパーアリーナ、旧騎西高校へと町ぐるみで避難した。
今も埼玉で避難生活を続ける鵜沼久江さん。新たに野菜作りをはじめた。
――今年はどうですか鵜沼久江さん「良くないですね」――暖冬のせい?「うん、そうですね」
震災前までは、ふるさと双葉町で夫の一夫さんと50頭ほどの牛を育てていた。だが、原発事故による全町避難でそのほとんどを失った。
鵜沼さん「ミイラですもんねこれ」――もう皮だけになっている「自分の子どもと同じ。お母さん牛は。子牛は孫と同じです。なんでこんな酷い事しなきゃなんないんだろうって」
夫の一夫さんは7年前に病気で他界した。
鵜沼さん「お父さんと2人で話してたのは、解除になって、双葉に住めるようになったら一番先に帰って農業やるんだ。農業やりたくないと思ったことは1日もないの」
先週、久しぶりの一時帰宅に同行させてもらった。バリケードの先にある自宅は、今も帰還困難区域の中。通行証がないと自由に立ち入ることができない。
自宅前の道路では、伸びきった竹が行く手を阻む。そして自宅に向かうと…
鵜沼さん「えー、家がない…。本当にない…。半分なくなっちゃったね。潰れた」――最近、潰れた?「です。ですよ」
3年前訪れた際、家はかろうじて建っていた。だが、13年間雨風にさらされ続ける中、建物は朽ち果て竹に覆い尽くされてしまった。
鵜沼さん「玄関はこのへん」――入口がなくなってしまった?「入れないですね」
玄関先には13年間干しっぱなしの洗濯物が残っていた。
鵜沼さん「この中にね、みんな埋まってるんです。アルバムも仏壇も」――ショックですね…「はい。こんなショックを感じたことはない。何にも、もう。みんながいなかったら泣いちゃいそう、ごめんなさい。はぁ…」
多くの牛たちが置き去りにされ死んでしまった牛舎。そこには…
鵜沼さん「なんかかわいそうね。こんだけ骨が。普通だったらそんな死に方しない」
牛舎の横にはかつて広大な田んぼがあった。
鵜沼さん「あそこがうちの田んぼなんです」――え?田んぼだったんですか?「だったんです」――あんなに木が生えてるのに?「そうです」
この田んぼでは毎年、牛のフンを混ぜて作った堆肥をまき、自慢の米を作っていた。もはや見る影もない。
鵜沼さん「もう何百年続けてんのかわかんないですけど、ずっとやってきた。まだまだ農業やりましょうっていうのは程遠いですよね」
もともと双葉町は米作りが盛んで、震災前まで一面に田園風景が広がっていた。その光景は原発事故で一変してしまった。
そんな中、農業を再開させ、出荷にこぎつけた人がいる。木幡治さんだ。
木幡治さん「全部で田んぼが約40ヘクタールあるんですね」――もともと田んぼだった?「田んぼだった」
長年耕してきた田んぼの土は、栄養分を豊富に含み、作物を作るには最適だった。しかし、原発事故で汚染されてしまったため、表面を取り除くしかなかった。
木幡さん「一番きついですね。栄養分一番いいとこ全部持っていかれるわけですから」
代わりに入れられたのは山から運んできた砂だった。
木幡さん「これはやっぱり養分がないもんですから、ちょっとブロッコリー、最初、植え付けしたときは生育が大変悪くてね」
町の復興は少しずつ進んでいるものの、農業を再開するのは容易ではない。
木幡さん「震災前に戻るには、本当に10年近く黙ってかかる。でも、誰か始めていかないと誰も見てくれない。」
除染で取り除かれた放射性物質を含む大量の土の処理も課題となっている。
福島県内で出た土はいま、双葉町と大熊町にまたがる中間貯蔵施設に集められている。その中間貯蔵施設を取材した。
福島地方環境事務所 服部弘 中間貯蔵総括課長「あそこは土壌貯蔵施設と呼んでおりまして、あの中に除染で出た土が大量に保管されている」
集められた土は、現在きれいに整備され放射性物質が出ないよう新たな土が被せられている。その上に登ってみると…
――しかし、大きい。どのぐらいの大きさって言ったらいいんですかね服部弘 中間貯蔵総括課長「これは野球場以上大きいですかね」――野球場より大きいですよね「全体的には線量は下がってきている。安定的に管理ができているっていうところはですね、多くの人に知っていただきたい」
施設に運び込まれた土は、東京ドームのおよそ10個分に相当する。
この土は2045年までに、福島県外に持ち出すことが法律で決められているが、本当にできるのだろうか。
服部弘 中間貯蔵総括課長「私も直接地権者の皆さんと接する機会がありますので、皆様の思いがあるという中で、やっぱり、県外最終処分というところにつきましては、国と地元の約束になりますので、それはしっかり守っていかなければいけない」
原発事故後も、さらなる重荷を背負う現実。双葉町の伊澤町長は…
双葉町 伊澤史朗 町長「原子力災害っていうのは、自分の思いとは違うということですよね。戻りたいと思っても、これはちゃんと放射線の安全性を確認できる。その条件をクリアしなければ戻れない」
――この前も能登の地震では、”あわや”ということも考えられたわけですよね「一番先にやっぱり考えるのは、やっぱり我々はそこですよね。福島第1原子力発電所のこの大災害っていうのは、これ絶対あってはならないことが今現実にあったわけです。この災害って何なんですかって、いつも私も自問自答するんですけども、これはやはり日本のエネルギー政策だと思ってます。そういったものに犠牲になったところが、犠牲のままでいいんですか?っていうのはやっぱり常に問いたいですよね」
中間貯蔵施設になった場所には、もともと900世帯が生活していた。だが国の要請で住民らは、土地を手放さざるを得なかった。鵜沼さんもその一人だ。
――この中間貯蔵施設もすごいな、作らなくてもいいものですよね、元々鵜沼久江さん「いっぱい建ったのが怖いなって。見るたびに増えて。でもやっぱり私は、原発避難者だから、原発があるのが一番怖い。こんなに13年たっても、まだ何もできていないっていう現実があるので」