岐阜城がある金華山(岐阜市)の山上部に、庭園を備えた饗応(きょうおう)施設があった可能性を示す多数の丸い扁平(へんぺい)型の石や陶器の破片が見つかった。
発掘調査を行った岐阜市が1月31日に発表した。金華山の麓では織田信長の居館跡から大規模な庭園跡が見つかっているが、山上部で庭園の存在の可能性を示す遺物が発見されたのは初めて。
遺物が見つかったのは、岐阜城天守南側の通路西面の斜面。通路から約6メートル下の石垣下段付近を調査していたところ、石垣の前面に堆積(たいせき)していた土(奥行き約50センチ、幅約70センチ)の中から、池の水際などを飾るのに用いられる丸石「円礫(えんれき)」115点と、宴席などで使われる素焼きの陶器「かわらけ」の破片21点が出土した。
かわらけは形状などから、信長の孫で岐阜城の城主だった織田秀信時代の物とみられ、土の積もり具合や円礫の出土状況などから、1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城が落城した際に、上部から崩れ落ちたと推定している。
上部は現在幅4メートルほどの通路となっているが、一部の石垣が崩れており、現状より広かったとみられる。ここに庭的な空間と饗応施設があった可能性もあるという。
これまでの発掘調査では、山麓部の信長の居館跡で、山の岩壁を生かした人工的な滝を有する大きな庭園跡が見つかっている。当時、来訪した宣教師ルイス・フロイスは山麓の居館の豪華さに驚嘆したことを記し、山上部にも招かれたとしているが、饗応施設の存在を示す遺物や遺構は山上部では見つかっていなかった。
市は、山麓の庭園と同様に信長時代に山上部でも庭園が整備された可能性があるとみている。
市文化財保護課の内堀信雄主幹は「まさかこんな物が出てくるとは思ってもいなかった。山上部全体が居館だった可能性もあり、今まで記録に出てくる岐阜城をもう一度読み直す必要が出てきた」と驚く。
滋賀県立大の中井均名誉教授(日本城郭史)は「今回の調査結果により山上にも庭的空間があり、石垣の上部が、饗応が催された場所である可能性が出てきた。これまでイメージしていた岐阜城の姿に修正を迫る歴史的な発見と言える」とコメントしている。
岐阜県内では15世紀後半~16世紀前半の篠脇城跡(郡上市)や、大桑城跡(山県市)で山上庭園の遺構が見つかっている。
◇ 岐阜市は、発掘調査の一般向け説明会を10日午前10時~午後3時に開く。岐阜城天守東側の調査区を公開する。天守南側の調査区は危険なため非公開だが、上部の通路で資料や写真パネルを展示し、午前10時と午後2時に職員が説明する。